トラファルガーの海戦

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トラファルガーの海戦
Turner, The Battle of Trafalgar (1806).jpg
トラファルガーの海戦(ターナー画)[1]
戦争ナポレオン戦争
年月日1805年10月21日
場所スペイン南部トラファルガー岬
結果イギリスの勝利
交戦勢力
Flag of the United Kingdom.svg イギリス Flag of France (1794–1815, 1830–1958).svg フランス帝国
スペインの旗 スペイン王国
指導者・指揮官
Naval Ensign of the United Kingdom.svg ホレーショ・ネルソン 
Naval Ensign of the United Kingdom.svg カスバート・コリングウッド
フランスの旗 ピエール・ヴィルヌーヴ
スペインの旗 フェデリコ・グラビーナ
戦力
戦列艦 27
フリゲート 4
その他 2
戦列艦 33
フリゲート 5
その他 2
損害
喪失艦 0

死者 449
戦傷 1,214
水没艦 1
拿捕艦 18
死者 4,480
戦傷 2,250
捕虜 7,000

トラファルガーの海戦(トラファルガーのかいせん、: Battle of Trafalgar: Bataille de Trafalgar)は、1805年10月21日に、スペイン南西部トラファルガー岬の沖合いにおいて、イギリス艦隊とフランス・スペイン合同艦隊の間で行われた海戦。ナポレオン戦争期間中の最大規模の海戦となり、イギリス側が勝利してフランスは海上戦力の大半を喪失した。

イギリス艦隊司令官ホレーショ・ネルソンはこの戦いの中で命を落とす事になったが、彼が戦闘開始時に発した「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」の信号は名文句として後世に残された。

なお、この海戦の勝利の重要さが明確に認識されるようになったのはナポレオン戦争が終結した後であり、海戦の発生理由もイギリス本土防衛に直接起因するものではなかった。海戦後の1806年以降、ヨーロッパの覇権を握ったナポレオン大陸封鎖令を強化するにつれて、トラファルガーでフランス艦隊を壊滅させておいた事に対する戦略的意義が高まり始めた。ナポレオンの敗北後、トラファルガー海戦の結果が終始イギリスの優位性を支えていたと分析された事から、ネルソンは救国の英雄として称えられるようになった。

海戦までの流れ[編集]

当時の英仏情勢[編集]

1803年5月、アミアンの和約を破棄したイギリスは同時にフランスへ宣戦し両国は交戦状態となった。英仏の戦いはまず海上の通商破壊戦から始まった。イギリス海軍の戦力はフランス海軍を大きく上回っていたので、大西洋地中海の制海権はイギリス側に握られる事になった。フランス海軍は外洋へ出る度にイギリス海軍に攻撃されては母港へ逃げ返る事を余儀なくされたので、小船団だけでなく主力艦隊でさえもそれぞれの軍港から一歩も出られない事実上の封鎖状態に置かれていた。時の権力者ナポレオンはフランスに忠実な同盟国となっていたスペイン王国の海軍に協力を求めて、この追加戦力に一縷の希望をつなげていた。

当時のフランス海軍は、ブレスト軍港とトゥーロン軍港に主力艦隊を配置していた。またスペイン海軍はカディス軍港に主力艦隊を配備していた。いずれの艦隊もイギリス海軍の強力な封鎖網に太刀打ち出来ず、隙を見計らっては小部隊を出港させるだけに留まっていた。一方、イギリス海軍はイギリス海峡に主力艦隊を展開して同時にブレスト艦隊を封鎖し、また地中海ではホレーショ・ネルソンが地中海艦隊を指揮してトゥーロン艦隊を抑え込んでいた。

ナポレオンのイギリス上陸作戦[編集]

1804年5月、第一帝政を樹立したナポレオンは、イギリス本土を望むドーバー海峡に面したブローニュの地に大規模なイギリス遠征軍を集結させた。1805年1月までに2500隻の上陸用船舶を海峡沿岸に用意させたが、その突入にはフランス艦隊の援護が不可欠であった。1805年3月、幾度かの失敗を経てナポレオンは海軍出撃計画をこの様に決定した。

  1. ブレスト艦隊とトゥーロン艦隊が共に出撃してイギリス封鎖艦隊を破った後に、イギリス海軍の追跡を撒く為に大西洋を西へ横断してカリブ海諸島に向かう。
  2. トゥーロン艦隊はその道中でカディス軍港に向かい、スペイン海軍のカディス艦隊を戦列に加える。
  3. カリブ海諸島で合流した三艦隊は、大西洋を東へ横断してイギリス海峡に展開するイギリス主力艦隊に殴り込みをかける。
  4. 英仏両艦隊が交戦してる隙に、ブローニュのフランス陸軍がドーバー海峡を渡る。

