ナポレオン三世の馬

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本項目では、フランスの皇帝ナポレオン三世慶応または文久年間に江戸幕府に対して贈ったアラブ種)について記述する。

概要[編集]

1860年頃、西ヨーロッパでは微粒子病によりカイコが壊滅に近い状態に打撃を被った[1][2][3]。これに対し、江戸幕府はフランスに蚕紙3万枚を2回に分けて寄贈。フランス側は返礼としてナポレオン三世から徳川家茂宛にアラビア馬(アラブ種)を贈った[4][5]。外務省[6]では蚕紙は1500枚と15000枚としている。

到着と幕府による飼育[編集]

1863年(文久3年)、公使に蚕紙寄贈云々勘定奉行に記録が残る[7]

1865年3月(元治2年2月)最初の蚕紙が贈られ、9月(旧8月)には次の蚕紙を送る旨、幕府側からフランス側に通知、10月19日(旧8月30日)に発送され、翌年、ロッシュが自身所有のアラビア馬1頭を将軍へ進呈する旨伝えている、と外務省資料[6]にある。

1867年(慶応3年)、馬の到着前から、現白井市の名主で目付牧士[8]川上次郎右衛門ほか30人が横浜に行き、フランス人から飼育伝習を受けたと、白井市の資料[9]にある。

5月15日、綿貫夏右衛門と牧士、ほかに、別当という馬係26人に、伝習御用が命じられたと、『千葉県の歴史』[10]にある。牧士らは、5月18日に横浜に行き、27日に戻って来た時には全員が洋装になっていた[9]

新暦5月29日、馬はアルジェリアからフランス軍事顧問団の本隊より後、横浜に到着と、澤護(敬愛大学)は、論文[11]に記している。輸送担当はシモン・カズヌーブ[12]で、社会情勢も分析した上で、文久は慶応(『輸入種牛馬系統取調書』[13]の1860年は1866年)の誤りで、文久年間の送付説を明快に否定している。当時の技術では、蚕卵の送付は夏には行えず、澤に従えば、1866年初頭フランス着で、8月20日まで家茂の死去も秘されており、馬の送り先は家茂である。送付の時期についてのニ説は後述する。Meron Medzini "DURING THE CLOSING YEARS OF THE TOKUGAWA REGIME"(Harvard College 1971)では、士官2人に、フランス宮廷から乗馬指導者instructorも兼ねた年老いた馬師riding masterが同行してきたとある。

1967年7月27日(慶応3年6月26日)[11])、馬はフランス人14人余りが横浜から乗馬し江戸城に届けられた[9]。日本仏学史学界[14]では、「奥祐筆手留めの慶応3年6月26日の条」と原典を示し、贈呈式の前に雉子橋付近の厩舎に一旦収容された、としている。大手門内下乗橋外で贈呈式が行われ、フランス人一等士官1名に大小一腰紅白縮緬五端、兵士4名に洋銀200枚が贈られた[6]。2頭は将軍の馬として召され、残りは新橋の馬小屋に運ばれ、さらに翌日、牧士はフランス人と共に乗馬して横浜に戻り、翌年まで飼育を続けた後、馬は小金牧に移された[9]。馬は26頭で、駒10、駄15、控1である[9]。『輸入種牛馬系統取調書』[13]と照合すると、駒は牡、駄は牝を示すと考えられる。控1の意味は不明だが、馬が25頭とする説[15][11]の元になった可能性が高い。残り24頭が小金牧に来た事になる。贈呈式後、馬が収容されたのは、横浜の太田陣屋で、26頭の馬は5班に分けられ、1班に1人ずつの牧士と1頭に1人ずつの別当がつき、飼育方法の伝習訓練が行われた[10]。『千葉県の歴史』[10]の原文のまま人名を示すと、フランスの関係者にはシャノアン・デジャン、馬教師には、ダイクール・エッサ、プリガッシュ・カズヌプなどがいた。伝習は半年に及んだため、牧士は何度か交代している。

1867年(慶応3年7月)小金原続村々『乍恐以書付奉願上候(外国之馬茂小金牧江放被遊候風聞之儀ニ付)』[16]があり、小金牧へアラビア馬が来た事が確認できる。御勘定奉行『亜刺比亜馬小金表江率移候義ニ付申上置候書付』[16]との資料もある。片桐一男(青山学院大学)[17]は、中野牧・下野牧の牧士がアラビア馬を引受け管理したとしている。原資料が同じと考えられるが、白井市の資料と一致する。 『北海道開拓記念館調査報告』[18]にも函館大経の話として、下総牧に御囲牧を設け馬を飼育したとの記述があるが、馬は三十六頭と記されている。

1868年(慶応4年)、馬は2度に分けて小金牧へ移された。1度目は、1月4日に神田橋御門外の騎兵屯所、後、1月22日に五助木戸御囲、正式には「中野牧厩詰用所」へ移された。新たに設けられた中野牧厩詰用所には囲い場、厩、詰所があった。『千葉県の歴史』には「放された」とあるが、野馬として放牧されたとすると、厩の存在、西洋式の飼育方法と矛盾する。五助木戸は五香駅の東に当り、厩詰用所は現在の陸上自衛隊五香駐屯地付近と推定される。詳細は小金牧参照。2月18日に1頭が病死した。2度目の移送は、3月5日で、1度目と同様に行われた[10]。『千葉縣東葛飾郡誌』[19]に、アラビア馬20頭が慶應期に将軍へ贈られ、小金牧の中野牧高木村に建てられた厩舎で、外国人2名が来て、すべて洋式で飼育されたが、約2年で維新となり成績は上げられなかった、うち1頭は後に駒場農学校で割と長生きした旨記述がある。厩舎の地名は、『千葉県の歴史』の記述と矛盾せず、下総で外国人を雇うことは異例であり、幕府の馬に対する重視を示す。『千葉県東葛飾郡誌』の記事の原文は、代々牧士の家系で、貴族院議員も務めた三橋彌によるものであるが、三橋彌は『千葉県議員名鑑』[13]によると、1932年に65歳で、20頭は伝聞による誤差が入り込んだか、どちらか一方の移送の頭数か、最終的に残った頭数か、不明である。

