トマス・クランマー
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トマス・クランマー Thomas Cranmer | |
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カンタベリー大司教 | |
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教会 | イングランド国教会 |
着座 | 1533年12月3日 |
離任 | 1555年12月4日 |
前任 | ウィリアム・ウォーラム |
後任 | レジナルド・ポール |
聖職 | |
司教/主教 | 1533年5月30日 |
個人情報 | |
出生 |
1489年7月2日![]() |
死去 |
1556年3月21日![]() |
トマス・クランマー(Thomas Cranmer 1489年7月2日 - 1556年3月21日)は、カンタベリー大司教。イングランドの宗教改革の指導者であり殉教者。
生涯[編集]
ケンブリッジ大学教授であったトマス・クランマーはヘンリ8世の離婚問題に就いてヘンリ8世に、抑々キャサリンとの結婚は無効であったと助言しキャサリンとの離婚とアン・ブーリンとの再婚を承認した。その為ヘンリ8世と共にクレメンス7世 (ローマ教皇)に破門された[1]。 大司教ウィリアム・ウォーアムが1532年に死去し、国王ヘンリー8世はその後継者を探し始めた。国王の右腕だったトマス・クロムウェルは当時ケンブリッジ大学の教授だったトマス・クランマーを就任させるべきだと進言し、その翌年クランマーはカンタベリー大司教に就任した。1548年に聖公会祈祷書を完成させた。ちなみに、『ユートピア』の著者として知られるトマス・モアは国王の離婚を痛烈に批判し、この時期に処刑されている。
次のエドワード6世もイングランド国教会を全面的に推奨した。エドワード6世の治世が始まると、クランマーは更に積極的に宗教改革を推し進めた。
ところがメアリー1世が即位すると、女王はイングランドをカトリックの国家にするという意思を表明、国教会の人々は苦境に立たされた。メアリーはプロテスタントを迫害し、女性子供を含む約300人を処刑したため、ブラッディ・マリー(血まみれマリー)と呼ばれた[2][3]。プロテスタントの教役者達は片っ端から逮捕され、クランマーもその例外ではなかった。最後までローマ・カトリックへの復帰を拒否したクランマーに対し女王は処刑命令を出し、1556年3月21日に彼はオックスフォードで火炙りにされた。処刑されたプロテスタントの殉教者の中には、ヒュー・ラティマー、ニコラス・リドリーらがいる。
脚注[編集]
発表された主な論文[編集]
- Book of Common Prayer (1549年)
- Ten Article
- Defense of the True and Catholic Doctrine of the Sacrament (1550年)
- Forty-two Articles (1553年)