ヴィルヌーブ艦隊の出航[編集]

ヴィルヌーブ

1805年3月30日、ピエール・ヴィルヌーヴが指揮するトゥーロン艦隊が出港し、地中海に展開するネルソン艦隊を暴風雨による隙を突く形で回避して、4月8日にジブラルタル海峡を突破する事に成功した。カディスに向かったヴィルヌーブは、少数だったイギリス艦隊を追い払ってスペイン海軍のカディス艦隊と合流し、そのまま大西洋を西へ横断して5月12日にカリブ海諸島に到着した。そこでブレスト艦隊の到着を待ったが、ブレスト艦隊の方はイギリスの海上封鎖を突破出来なかったので、ヴィルヌーブはカリブ海で約1ヶ月半を無為に過ごす事になった。計画の変更を余儀なくされたナポレオンは、ヴィルヌーブに再び大西洋を横断してブレスト軍港に向かい、内側のブレスト艦隊と呼応してイギリス封鎖艦隊を破り合流を果たすよう指示を出した。

フィニステレ岬の海戦[編集]

1805年7月9日、ナポレオンからの命令書を受け取ったヴィルヌーブはカリブ海から出航し、大西洋を東へ横断して、7月22日にスペイン北西部にあるフィニステレ岬の沖合いに到着した。この動きを掴んでいたイギリス海軍のビスケー湾艦隊は、ここでヴィルヌーブ艦隊に攻撃を仕掛けた(フィニステレ岬の海戦)。ヴィルヌーブは敗走しスペイン北西部のフェロル軍港に艦隊を退避させた。ナポレオンがブレスト軍港への突入命令を繰り返したので、8月10日にヴィルヌーブはフェロル軍港を出たが、イギリス艦隊の圧力に押されて南に針路変更し、今度はカディス軍港へと退避した。

この時点でナポレオンはイギリス上陸作戦を断念したとされる。8月下旬にブローニュの遠征軍陣地を引き払ったナポレオンは、その軍勢を内陸部のドイツ方面へ移動させて、イギリスと同盟していたオーストリア軍と交戦する事になった。一方、ネルソンは地中海艦隊の一部を率いてヴィルヌーブを追走していたが、カリブ海に到着した所で入れ違いとなったので、8月上旬までにイギリス本土へ帰還していた。

トラファルガーの海戦へ[編集]

ネルソン

1805年8月15日、四ヶ月前の封鎖突破戦で大きな被害を受けていたブレスト艦隊の弱体化を確認したイギリス海軍は、イギリス海峡に展開していた戦力からコリングウッド艦隊を割いて、ヴィルヌーブ艦隊が立て篭もるカディスへと向かわせた。また、9月15日にはビスケー湾艦隊もカディス近海に到着し、旗艦「ヴィクトリー」に乗るネルソンが9月28日に赴任して艦隊指揮権を受け取った。

この頃、ナポレオンは交戦するオーストリアと同盟したナポリ王国へも侵攻軍を差し向けており、イギリス相手が無理ならばとヴィルヌーヴに地中海へ入ってナポリ王国を海上から攻撃するように命じた。その命令書は9月16日にカディスに届いたが、ジブラルタル海峡を突破出来る自信の無いヴィルヌーブは出撃を渋り続けた。10月18日になってようやくヴィルヌーブ艦隊はカディスを出発し南航しつつジブラルタル海峡へと向かった。しかし、20日にイギリス艦隊の接近を察知して心変わりしたヴィルヌーブは艦隊を北に反転させて再びカディス軍港に戻る事を決めた。10月21日午前、ヴィルヌーブ艦隊はカディスとジブラルタルの中程にあるトラファルガー岬沖合いを北に進んでいた。これを捕捉したネルソン艦隊とコリングウッド艦隊が西側からフランス・スペイン艦列へ一斉突入し、海戦の火蓋が切られた。

両軍の戦力[編集]

イギリス海軍[編集]