馬の到着時、徳川慶喜は大阪にいたため、慶喜は馬を見ていない。松戸市の公式ホームページ[15]では、馬は25頭、慶喜に贈られ、慶応3年4月には横浜に着いたが、大阪にいた慶喜の下には届かず、慶喜の写真にある馬は、ナポレオン三世から贈られた26頭には該当しないという説を紹介している[20]

農商務省農務局『輸入種牛馬系統取調書』[13](1888年、以下、取調書)には「佛帝ナポレオン三世ヨリ幕府へ送付セシ馬疋毛附写」として、牡11頭・牝15頭のアラビア名・フランス名、特徴を記した、1860年フランス宮内省「カアン」育馬学校から徳川将軍への馬送付時の書付が掲載され、計26頭の記載がある。うち、牝2頭に名前の記載がなく、体高・年齢が同じで色も似ている。同書発行時、何頭かは生存とある。1896年、村上要信『日本馬匹改良策』[13]に、ほぼ同じ書付があるが、カアンがカマンになり、書付の原文ではなく『取調書』を見て、誤記または誤植が生じたとしないと説明がつかない。馬は文久元年横浜港に到着とする一方で、若干が雉子橋の厩で飼育されたのを見たとしている。カアンは1935年帝国競馬協会『競馬に関する調査報告』[13]で、「アルゼリー」に支所もあったCaenの馬の供給所と一致する。

1868年(明治元年)、4月12日、徳川慶喜が江戸を出て松戸宿に一泊、水戸街道を水戸に向かった。

江戸中野牧厩詰用所が襲撃を受け、一部のアラビア馬と西洋馬具を奪われたが、4月28日には残った馬のうち、雄10頭が騎兵屯所へ移された[10]。襲撃は慶喜の松戸宿宿泊後なら、4月12日〜27日の間である。牝については不明だが、元々、牡は11頭のため、奪われた牡は最大で1頭である。将軍の馬として江戸城に留め置かれ、小金牧に来なかった2頭のうち1頭が牡かどうかは不明である。

函館大経からの聞き取り資料[18]によると、脱走の徒が馬を奪うかも知れないと心配した勝安房に命じられ、下総へ引き取りに行き、沼津近くの愛鷹牧で飼って繁殖させようとして、同所に移したとのことである。引き取りに同行した人間や、沼津に移した時期については語られていないが、馬が贈られた経緯や下総の御囲等の内容は他の信頼できる資料とよく一致する。馬を騎兵屯所に移したのが、大経であれば、日付も含め他の資料の内容と一致はするが、可能性に過ぎない。

『千葉県の歴史』では、馬が新政府の所管となったその後は不明とし、1873年にブリガッシュ・カズヌプが建白書を出し、その中で9頭を確認した事を記している。

維新後の散逸[編集]

函館大経[18]によると、連れてきた馬を飼う場所に困り、駿河愛鷹牧の野馬改良を兼ね同所へ移したが、飼う余裕がなく、馬はフランスより日本政府に贈られたもので徳川の私有でないとして、新政府へ引き継ぐこととなった。東京に引き連れていったところ、受け取りを拒否され、山岡鉄舟に相談した結果、水戸、尾張、越前、田安等の諸家へ配布、1頭を小松宮に献上、不良の1頭を函館大経がもらったとのことである。馬の価値を理解しなかったのは新政府だが、やむなく馬を分けたのは旧幕臣という事になる。

1871年(明治4年)『新聞雑誌』という名称の雑誌の「二号」に、5月15日招魂社祭で、日本人外国人4人で競馬を行い、ついに日本人が勝ち、この日本人は雉子橋門外牛馬商社の鐵沓師との記事があると、1908年『明治事物起源』[13]にあり、馬は奥産のアラビア馬との伝聞も記している。昆那にアラビアとふりがながある事からも、奥はオーストリア(墺)ではなく奥州・奥羽と考えられる。『新聞雑誌』は木戸孝允の創刊[21]で、江戸東京博物館[22]によると、「二号」は「ザンギリ頭を叩いてみれば」の戯歌が載った号で、発行は5月である。優勝何周年かの記事か、執筆が1871年5月15日より前ならば、優勝はそれより前で、日本人が競馬で外国人に勝ったのは、1870年、根岸競馬での函館大経が最初とする資料[23]と一致はするが、文脈からは、1871年の5月15日の可能性が高く、場所も異なり、少なくとも一方の資料に誤りがある事になる。遅くとも1871年に競走馬として育っていた事から、この馬は当記事に該当する馬の子孫の可能性は皆無ではないが、1868年(明治元年)4月までは幕府が管理していた馬の子孫の可能性は高くはない。馬が新政府の手に渡った後、奥州にもたらされた可能性も低く、むしろ、以前にもたらされた馬の可能性が高い。広沢安任も後掲の資料の中で、幕末までに外国から馬を購入した個人もいたであろうとしている。一方、次のフランス公使からの申入れ前に国内産のアラビア馬の存在が知られていた事も示す。競馬は日本人が外国人4人と行ったのか、日本人と外国人合計4人が行ったのか、断定はできない。

