デイ (オスマン帝国)

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アルジェのデイに表敬するアメリカ人艦長ウィリアム・ベインブリッジ、1800年ころ。

デイ英語: Deyアラビア語: داي‎、語源はトルコ語: dayı[1][2])は、オスマン帝国統治下のアルジェ摂政領英語版(後のアルジェリア)と、トリポリ[3]、それにチュニスの、それぞれの統治者に対して与えられた称号で[4]1671年以降に用いられるようになった。アルジェリアでは、1830年のフランスによる征服までの間に、29人がこの地位に就いた。

日本語では、特にアルジェのデイを指して「太守(たいしゅ)」の訳語が当てられることがある[4][5]

デイの選出は、地元の民間人、軍人、宗教指導者によって行なわれ、その地位は終身であり、オスマン帝国のスルターンからも高度の自治権が認められていた。歳入の中心は、農民への課税、宗教的献金や、地中海の貿易船を狙う海賊であるコルセアからの上納金であった。オスマン帝国の領域に入るヨーロッパでは、特に帝国の衰退期において、無法者と化した兵士(イェニチェリ)や砲兵(ヤマクス英語版)の指揮官たちが、ダヒ (Dahi) とかダヒア (Dahia) といった称号を自称したが、これはデイに由来するものである[6]

デイは、陸海軍の指揮官たち、船舶運航の責任者、財政長官、徴税官などから成る、ディヴァン (divanديوان)) と称される統治機構に支えられていた。

アルジェのデイの領域には、コンスタンティーヌティッテリ英語版マスカラを中心として、3つの行政区画が設けられており、そのそれぞれにデイが任命したベイ (beyباي) が置かれていた。

アルジェのデイによる統治は、1830年7月5日にフセイン・デイ(1765年 - 1838年)が、侵攻してきたフランス軍に降伏したことで終わりを告げた。

トリポリの最後のデイは、アフマド・カラマンリーによって殺され、代わってカラマンリー朝1711年に興った[7]

脚注[編集]

  1. ^ Merriam-Webster Online - Dey
  2. ^ Dictionary.com - Dey
  3. ^ Bertarelli (1929), p. 203.
  4. ^ a b goo辞書 dey”. NTT Resonant Inc.. 2016年3月24日閲覧。 - 出典は「ランダムハウス英和大辞典
  5. ^ 英辞郎 on the WEB 太守”. アルク. 2016年3月24日閲覧。
  6. ^ Eleanor Hulda (1910). The Servian People: Their Past Glory and Their Destiny. Charles Scibner's Sons. p. 333. https://books.google.com/books?id=nDhAAQAAMAAJ. "...Janissaries, who began to rule the provinces. Their agas and commanders took the title “Dahi,” probably from “Dey,” Dey being the title of the princes of the Barbary States of North Africa. The Janissaries ..." 
  7. ^ Bertarelli (1929), p. 204.

参考文献[編集]

  • Bertarelli, L.V. (1929) (Italian). Guida d'Italia, Vol. XVII. Milano: Consociazione Turistica Italiana. 

関連項目[編集]