総旗艦は「ヴィクトリー」であり、ネルソン中将が総指揮を取った。単縦陣の両艦隊は南北に並列し、この艦名記載順に並んでいた。

戦列艦ヴィクトリー

ネルソン艦隊 旗艦「ヴィクトリー」副旗艦「ブリタニア」

コリングウッド

コリングウッド艦隊 旗艦「ロイヤルソヴリン」

  • 一等戦列艦「ロイヤルソヴリンコリングウッド中将座乗
  • 戦列艦 9隻
  • 二等戦列艦「ドレッドノート」
  • 戦列艦 3隻
  • 二等戦列艦「プリンス

補助艦艇

  • フリゲート艦 4隻
  • スクーナー船 1隻
  • カッター船 1隻
  • 戦列艦 1隻

フランス・スペイン海軍[編集]

総旗艦は「ビューセントル」であり、ヴィルヌーブ中将が総指揮を取った。彼はスペイン艦隊の単独行動を防ぐ為に、あえて各団をフランス艦とスペイン艦の混成にしていた。元からの士気の低さと前日の突然の針路反転で艦列は乱れており、旗艦とは別の船が間に合わせの先導艦になっている状態だった。各団は部分的に混在していたが、概ねこの艦名記載順に並んでいた。

戦列艦フォルミダブル

第1団 旗艦「フォルミダブル」

  • 戦列艦 3隻
  • 二等戦列艦「フォルミダブルル・プレ少将座乗(仏)
  • 戦列艦 2隻
  • 一等戦列艦「ラヨ」(西)
  • 戦列艦 1隻
戦列艦ヌエストラセニョーラデラサンティシマトリニダード

第2団 旗艦「ビューセントル」副旗艦「ヌエストラセニョーラデラサンティシマトリニダード」

グラヴィーナ

第3団 旗艦「アルヘシラス」

  • 戦列艦 3隻
  • 二等戦列艦「アルヘシラス」ド・メジーヌ少将座乗(仏)
  • 戦列艦 5隻

第4団 旗艦「プリンシペデアストゥリアス」副旗艦「サンタアナ」

  • 一等戦列艦「サンタアナ」ナヴァレテ中将座乗(西)
  • 戦列艦 4隻
  • 一等戦列艦「プリンシペデアストゥリアス」グラヴィーナ大将座乗(西)
  • 戦列艦 1隻

補助艦艇

  • フリゲート艦 5隻
  • ブリッグ船 2隻

海戦[編集]

ネルソンタッチ(11:45~12:20)[編集]

ネルソンタッチの図

午前11時45分、北縦隊(ネルソン中将)と南縦隊(コリングウッド中将)による二列縦隊を組ませたネルソンは、フランス・スペイン合同艦隊への突入命令を下し「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」の旗信号を送った。後に「ネルソンタッチ」と呼ばれるこの艦隊移動は、敵艦と接触するまでの間は相手からの一方的な砲撃に晒され、被弾時は砲弾が船体上を縦断して大きな被害を出す危険な行動であった。ネルソンは敵艦隊をカディス軍港へ逃げ込ませない為に、あえてこの捨て身の体当たり戦法を用いる事にし、また分断した敵前衛が後方への回頭を終えるまでの間遊兵にする狙いもあったとされる。

12時00分、西側から急速接近して来るイギリス艦隊を視認したヴィルヌーブは、各団の旗艦に隊列を揃えさせて一筋の艦隊ラインを築くよう旗信号を掲げ、第1団(ル・プレ少将)、第2団(ヴィルヌーブ中将)、第3団(ド・メジーヌ少将)、第4団(グラヴィーナ大将)が北から南に向けてある程度整列した。しかし、第3団と第4団は混在状態のままで複数の艦が東西に重なっていた。

続けて戦闘準備を命じたヴィルヌーブは全戦列艦の砲門を開かせて西側に向けた一斉砲撃を開始した。縦隊で突き進むイギリス各艦は砲弾の雨に見舞われたが、長期の航海で疲弊していたフランス砲手達の士気と錬度は低く、また敵船体を狙った水平砲撃ではなく、マストと帆を標的にする上向き砲撃を行った事が更に命中率を下げたので、イギリス各艦は至近距離に到るまで大きな損傷を被らなかった。

両艦隊の衝突(12:20~13:00)[編集]

突入する英艦隊
入り乱れる両艦隊

12時20分、北縦隊を率いるネルソンはフランス第1団に向けていた針路を突如南に45度変え、第2団に向けて突入させた。これは敵先導艦を牽制して速度を落とさせる為のフェイントだった。コリングウッド提督率いる南縦隊はフランス第3団と第4団の混在艦列に向かって直進し続けていたので、その旗艦「英ロイヤルソヴリン」が最初にフランス艦列に接触した。