1871年(明治4年)12月9日『仏国政府ヨリ旧幕府ヘ寄贈ノアラヒヤノ馬ニ付同公使ノ好意ニ答フ』[16]『仏国政府旧幕府ヘ差送ノアラヒア馬散逸ニ付取聚収方伺』[16]があり、明治維新に伴う馬の散逸が判る。文書に途上で馬を見たフランス公使の指摘から、散逸した馬と雉子橋の厩で馬が何頭か確認できた事、雉子橋の馬は大切に扱われ繁殖にも役立っている事、飼育等は来日したフランス「有名の牧師カズノブ 」に聞くべき事等とある。この日の文書提出は、1894年(明治27年)農商務省農務局『畜産要務彙集』[24][13]でも裏付けられる。文書では、明治維新で大名の財産・権限をも取り上げた明治政府が、散逸後の馬の持ち主に対し、差し出させるのは甚だ不条理と異例の配慮を示し、「散逸」後の所有者に対する特別な配慮と馬の回収に消極的である事が判る。小金牧の高田台牧跡に広大な土地を所有し迅速測図に大隈邸と記載されるほどの家屋を有していた大隈重信の名も見られる。国内の混乱もあるにせよ、公使からの指摘後の捜索開始は、明治政府の馬の重要性に対する未認識を示す。文書中、フランス公使に対して使われた「気の毒」という言葉は、文脈と次の文書、明治初期という時代から、本来の「気分を害する」の意として使われたとしないと意味が通らない。馬は30頭とされている。

1872年(明治5年)4月5日付『先年仏国より厚意を以旧政府へ差送りたる亜刺亜馬の義に付大蔵省より掛合』[25]では、馬が数頭とされ、別段蕃殖の姿も見えず、フランス公使より度々苦情申立てがあり、大蔵省から兵部省に、馬のうち静岡県に残っていた牡牝2頭を送るよう要請がなされている。

同4月13日付『兵学寮より沼津兵学寮にアラヒヤ馬到着の儀に付申出』[25]で2頭[26]の到着が確認できる。

1873年(明治6年)、3月、澤護[11]によると、再来日後のカズヌーフ自身による『産馬意見書』が提出され、その中で馬は小金牧[27]へ連れて行き、係の教育指導に当たる手筈だったが、突然の変事により御破算になり、その後、馬も離散したが、9疋の種馬を確認していると記述がある。幕府の馬の重視と維新後の馬の散逸、カズヌーフへの具体的な地名の提示から、幕府の飼育計画の存在も判る。

3月14日付『元勧農局用地雉子橋門外厩一棟秣置場一棟焼失』[16]した。

6月、カズヌーフが明治政府に雇用された。『函館ノ賊ニ応援スル仏国人ニ対シ遺憾ナキ旨ヲ公使ニ報ス』、フランス語の原文とともに『宮内省仏国馬術教師カズヌーフ雇入』の公文書が残る[16]

1874年(明治7年)6月28か29日、カズヌーフが東京を出発し、畜産調査のため、東北地方へ出発した。『官員並御雇教師牧馬蓄産為取調宮城県外七県』[25]から、宮城より青森・岩手・福島・山形・磐前・水沢之六県と帰路茨城に寄る予定であった。 11月21日、カズヌーフが死去した[28]

カズヌーフ死去前後について、1886年(明治19年)の今泉六郎『大日本馬種略』[13]を再録した、1896年の陸軍乗馬学校の同名書に、最近、慶応3年秋、フランス皇帝ナポレオン3世からアルジェリー種の良馬が贈られ、この件について親しく詳細を聞いた「鼓(正しくは支が皮)氏」の話の概略としての記述がある。飼司カズヌーフが馬をつれて来た事と本邦馬産の改良を希望したものである事の後に「然ルニ當路者ソノ然ル所以ヲ察セズ徒ラニ尋常一様ノ進物ノ觀ヲナシ盡ク之ヲ姻族重臣ノ間ニ分チ」「維新ノ后、余、浪華ニ在リ、夙ニ彼ノ優種ノ暴殄ニ瀕セルヲ慨シ」馬を探した事と、福山藩にいた1頭は鼓の働きかけにより、兵部省を経て宮内省所有となり、それが若紫である事、越前家に残っていた3頭は旧家臣吉田某の私有となっており、事情により公有にならず、フランス人アマドーの手に落ちた後、行方不明になった事が記されている。さらに、それより前に、鼓が同行して奥羽の牧場へ探究に行ったが、カズヌーフが病に倒れ終に立たず、鼓の素志も画餅に帰したが、早く今日の盛代に逢ったので、カズヌーフの鬼(魂)ももって瞑すべきであるとある。 鼓は『官員並御雇教師牧馬蓄産為取調宮城県外七県』[25]にある、カズヌーフと共にいた東北に赴いた鼓包武に一致する。澤護論文とも一致し、内容が裏付けられる。鼓は馬の離散を強く批判しているが、長州出身の鼓が馬の到着時の幕府の内情に詳しかったとは考えにくい以上に、馬の離散に憤慨した時期を、維新後でかつ鼓が大阪にいたと記し、離散が維新後である事が二重に判る形になっている。時系列上、解りにくい話の構成であるが、離散が維新後というカズヌーフの話と矛盾しない。本邦の馬の改良を希望したのはフランスではなく幕府と考えられる事、馬の離散が幕府によるものと明記していない事、幕府陸軍創設に関り、フランス軍事顧問団とも接点のあった福山藩に馬が渡っていた事、旧親藩の旧家臣から新政府ではなく、カズヌーフの母国の人間に馬が渡り、その理由が省略されている事から、馬の接収に際し新政府側に、「ことごとく、姻族重臣の間で分ける」等の不手際があり、その不手際を鼓が知っていた事が示される。当時、鼓は大尉とはいえ、長州出身の陸軍軍人で、その意向に反して馬を手に入れ、新政府に馬を渡さなかった事から、アマドーはある程度の権力を行使できた人物でなくてはならず、御雇外国人として記述された『兵部省代たる林兵部少丞仏国アマド君との間に取極むる仮定約』『外務大少丞御省雇外国人へ相渡置臨時通行免状御返却可申候』[25]の、1871〜74年に雇用された騎馬関係のフランス人アマド、『御雇外国人一覧』[13]の騎兵関係のフランス人アマトルイと一致する。『馬学書印刷の義に付伺』[25]では、フランス騎兵教師として、アマト、カスヌーフが並んで記され、ほか2人の御雇外国人の名がある。雇用の期間・目的と国籍からアマドーはカズヌーフと交流があったはずである。カズヌーフの俸給は最初250円、後に300円、アマドーは150円で、ブリュネとも親しく、フランス公使を通じて日本政府に苦情を申入れるだけの力を持ったカズヌーフに馬が渡らなかったため、また、鼓が探したとある事から、3頭の馬はカズヌーフの死後、鼓により発見され、カズヌーフが見つけた9頭と別という事になる。福山藩の1頭も、鼓の話からカズヌーフが見つけた9頭と別に皷が見つけた事になる。

