テッド・シュローダー (Ted Schroeder , 1921年 7月20日 - 2006年 5月26日 )は、アメリカ ・ニュージャージー州 ニューアーク 出身の男子テニス 選手。フルネームは Frederick Rudolph Schroeder (フレデリック・ルドルフ・シュローダー)というが、愛称の「テッド・シュローダー」という名前で最もよく知られている。1942年 の全米選手権 と1949年 のウィンブルドン選手権 で優勝し、4大大会 男子シングルス2勝を挙げた。ダブルスでも、同じ年の親友ジャック・クレーマー と組んで抜群の強さを発揮し、全米選手権で3勝を挙げている。彼は“トウモロコシの穂軸形のような”パイプでたばこをふかす姿も印象的な人だったという。彼が活躍した1940年代 は、第2次世界大戦 をまたぐ激動の時代であった。
来歴 [ 編集]
1940年 の全米選手権 男子ダブルスで、フレデリック・シュローダーは同じ年のジャック・クレーマー と組んで初優勝を飾った。1921年 8月1日 生まれのクレーマーは、シュローダーとは12日違いにあたる。2人は1941年 に全米選手権の男子ダブルスで2連覇を達成したが、その途中で第2次世界大戦 を経験し、終戦後の1947年 に6年ぶり3度目の全米男子ダブルス優勝を果たしている。1942年 の全米選手権で、シュローダーは男子シングルス・男子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに決勝進出を果たし、男子シングルスと混合ダブルスの2部門制覇を達成した。男子シングルス決勝ではフランク・パーカー を 8-6, 7-5, 3-6, 4-6, 6-2 で破って初優勝を飾り、混合ダブルスではルイーズ・ブラフ とコンビを組んだが、シドニー・ウッド と組んだ男子ダブルスではガードナー・ムロイ &ビル・タルバート 組に敗れ、1942年全米選手権の「ハットトリック」(3部門制覇)を逃した。シュローダーは第2次世界大戦中、アメリカ海軍 の空軍に勤務した。
第2次世界大戦が1945年 に終結した後、男子テニス国別対抗戦・デビスカップ は1946年 から開催が再開され、テッド・シュローダーは1946年 から1951年 までアメリカ 代表選手として活躍した。その期間中、アメリカは1946年 から1949年 まで「ワールドグループ」決勝でオーストラリア を破ってデ杯4連覇を達成する。1949年 、シュローダーは生涯唯一の出場となったウィンブルドン選手権 で男子シングルス優勝を飾った。その過程で、彼は7試合のうち4試合をフルセット(5セット・マッチ)で勝ち抜いたことにより、イギリスの観客から「ラッキー・テッド」“Lucky Ted”と呼ばれた。1回戦のガードナー・ムロイ 戦から始まり、(2-4回戦はストレート勝ちしたが)準々決勝のフランク・セッジマン 戦では相手のマッチ・ポイント(このポイントを取れば勝負が決まる)を2本しのぎ、3-6, 6-8, 6-3, 6-2, 9-7 で逆転勝ちした。準決勝のエリック・スタージェス (南アフリカ )戦も5セットを要し、決勝でもチェコスロバキア のヤロスラフ・ドロブニー を 3-6, 6-0, 6-3, 4-6, 6-4 で退けた。シュローダーがウィンブルドン優勝までに要した「29セット」の戦いは、見守った観客にも強い印象を残した。この年は全米選手権 でも7年ぶり2度目の決勝に進出したが、パンチョ・ゴンザレス に 18-16, 6-2, 1-6, 2-6, 4-6 で敗れてしまう。先にシュローダーが2セット・アップ(自分が2セットを先取した状態)からの逆転負けで、4大大会2連勝はならなかった。
しかしウィンブルドン優勝の翌年、1950年 にシュローダーにも力の衰えが訪れる。この年のデビスカップ ・ワールドグループ決勝で、シュローダーは対オーストラリア 戦で出場3試合すべてに敗れてしまい、アメリカのデ杯連覇を止める結果になった。そしてついに、1951年 のワールドグループ決勝でアメリカはオーストラリアに2連敗を喫し、シュローダー自身も2試合を落とした。このデ杯2連敗を最後に、シュローダーは30歳で現役を退いた。
シュローダーの親友ジャック・クレーマー は1947年 から「プロテニス選手」に転向し、当時のプロテニスツアーの運営者になった。そのため、シュローダーは何度かクレーマーからプロ選手転向への誘いを受けたが、その申し出を断り続け、生涯アマチュアの選手で通した。シュローダーの人物像については、1979年 に出版されたクレーマーの自伝『ゲーム-テニスにおけるわが40年』(The Game: My 40 Years in Tennis )に詳しい描写が残っており、本書の168-183ページで「シュロード」(Schroed)という題名の第11章を割いて(プロ選手にならなかった)親友との思い出を回顧している。
1966年 に国際テニス殿堂 入り。それから40年後の2006年 5月26日 、テッド・シュローダーはカリフォルニア州 ラ・ホーヤの自宅にて癌のため84歳で逝去した。
4大大会優勝 [ 編集]
ウィンブルドン選手権 男子シングルス:1勝(1949年) [唯一のウィンブルドン出場]
全米選手権 男子シングルス:1勝(1942年)/男子ダブルス:3勝(1940年・1941年・1947年)/混合ダブルス:1勝(1942年)
参考文献 [ 編集]
Jack Kramer , “The Game: My 40 Years in Tennis ” (ゲーム-テニスにおけるわが40年) G. P. Putnam's Sons, New York (1979) ISBN 0-399-12336-9
Martin Hedges, “The Concise Dictionary of Tennis ” (コンサイス・テニス辞書) Mayflower Books Inc., New York (1978) ISBN 0-8317-1765-3
外部リンク [ 編集]