12時25分、「英ロイヤルソヴリン」は第4団副旗艦『西サンタアナ』の船尾側を掠めるように接触した後に、砲弾を撃ち込みながら北へ舵を切って強行接舷した。旗艦「英ロイヤルソヴリン」の突入後、南縦隊前衛の各艦は南へ広がるようにして斜めに航進し、それぞれが標的を定めたフランス第3団の各艦に突入していった。南縦隊後衛の「英ドレッドノート」「英プリンス」以下3隻は更に南へ角度を取り、フランス第4団旗艦「西プリンシペデアストゥリアス」の攻撃に向かった。

12時40分、北縦隊の旗艦「英ヴィクトリー」もフランス艦列に到達し、第2団旗艦『仏ビューセントル』に衝角突撃した。北に移動する『仏ビューセントル』はこれを掠めるようにしてかわしたが、その船尾に対して開かれた「英ヴィクトリー」左舷の全砲門から多数の至近砲弾を撃ち込まれ船体後部を粉砕された。『仏ビューセントル』を救うべく、その近くにいた『仏ネプチューネ』『仏ルドゥタブル』もそれぞれ砲門を向けて無数の砲弾を「英ヴィクトリー」に撃ち込み続けた。

12時50分、『仏ビューセントル』後方を通過した「英ヴィクトリー」は敵艦列の真っ只中に飛び込む形となり、船体のあらゆる箇所を撃ち砕かれながら南東へ進み『仏ルドゥタブル』と衝突した。北縦隊2番艦「英テレメーア」も南東へ舵を切って『仏ルドゥタブル』の攻撃に向かった。3番艦の「英ネプチューン」は北東へ船首を向け『西ヌエストラセニョーラデラサンティシマトリニダード』に突撃した。「英ヴィクトリー」の近接砲撃で半壊状態となった『仏ビューセントル』には4番艦「英リヴァイアサン」と5番艦「英コンカラー」が襲い掛かり、それぞれ接舷して海兵隊を斬り込ませた。

ネルソン提督の負傷(13:00~13:30)[編集]

銃弾を受けたネルソン

13時00分、「英ヴィクトリー」と『仏ルドゥタブル』は互いに帆と索具が絡み合って身動きが取れなくなり、双方が海兵隊を繰り出して銃撃の応酬と白兵戦が甲板上で繰り広げられた。この乱戦の中でネルソンは、マスト上にいたフランス狙撃兵に左胸を撃ち抜かれて瀕死の重傷を負った。

『仏ルドゥタブル』の海兵隊は錬度が高く、イギリス海兵を押し返した後に「英ヴィクトリー」へ乗り込もうとしたが、そこに来援した「英テレメーア」海兵隊からの一斉射撃になぎ倒されて大きな被害を出した。

ヴィルヌーブ提督の降服(13:30~14:00)[編集]

大破したビューセントル
ルドゥタブルの死闘

13時30分、「英リヴァイアサン」と「英コンカラー」に包囲されて海兵隊の移乗攻撃を受けたフランス第2団旗艦『仏ビューセントル』が白兵戦の末に降服した。こうしてヴィルヌーブは早々に捕虜となった。この頃、遊兵と化していたフランス第1団は単縦陣のまま後方の味方に加勢する為に西への回頭運動を行っている最中だった。また北縦隊の副旗艦「英ブリタニア」以下の6隻もフランス第2団の艦列に突入し、この方面ではイギリス側が一気に優勢となった。

13時55分、北縦隊旗艦「英ヴィクトリー」相手に奮戦していた『仏ルドゥタブル』であったが「英テレメーア」にも挟撃された事で力尽き、ついに降服した。『仏ルドゥタブル』の乗員死傷率は8割を越えておりフランス艦隊内で最も死力を尽くして戦った船となった。

イギリス南縦隊の前衛10隻とフランス第3団の9隻は、それぞれがほぼ一対一で接舷しながら交戦しており、海兵隊の力量で勝るイギリス側が徐々にフランス側を圧倒しつつあった。イギリス南縦隊の後衛5隻は「英プリンス」が中心になる形でフランス第4団に突進し、こちらでは派手な砲撃戦が繰り広げられていた。

各艦の制圧(14:00~15:30)[編集]

制圧と拿捕

14時00分、北縦隊旗艦「英ヴィクトリー」以下5隻はそれぞれ敵艦に接舷して混戦状態にあったが、後衛の副旗艦「英ブリタニア」以下6隻は単縦陣のままフランス第2団各艦への砲撃を繰り返した後に今度は西へ舵を切って、その針路先で回頭運動を終えていたフランス第1団の追撃に向かった。