1875年(明治8年)の馬の動向について、1941年日本競馬会『宮内省下総牧場における競走馬の育成調教』[13]には、「明治8年、勧農局試験場より牽入れられた16頭のうち、著名な牝馬吾妻號はナポレオン三世から贈与された7頭中の1頭、佛アラ高砂號の持込馬で、蕃殖成績優秀、現今尚この血液受けたるもの多く、今日の下総牧場の基礎となり、又本邦各馬産地に散在し斯界の為忘れることのできない功績を残してゐる」とあり、輸入馬の表に、老松・佛國産サラブレッド・鹿毛、高砂・佛國産アラブ・芦毛が記されている。

1877年(明治10年)、村上要信は兼務先の取香種蓄場で、巴里と名づけられたイロンデールを見たと『日本馬匹改良策』[13]に記している。その後、イロンデールは駒場、ついで、上野で飼われ、一頭も子を産まなかったと記している。また、若干を雉子橋の厩で見たともしているが、厩が火事になる前以外、時期については不明である。

高砂[編集]

『取調書』に出立前に交尾とあり、持込馬を産む可能性がある馬は3頭いるが、エルグエタガは巴里と名づけられ、複数の資料に子を産まなかったとあり、上野で飼育されていたため、高砂ではない。

したがって、高砂は残るアンマンスかファトマのどちらかである。芦毛の場合、個体差にもあるが、概ね6歳頃までには全身が白くなり、原毛色を見る事さえ難しくなる[29]ため、6歳で鹿毛とあるファトマが高砂である可能性は、ほとんどなく、高砂はアンマンスとほぼ特定される。

吾妻[編集]

千葉県両総馬匹農業協同組合関東軽種馬生産育成組合では、1878年(明治11年)、吾妻が取香種蓄場に移管されたとしている。

大町桂月の短編『三里塚の櫻』[30]で、三里塚の老桜のわきに「牝馬吾妻之塚」とある木標があり、吾妻が30年前の明治9年に死亡した旨の記述があるが、同短編は大正5年のため、死後30年なら、吾妻の死亡は明治19年である。木標は「名馬吾妻之塚」と刻んだ石碑に建て替えられ、サクラの大木の下の塚にある石碑の写真を宮内庁公文書館が有している[31]。後、芝山の観音教寺に移された。芝山では、特に塚とは言えない地面に石碑があり、傍らに吾妻が牡2頭牝9頭を産み、死亡を明治29年推定33歳で死亡とする説明文がある。また、記念碑の建立を大正11年としている。桂月は飲酒しながら三里塚を訪れており、後述の吾妻の仔の生年からも、吾妻の死亡は明治29年が正しいと考えられる。前掲、宮内省下総牧場の資料は、実際に吾妻を飼育し塚を築いた下総牧場で書かれており、吾妻が高砂の持込馬である事の信憑性は高い。

老松[編集]

血統書のないサラブレッドはあり得ず、また、本来、軍馬のため、老松はサラブレッドではなく、当時のサラブレッドに対する正確な知識の欠如を示す。一方、1917年(大正6年)『馬の飼養蕃殖』[13]には、アラブ種は体高が14ハンド(約142センチメートル)から14ハンド2(同147)、より大きいものもおり、サラブレッド種は14ハンド2から16ハンド2とある。『取調書』に一括してアラビア種とあるため、高砂と老松の種類を分けた特徴は、大正年間に至るまで違いがあるとされた体高の違い以外には見出せない。体高147以上の鹿毛の牝はいないが、1センチメートル、蹄鉄の厚み程度までの誤差を許容すれば、老松は146のナアーマである。あくまで仮定に基づくため、断定は難しい。鹿毛と黒鹿毛は日本でも以前から区別されていたため、147のダラダが老松の可能性も低い。

日本軽種馬協会JBBA NEWS 2006年9月号武市銀治郎の記事に、「明治10・11年内藤新宿試験場から香取種蓄場に牽入れられた高砂、四ツ谷、老松、巴黎、吾妻、第二四ツ谷など歴史に足跡を残した」とある。表記順からも吾妻は高砂の子、第二四ツ谷も名前から四ツ谷の子と考えられ、高砂、四ツ谷、老松、巴黎の4頭がナポレオン三世より贈られた馬で、巴黎=巴里で、エルグエタガにあたる。小金牧の将軍の乗馬用の場所で飼育されるはずだった馬の3頭は佐倉牧跡の宮内省の牧場で飼育された事になる。

