デヤン・サビチェビッチ
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名前 | ||||||
愛称 | ジェニオ | |||||
ラテン文字 | Dejan Savićević | |||||
キリル文字 | Дејан Савићевић | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1966年9月15日(53歳) | |||||
出身地 | ポドゴリツァ | |||||
身長 | 180cm | |||||
体重 | 77kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW/MF | |||||
利き足 | 左足 | |||||
代表歴 | ||||||
1986-2000 |
![]() ![]() | 56 | (20) | |||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
デヤン・サヴィチェヴィッチ(Dejan Savićević、キリル文字:Дејан Савићевић 、1966年9月15日 - )は、ユーゴスラビア(現・モンテネグロ)・ポドゴリツァ出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはMF、FW。ニックネームはファーストネームからデーヨ。現役時代はジェーニオ(イタリア語で天才)の他、悪魔のドリブラー等と呼ばれた。現モンテネグロサッカー協会会長。
経歴[編集]
クラブ[編集]
サビチェビッチはOFKチトーグラードの下部組織でサッカーを学び、1982年にブドゥチノスト・チトーグラードへ入団し、15歳でリーグ戦デビューを飾った。その後1988年にレッドスター・ベオグラードへ移籍すると、リーグ3連覇に貢献するなどクラブの全盛期を支えた。UEFAチャンピオンズカップ 1990-91ではロベルト・プロシネツキ、ダルコ・パンチェフらと共に優勝に貢献。1991年12月のトヨタカップではユーゴビッチの決勝ゴールとなった先制点をアシスト、前半終了間際に退場処分を受けたが、チリのCSDコロコロを3-0で下しタイトルを獲得。同年のバロンドールでは同僚のパンチェフやドイツのローター・マテウスと同率の2位に選ばれた[1]。
1992年にイタリアのACミランへ移籍。1992-93シーズンは2節のペスカーラ戦で先発しデビューを飾るが、ルート・フリットやマルコ・ファンバステンらといったスター選手を擁したチームの中で外国人枠の問題もあって出場機会に恵まれなかった[2] 。17節ジェノア戦で初ゴールを決める。1993年のトヨタカップでは出場予定であったが、ミランが大会の外国人枠のレギュレーションを勘違いしたため、スタンド観戦となった。
1993-94年シーズン後半よりファビオ・カペッロ監督の信頼を得てレギュラーに定着、セリエA優勝、UEFAチャンピオンズリーグ優勝に貢献、UEFAチャンピオンズリーグ決勝のFCバルセロナ戦では22分に右サイドのドリブル突破からダニエレ・マッサーロの先制点をアシスト。47分にはミゲル・アンヘル・ナダルを振り切り、アンドニ・スビサレッタの頭上を越すループシュートを決める活躍などで4-0でバルセロナに大勝しタイトル獲得に貢献した[3]。
1994-95年シーズン、準決勝第2戦のPSG戦では2得点[4]、UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95決勝進出に貢献したが、怪我のため決勝を欠場しミランは敗れた。
1995-96年シーズン、バッジオが加入、どちらが背番号10番を背負うべきかの論争が起きたが、バッジオは「デヤン以外にミランの10番は考えられない。」と10番を譲った[5]。この年再びリーグ優勝に貢献。
カペッロは「彼とは口論が絶えなかった。彼は練習も余りせず、ピッチでも手を抜いていた。そのためほかの選手は普段の2倍の運動量を強いられた。しかしそれでも彼を起用したのは、特別な才能が有ったからだ」と語った。[6]。
1998年6月にミランを退団。翌1999年1月の古巣のレッドスター・ベオグラードに復帰し5ヶ月間在籍。
1999-00シーズンからはオーストリアのラピード・ウィーンへ移籍し、2001年限りで現役を引退した。
ユーゴスラビア代表[編集]
ユーゴスラビア代表としては1986年10月29日のトルコ戦で代表デビュー。代表やレッドスターでは親友でもあるドラガン・ストイコビッチに10番を譲って8番を着けることが多かったが1988年3月30日に行われたイタリア戦(パオロ・マルディーニの代表デビュー戦)だけはサビチェビッチが10番、ストイコビッチが7番を着けてプレー。この試合でセンタリングから1アシストを記録した。なおクラブ・代表試合を含め2人が共に出場した試合でサビチェビッチが10番をつけた試合は後にも先にもこの試合だけである。
1990年のワールドカップ・イタリア大会では準々決勝進出に貢献したが、代表としてはユーゴスラビア内戦による混乱などから国際舞台への出場を断たれた事もあり、UEFA EURO '92や1994年のワールドカップ・アメリカ大会など全盛期に開催された大会には出場成らず。キャリアの晩年に差し掛かった1998年のワールドカップ・フランス大会で2大会ぶりのワールドカップ出場を果たし、翌1999年に代表から退いた。
引退後[編集]
引退後の2001年にユーゴスラビア代表監督に就任したが、ワールドカップ・日韓大会予選では敗退。2003年6月に行われたUEFA EURO 2004予選、アゼルバイジャン戦を1-2で落とすと監督を辞任した。セルビア・モンテネグロ代表監督通算成績は4勝11敗2引き分けである。
2004年からはモンテネグロサッカー協会会長を務めている。
所属クラブ[編集]
- 1982-1988
ブドゥチノスト・チトーグラード
- 1988-1992
レッドスター・ベオグラード
- 1993-1998
ACミラン
- 1999
レッドスター・ベオグラード
- 1999-2001
ラピード・ウィーン
指導歴[編集]
- 2001-2003
ユーゴスラビア代表監督
獲得タイトル[編集]
レッドスター[編集]
- ユーゴスラビアリーグ:3回 (1989-90, 1990-91, 1991-92)
- ユーゴスラビアカップ:1回 (1989-90)
- UEFAチャンピオンズカップ:1回 (1990-91)
- インターコンチネンタルカップ:1回 (1991)
- ユーゴスラビア/セルビア・モンテネグロカップ:1回 (1998-99)
ACミラン[編集]
- セリエA:3回 (1992-93, 1993-94, 1995-96)
- イタリアスーパーカップ:2回 (1993, 1994)
- UEFAチャンピオンズリーグ:1回 (1993-94)
- UEFAスーパーカップ:1回 (1994)
個人タイトル[編集]
- ユーゴスラビア最優秀アスリート (1991)
- ベオグラードスポーツ協会ベストスポーツマン賞 (1991)
- ユーゴスラビア最優秀選手 (1995)
- 6スターズオブレッドスター (1991)
脚注[編集]
- ^ Ballon d’Or Winners-liveabout.com
- ^ Interview 2010
- ^ Barcelona mesmerised by magic of Milan: Italians champions ignore their status as underdogs to reach Olympian heights in the humiliation of Spaniards , The Independent, 19 May 1994
- ^ AC Milan vs Paris Saint Germain - UEFA.com
- ^ ファンタジスタ50 (NSK mook サッカーダイジェスト 94ページから
- ^ ワールドサッカーキング 2018、10月号増刊チャンピオンズリーグ特集 71ページから
外部リンク[編集]
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