14時15分、南縦隊旗艦「英ロイヤルソヴリン」が接舷する第4団副旗艦『西サンタアナ』を制圧して降服に追い込んだ。また、第3団旗艦『仏アルヘシラス』も接舷交戦の末に突入したイギリス海兵隊に甲板上を制圧されて拿捕された。

14時30分~、ここからはイギリス各艦の接舷攻撃と海兵隊の移乗攻撃によってフランス第2団および第3団の各艦が次々と制圧されていき、降服したフランス戦列艦とスペイン戦列艦はおよそ10隻を数えた。敵艦拿捕の報せは総旗艦「英ヴィクトリー」に逐一届けられて死の間際にあったネルソンを満足させていた。

戦闘海域の西方にいた第1団旗艦『仏フォルミダブル』以下フランス艦3隻は、友軍への加勢を諦めてそのまま南へ航行し戦線離脱を図った。第1団所属の『西ラヨ』以下スペイン艦2隻は別行動を取って北方へと退避した。フランス第4団は旗艦『西プリンシペデアストゥリアス』を主軸にして奮戦していたが、北方の友軍の劣勢を目の当たりにして士気が低下する中で徐々に戦列が乱れ、そこにイギリス南縦隊の「英プリンス」以下2隻が更に接近して『西プリンシペデアストゥリアス』に多数の砲弾を撃ち込んだ。

グラヴィーナ提督の離脱(15:30~17:00)[編集]

海戦の終焉

15時30分、第4団旗艦『西プリンシペデアストゥリアス』上のグラヴィーナ提督が砲弾の破片で負傷し、戦局の不利を悟った彼は戦線離脱を命じた。グラヴィーナ提督は視認出来る限りの味方艦に向けて信号旗を掲げ、およそ10隻のフランス艦とスペイン艦を旗艦周辺に集めながら南東方向への退却移動を開始した。

16時00分、「英ネプチューン」と数時間に渡って交戦していた第2団副旗艦『西ヌエストラセニョーラデラサンティシマトリニダード』が降服した。大勢は決し、イギリス艦隊の勝利が確定した。ここからは残存艦艇の掃討戦となり、更に数隻のフランスないしスペイン戦列艦が拿捕された。フランス第2団の主要艦の一つ『仏ネプチューネ』は北東方面へ逃れる事が出来た。

16時30分、総旗艦「英ヴィクトリー」の甲板上で瀕死の状態にあったネルソンが「神に感謝する。私は義務を果たした。」の言葉と共に絶息した。

海戦の結果[編集]

日が暮れかかった18時頃までに各艦艇の交戦状態は解かれ、イギリス艦隊の圧倒的勝利で戦いは終わった。フランス・スペイン合同艦隊は、18隻の戦列艦が捕獲され、1隻の戦列艦が弾薬引火による大爆発で水没していた。死傷者は6,000名を数え、総指揮官ヴィルヌーヴを始めとする7,000名が捕虜となった。激戦だったのでおよそ半数の捕獲艦が損傷の大きさから牽引時に難破して海上放棄された。イギリス艦隊の喪失艦は無く、戦死者は400名、負傷者は1,200名であった。しかし、総指揮官ネルソンを失った。

両軍の被害

ネルソン提督の亡骸を乗せたイギリス艦隊旗艦「英ヴィクトリー」は、応急修理を受ける為にイギリス領ジブラルタル軍港に向かい、その後イギリス本土へ帰還した。他の損傷の激しい戦列艦も同様にジブラルタルに向かい、軽微で済んだ戦列艦はそのままカディス近海で遊弋した。フリゲート艦は逃走した敵艦の追跡に向かった。

グラヴィーナ提督が率いるスペイン・フランス艦艇群は、夜陰に紛れた航行の後にトラファルガー岬から20km先にあるスペイン領カディス軍港に帰着した。『仏ネプチューネ』『西ラヨ』その他もまたカディス軍港に避難していた。『仏フォルミダブル』以下フランス艦3隻は、当初の地中海に向かう南航から北へ針路を変えてビスケー湾に入りフランス領ロシュフォール軍港を目指したが、その途中の11月4日にイギリス艦隊に捕捉されて交戦の末に全艦拿捕された(オルテガル岬の海戦)。これを以ってトラファルガー海戦を中心にして行われた一連の海上戦役は終結した。

海戦後の影響[編集]