若紫[編集]

若紫は『宮内省より乗馬車の義掛合』[25]で、1874年12月、陸軍省より宮内省に献上された「西洋種乗馬若紫」と考えられる。不用となり、1877年10月、陸軍への下渡しが決定されたとあり、前述の鼓の話は1874〜1877年の間と考えられる。『取調書』には、1874年(明治7年)、亜喇比亜から陸軍省の購入として、「星栗毛 若紫 牡 同7年宮内省へ献納 同10年返付 同11年宮城縣へ貸付」とあり、年号も含め内容が一致する。牡で星栗毛はアラビア名ムーバレック フランス名ベニーだけである。『取調書』には、明治7年、亜喇比亜から陸軍省の購入として他に牝4頭の記載がある。若紫も含めた5頭のうち、購入金額が記してあるのは牝1頭だけのため、牝3頭は明治7年の輸入ではなく、その前に日本に持ち込まれており、確認が明治7年とした方が整合性が高く、若紫同様、当記事に該当する馬の可能性があるが、断定はできない。参考として示すと、牝3頭の記述を示すと、

無双 鹿毛明治9年茨城県へ貸与同年返11年鹿児島県へ貸与、
濱名 黒鹿毛明治7年水沢県へ貸与後宮城県へ引継、
三島 栗毛前同現今宮城県畜養、である。

断定はできないが、浜名、三島は静岡県に同じ地名があり、無双よりは愛鷹牧および沼津兵学寮との関係が少しだけ示唆される。

無双と一致する鹿毛の牝は、エルアロッサ、ナアーマ、ファトマの3頭、
濱名と一致する黒鹿毛の牝は、ダラダ、
三島と一致する栗毛の牝は、アンマンスである。ヤミナは、流星栗毛である。

『取調書』には、亜喇比亜より開拓使管理局及北海道庁購入として、

明治元年 牝栗毛 富士越

の記載もある。村上要信は、明治元年は2年の誤りかも知れないとしているが、いずれも、開拓使の発足前である。

今井吉平1910年『馬政学』[13]に、馬は1861年(文久元年)日本着、カヅヌーフが付添って来たが、当事馬匹改良の必要性を知らず徒に権門貴顕に与えてしまった、内一頭の牝巴里(アイヨンデール)号は1894年(明治27年)37歳で斃死した等とあり、『取調書』と似た馬の一覧の表がある。フランス名のイロンデールをアイヨンデールとした点から見て、今井吉平にはフランス語の知識がなく、和訳された表をカタカナからカタカナへ英語読みで誤訳したものと推定される。1894年に37歳で斃死したなら、生年は1858年頃になるが、表には7歳とあり、1861年までに7歳になる事は不可能のため、今井は算数も苦手だったと考えられ、本項の馬に関しては『馬政学』は信憑性に欠ける。馬の散逸の時期としては、維新の前か、最中、後が考えられる。維新前、幕末とは言え、将軍の馬を他人が勝手に乗用にできるはずはない。幕府による馬の重視とカズヌーフの重用なしでは、カズヌーフが伝習隊で乗馬等を指導し、後に箱館戦争において重傷を負うまで幕府側について戦った事[16][32]、大鳥圭介が『南柯紀行』で、函館へ向かう途中、仙台で旧師に再会し互いに感激した旨を記した事が説明しにくい。小金牧の厩舎は幕府の脱走諸隊が通った、水戸街道、市川-流山の街道、戦闘があった鎌ヶ谷、市川、船橋から近く、維新の最中、「賊軍」の略奪にあった可能性が最も考えやすい。実際に前述の通り、一部の略奪は維新の時で、今井吉平は事情を知らなかったばかりか、武家社会、江戸近郊の地理、幕末〜維新の歴史に対する常識にも欠け、この点でも信憑性がない。

1899年(明治32年)陸軍騎兵実施学校『宮崎鹿児島両県産馬調査報告』に、日本到着は1863年(文久3年)とした後、鼓談話の引用と見られる記述があるが、散逸の時期が判る部分は割愛されている。その後、ナポレオン三世の馬についてまとめられているため、重複も含めて示す。「慶応年間若干頭は薩摩に牽入れたるは更に疑無きが如きも確証なし。明治4年中は大蔵省牧畜掛所管の雉子橋官邸に未だ数頭養畜せられ居りたるも後ち行く所を詳かにせず。星青毛牝「パリス」号(明治4年雉子橋官邸に養われしものの1疋)は一時駒場農学校に畜養せられ後ち上野動物園に移され明治27年に斃れたり本馬は嘗て流産せし後遂に受胎せず。」ほかに、若紫が明治初年に兵部省、後、宮内省に移された事と「アマドー」(馬術教師)の記述がある。兵部省は明治元年には存在せず、明治初年は明治の初め頃を指す事になる。

1913年『鹿児島県畜産史上巻』[13]に、「最近に於いて著名なるは15代将軍慶喜の慶応3年秋」の後、鼓談話の引用と思われる記述があるが、「当路者」が「幕府当路の執政」と変更され、散逸の時期を示す部分は割愛されている。続けて、但し其の内若干頭は我薩藩に牽き入れられたること疑無けれど確証を得ず、とある。疑いはないという文面通りで時期が幕末なら、幕府から島津久光か薩摩藩士が馬を受け取り散逸に荷担した事になるが、大阪にいた慶喜を差し置いて、江戸の幕臣が薩摩に渡すこととはあり得ない。他の資料との整合性からも、維新後に薩摩藩の関係者が私物化し、「若干」を薩摩に持ち帰った可能性の方が高い。前述の明治政府による馬の持ち主への異例の配慮とよく一致し、長州の鼓の談話で馬の散逸が名指しではないものの非難され、散逸が維新後と判る形になっている事とも整合性はある。同じ『鹿児島県畜産史上巻』には、文久3年に当記事の馬が贈られ、薩摩の比志島牧に「鹿毛にて星及び白毛混れる洋種牡馬5頭を入れたるが」「牧中の牝馬と親和せずして一頭の産駒だに得ざりし」「該牝馬も漸く衰弱痩痒したりければ、御厨に引上げたりとなん」と記した後、『宮崎鹿児島両県産馬報告』とほぼ同じ内容を記述、諸書にある「若干は我薩摩に牽き入れられたりと云えば」この5疋ではないか、但し、口碑には英人医師ウルユスが船載せし馬匹と言うとの記述がある。比志島牧は慶応元年に廃止されたため、廃止前を指すなら、当記事の馬には該当しない。また、黒鹿毛等を入れても鹿毛の牡は3頭である。 一方、小金牧から江戸に10頭の牡が移送されたのに対し、維新後に確認された牡馬が極端に少ない事とも矛盾せず、鹿児島に子孫を残さなかったため、疑いは確証がないという事とも合致する。なお、ウルユスは、1877年(明治10年)『7月23日 旧ウルユス館へ本日転移 軍団砲廠』[25]等の資料から、実在し、維新後、鹿児島に長期間滞在した人物と確認できる。時期、場所、国籍、職業はウィリアム・ウィリスと一致する。したがって、馬が鹿児島にもたらされたとすれば、維新後である。 『南部馬史』[13]では、後述の広沢安任鼓談話を基にしたと考えられる記述と、「蚕卵紙に報ゆるに我が有益にして殊に将軍の好めるを聞き之に贈答したる也」の記述がある。

1903年『下総御料牧場要覧』[13]の表に所有するサラブレッドが牝10、牡20、計30で、輸入年度内訳として牝の欄に文久年間6、明治10〜13年計7の数字と、備考としてフランスから幕府への贈与の記述がある。総数と内訳は合わず、牡の欄が空欄のため、6頭は牝だけなのか牡牝合計なのか不明だが、30頭は1871年の文書と一致はする。同文書に基づいたなら、一致は当然である。

巴里[編集]

村上要信は、馬のうち1頭のイロンデールは巴里と名づけられ、1877年(明治10年)頃、下総御料牧場の前身で村上の兼務先の下総種畜場、後に駒場農学校、さらに、上野の博物館での飼育を見た事と、この牝馬は子を全く産まなかった事を記している。1909年廣澤安任(談)『奥隅馬誌』[13][33]に、子孫を残した馬もいるらしいが、騒擾で散亡し功を奏しなかった事、下総種苗場で残馬を見た事、1886年(明治19年)の『時事新報』に生存するのは29歳のハリー号だけで駒場農学校にいる事等がある。『三四郎』に、野々宮君の先生が学生だった時分、「馬の先生」が酒代のため、構内で飼っていたナポレオン三世時代の白い老馬を売ったという話がある。構内は本郷を指すと考えられるが、東大に複数のナポレオン三世の馬がいた可能性より、駒場の話が入り込んだ可能性の方が高い。澤護[11]は、1892年(明治25年)エルグエタガ生存の新聞記事を紹介しており、青(黒)の毛色の外の特徴も、『取調書』と一致する。野々宮君の先生が学生の時分は漱石が学生の時分と重なるが、エルグエタガは葦毛の白馬ではない。漱石自身が聞いた話と考えられるが、「まさかナポレオン三世時代でもなかろう」とあり、信じていたか不明である。外に、上野動物園でのナポレオン三世から贈(送)られた馬の生存の話が、1888年前掲『取調書』、1893年(明治26年)、子供向けの学齢舎『教育動物園』[13]にあり、当時、広く知られていた事が示唆される。前掲『宮崎鹿児島両県産馬調査報告』によると、1894年(明治27年)に死亡した。

内訳[編集]

『取調書』記載の馬について、順に、原文の番号、アラビア名、フランス名、特徴、幹(体高)、原文作成時点での年齢を記す。推定できるアラビア語の名前は、アラビア語での編集ができない事と、原文がアルファベットと考えられるため、アルファベットで表記する。『取調書』に○とある欄は○と記す。

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  • 1.エルグエトランヌ、グードロー 星青毛左前肢甲冠差小毛アリ 1.45 6 フランス語erg étrenneは(砂丘)砂漠の贈り物の意味[34]
  • 2.カミル、コンプレー 眞黒毛ニシテ不規則ノ星アリ 1.47 5 Kamilは完全を意味するアラビア語圏の男性名 フランス語completは完全の意味
  • 3.メフソー、ユーロー 鹿毛(脊毛変色)右後肢白 1.44 5
  • 4.アムラン、○ 糟栗毛(斑点アリテ脊毛変色) 1.42 5
  • 5.ソー、ホルチユネー 星鹿毛 1.42 7 Fortunatフランスの男性名
  • 6.マローフ、ナレノムメ 栗毛シャク形星四肢白(普通?スル白ヨリ部分多シ膝上ニ至ル) 1.46 7
  • 7.アジー、ペンソー 糟栗毛左側?変色アリ右耳破 1.43 7
  • 8.ムーバレック、ベニー 星栗毛四膝ニ白ノ差毛アリ 1.46 7 Mubarakはムバラクとされる事が多いアラビア語圏の男性名 若紫に一致 1878年(明治11年)までは生存
  • 9.ムーソー、ヴエクトリエ 糟栗毛流星両鼻孔間ニ至ル 1.46 5
  • 10.ラキブ、エレガン 紅梅栗毛前肢及左後肢白 1.66 7 フランス語elegantは優美の意味
  • 11.ラーボー、バチアン 黒鹿毛シャク形星後肢及左前肢白 1.42 5