フランス側[編集]

カディス帰港レポート

ヴィルヌーブ艦隊の敗北と、カディス軍港に帰還出来たフランス戦列艦がわずか5隻という報告を受けたフランス皇帝ナポレオンは、これを嵐による海難である事にして黙殺した。ナポレオンもヴィルヌーブ艦隊内の窮乏と疲弊を無視した無謀な出撃命令で海上戦力と海軍人材を失い、後々の海軍作戦の芽まで潰してしまった事を後悔していたとされる。

当時のフランス海軍では1814年までの期間で100隻以上の戦列艦建造計画が進められており、ナポレオンのヨーロッパ制覇による市場の独占で財政面の弊害も無かった事から、海軍の根幹が残っていれば十分に実現可能だった。これに対して1814年のイギリス海軍の戦列艦稼働数は、ナポレオンが実施した大陸封鎖令による財政難の煽りを受けて最大99隻となっていた。艦隊を温存してあと一定の年数を待てば、フランス海軍は数の力を以ってイギリス海軍と互角に渡り合えるだけの戦力を持てた可能性があり、その時こそイギリス上陸作戦も夢ではなくなっていた。ナポレオンが1804年から非現実的なイギリス上陸作戦を盛大に進めた背景には、共和主義革命をないがしろにした自身の皇帝即位に対する国内不満を逸らす目的もあったと考えられている。

イギリス側[編集]

Battle of Trafalgar Poster 1805.jpg

イギリスでは海戦勝利の報せに国内が沸き返ると共に、ネルソン提督の偉業が大々的に称えられた。この戦勝を記念して造られたのがロンドンのトラファルガー広場であり、その中央にはネルソン提督の記念碑が建てられている。敵対するフランスの海上戦力をほぼ消滅させた事で各海域の封鎖艦隊の労力が大幅に軽減され、財政的にも戦略的にも大きなゆとりが生まれた。1807年の対デンマーク作戦も有利に進められ、デンマーク艦隊がフランス海軍に編入される事を防いだ。しかし、トラファルガー海戦の二ヶ月後に発生したアウステルリッツの戦いで、ナポレオンがオーストリアを屈服させたニュースを聞いたイギリス首相ウィリアム・ピットは、ヨーロッパ市場の喪失を予期して翌年失意の内に病死した。ピットの予感は的中し、1806年から実施されたイギリス製品の締め出しを目的とする大陸封鎖令は、ナポレオンの快進撃に伴いヨーロッパ全域に広げられ、通商活動を阻害されたイギリスは深刻な財政難に見舞われる様になった。

同時にここからトラファルガー海戦の結果がただの勝利を越えて、より高く評価されるようになった。もしフランス海軍が元のまま残存していたならば、ヨーロッパ市場の独占で財政が潤うフランスは大量の戦列艦を建造して再度の上陸作戦を敢行し、反対に財政難に陥るイギリスの戦列艦保有数は現状に制限されて対抗が困難となり、イギリスは危機に瀕していただろうと考えられた。フランス海軍は艦艇に加えておよそ8,000名の海軍勤務経験者をも失っており、人材面からも近年中の再建は不可能となっていた。これも全てトラファルガー海戦がもたらした結果であった。

イギリスでトラファルガー海戦の真価が見直されるに伴い、対するフランスではトラウマ的事件と認識されるようになって、衝撃的な敗北を示す「トラファルガー」の比喩語が生まれた。モーリス・ルブランの冒険推理小説『ルパン対ホームズ』において、フランスの怪盗アルセーヌ・ルパンがイギリスの名探偵シャーロック・ホームズに送りつけた挑戦状の中で「トラファルガーの敵討ち」と挑発しているように、その後の英仏の対決においてたびたび引き合いに出されるようになったのである。

関連作品[編集]

パソコンゲーム
漫画

脚注[編集]

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  1. ^ 荒川裕子『もっと知りたいターナー 生涯と作品』東京美術、2017年、32頁。ISBN 978-4-8087-1094-1。

参考文献[編集]

  • ジョン・テレン 著、石島晴夫 訳 『トラファルガル海戦』 原書房、2004年、ISBN 4562037792
  • ロイ・アドキンズ 著、山本史郎 訳 『トラファルガル海戦物語』 原書房、2005年、ISBN 4562039612(上巻)、ISBN 4562039620(下巻)
  • 両角良彦 著、反ナポレオン考 <新版> 朝日選書、1998年、ISBN 4022597151
  • Encyclopedia Britannica