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  • 1.レーラ、ラヌウイ、黒毛流星両鼻孔ノ間ニ達ス左前肢ニ規則正シキ白アリ左後肢白両耳破 1.46 5
  • 2.ヤクータ、ピエスプレシーズ、黒毛不規則ノ星両鼻孔間ニ指?アリ右後肢白毛アリ白毛ノ中ニ横ニ黒毛 1.42 6
  • 3.エルグエタガ、イロンデール、黒毛流星両鼻孔間に達し右後肢に葦毛、1.42 7、出立前に交尾 フランス語erg etagaは文語詩的な表現で(砂丘)砂漠(の地)[34]、フランス語hirondelleはツバメ、巴里と命名され最も長生きし、1894年(明治27年)死亡。
  • 4.ミニバヤ、ベルプリンセス、薄黒毛 1.42 7
  • 5.フエザラ、ゴゼル、星栗毛両鼻孔ノ間少許ノ点アリ後肢白右前肢ニ痕跡アリ 1.46 6
  • 6.アンマンス、クロンプ、栗毛流星左前肢白右膝の上に肢白毛あり、1.43 4、出立前に交尾。ほぼ高砂と特定できる。
  • 7.アテフア、アケツト、星栗毛(ヤヤ流レ)後肢白 1.42 6
  • 8.モルヂアナ、コレイユ、流星薄栗毛前肢白毛アリ 1.42 6 Morgianaはアリババと40人の盗賊にも登場するアラビア語圏の女性名
  • 9.ヤミナ、ベンヂアミンヌ、流星栗毛左後肢及右前肢白 1.42 7
  • 10.エルアロツサ、ラブユヤンセー、鹿毛流星両鼻孔ノ間ニ達ス右後肢白ニシテ黒毛ヲ横ニ交ユ 1.43 5
  • 11.ダラダ、ソッピード、黒鹿毛後肢ニ点黒アリ 1.47 5
  • 12.ナアーマ、ヲートリッシュ、鹿毛流星(鼻ノ上ニ止ル)四肢ニ深ク白毛アリ 1.46 4、老松の可能性が最も高い。アラビア語naamatまたはna'amat フランス語autrucheはともにダチョウの意。
  • 13.ファトマ、○、鹿毛流星両鼻孔の間に至る左後肢白、1.45、6、出立前に交尾、Fatumaはアラビア語圏の女性名。
  • 14.空欄、空欄、泥蘆毛、1.47、4
  • 15.空欄、空欄、蘆毛、1.47、4

子孫[編集]

1926年『第1巻』〜の帝国競馬協会、『第11巻』〜日本競馬協会『馬匹血統登録書』[13](以下、巻数のみ)にある吾妻の子孫等、関連があると思われる馬を次に示す。『第13巻』までと『第18巻』甲種登録すべて、間の巻の主な馬の該当する系統、登録馬の登録番号を示す。見落しは多いと思われる。登録番号前のアングロアラブ種等を示す「は」、準サラ等種別表記は略す。「に」は雑種とされる「乙種登録」を示す。『第2巻』のアングロアラブ種の登録番号は、30〜152で、高砂の血統は約1/4を占める。『第3巻』以降、各巻のアングロアラブ・ギドラン等の登録番号の最後は『第10巻』まで、292、400、468、551、630、763、940、1056、『第14巻』まで、1146、1231、1321、1603、『第18巻』まで、1781、1957、2087、2259で、登録番号で出典を示す。牡のみ牡と記す。牝が続く牝系の子孫は最初の牡まで高砂のミトコンドリアを引継いでいる。ツとッ等は区別されていない。吾妻が明治3年生なら、高砂の日本への持込馬ではないが、初期の子孫の多くが下総御料牧場産で、前述の吾妻の特徴に該当する馬は他になく、高砂の子と考えられる。馬齢の数え方の混乱か、幕府からの引継ぎの関係で明治生まれとした可能性も高い。吾妻・第2高砂・第2四ツ谷の父馬も本稿に該当するなら、子孫を残した馬がさらに多い事になるが、想像の域を出ない。初期の馬については『馬匹血統登録書』と矛盾する部分もあり完全に信用はできないが、『競馬成績書』[13]等の産地・親馬・種類等から複数の条件の合う馬を示し、『第18巻』以降は、日本軽種馬協会の検索システムJBISによる結果と他の馬も検索できる事を示す。他、前述の資料からの推定はその旨を記す。戦後は主に系統の中で最も若い馬を示す。高砂の血統は、21世紀のザラストアラビアンに及び、セカイライフ以降のサラブレッドにミトコンドリアが引継がれている例もある。一部の馬でナポレオン三世にもたらされた遺伝子の比率を誤差を避けるため分数で示す。

血統[編集]

高砂
|吾妻 アラブ 明治3年 前掲資料に従うと1867年生 1/1
||第四吾妻明治17年父ローストン 1/2
|||パレード明治32年
||||92第四パレード
|||||チヤペル牡[35]大正14年5歳[36]帝室御賞典[37][38]
|||||107博寶
|||||126第六チャペル・ブラムプトン牡競馬名チヤペル大正15年
||||||1464クインシゲル 以下第八パンジーの系統に記述
|||||ダークメード[38]Dark Maid併記大正14年9歳死[36]内国産馬連合[37]
||||||38バーメードBar Maid併記
|||||373賢駿牡
|||||541天壽
||||||905光壽牡
||||||1011萬壽
||||||1112明壽
||||||1209秀壽
||||||1544成壽
|||||||2122崇壽
|||||1865松高
||||||2191松若
|||||507タカオ前名オードビス オートビス表記も
||||||1477オートビス
|||||543英壽牡
||||722第八拾壱ブラマンデー牡競馬名コナミ
|||||1083ダテコナミ牡
|||プリムローズ明治24年
||||第四プリムローズ
|||||ダイヤ牡[35][36]大正14年8歳
|||||93アブランテス
||||||105華葉前名華欧
|||||||609岩葉
|||||||890月葉
|||||||2155月康牡
|||||||517朝葉牡
|||||||673雪葉牡
|||||||1993勝葉牡
|||||||997波葉
|||||||1077葉田牡
|||||||1200葉元牡
|||||||1423葉月
||||||284昭金
|||||||712玄銀牡
|||||||903光銀牡
|||||||1018萬金
|||||||2118崇銀
|||||||1110明銀
||||||||2121崇金牡
||||||540天保
|||||||1211秀保
|||||||2119崇保牡
||||||371賢金牡
||||||630伯金
|||||ケーアフル
||||||110博喜
|||アダリア
||||ダリア ダリマの表記も
|||||766ヤングダリヤ牡 689ダリアの仔の記載も
|||||689ハクタマ
|||||マスダリア
||||||1440セイキ牡
||第五チューリップ前名第五吾妻明治18年父モンマース
|||バクトン
||||70第二バクトン[35]
|||||72ミスバクトン
||||||976ミスバクトンノ5
|||||98ペット
||||||108博香
||||||198山廓牡
||||||389ピュアライン
||||||439龍福
|||||||714玄福牡
|||||||1009萬福
|||||||1206秀福牡
|||||||2126崇福
||||||546英福
|||||||1007萬禄牡
|||||||1111明禄
||||||第三ペット
|||||||942ミサト
|||||||943マツイワキ
|||||アルバート
||||||第二アルバート
|||||||クモカゼ牡1923〜1928年賞金4万円以上受賞馬11頭中の1頭[39]
|||||||508アルバートキング牡
|||||||731サツマ
|||||||ヘンプノール 大正14年5歳[36][35]
||||||||ラプト
|||||||||1176麗風
||||||148第三アルバート
|||ウワイルドローズ 明治30年
||||第二ウワイルドローズ
|||||375ヱイコウ前名マシアル
||||||1089ロールフォード牡
||||||1282ローヤルブランド
|||||425勝鶴競馬名カチカゲ
|||パンジー前名春國明治24年
||||第四パンジー
|||||ピースウイング
||||||136ハアビス
||||||第四ピースウイング 第八吾妻の3代後
|||||||838次見
||||||||840ソオーヱイ
||||||||1073第六ソーエイ牡
|||||||871ミツミ
|||||||900初見
|||||カランザ
||||||第二カランザ
|||||||180神錦
|||||231ウヅキ
||||||1074ライン
|||||474カプリス ブとプの識別不可
||||||823第七カブリス
||||||1411カプター
|||||231チバイナー競馬名ウツキ牡
|||||393シーザー牡
||||||第一安榮 第6吾妻の4代後
||||||987第一コオユウ前名玉姫
||||第五パンジー
|||||ダビツト牡[35][36] 母表記は第五パンヂー
|||||ガーランド
||||||767シンプウ牡
||||||828チチブ牡
||||||1363サイクガーラン
||||第六パンジー
|||||リウ牡8[35][36]大正14年8歳
|||||230ダスト
||||||434ワンダストグリオ
||||第七パンジー 明治40年
|||||クモニシキ[35][36]大正14年4歳
|||||95アブリアル明治44年
||||||89夏菊
||||||68第二アブリアル[35]
|||||||69アブリアル.ノニ牡
|||||||1255ダイヤフエル
||||||376第三アブリアル
|||||||367雲鶴
||||||||522朝鶴
||||||||672雪鶴牡
||||||||993波鶴牡
||||||||1098久鶴
|||||||||トモツル[40]
||||||||||タツトモ牡
||||||||1180鶴重
||||||40第四アブリアル[35]
|||||||41チヱリー
|||||||306青嵐
||||||||671ハクラン
||||||||1987金晴
||||||||2093銀晴
||||||||2107ハクイサミ
|||||||684國富競馬名コクフウ
|||||||685日進競馬名コクシン
|||||||686八重雲
|||||||1294瑞祥
||||||第五アブリアル
|||||||1986第二アブリ
||||||104華國前名華鶴
|||||||2097得華牡
|||||||518朝國牡
|||||||605岩國牡
|||||||676雪國
|||||||893月國牡
|||||||1076國光牡
|||||||1101國道牡
|||||||1425國風
||||||バターカップ
|||||||第二バターカップ
||||||||451ダイヤカップ
|||||||第三バターカップ
||||||||557モリザキ前名ダーリング
|||||||ブラントン
||||||||563ブレットン前名第二ブラントン
|||||||||1103千早[40]
||||||||||ステーツヒメ
|||||||||||ジプシー
||||||||||||ウインクラー
|||||||||||||オールムソウ父タガミホマレ
||||||||||||||ウインザオール
|||||||||||||||エスケープハッチ
|||||||955第五バターカップ
||||||||917アラシ
|||||||||916朝風
|||||||||968初風
|||||||||1276新彌生
|||||||||1476清風
||||||||1090アサヒ
||||||602第六アブリアル
|||||||740クラックセイリュウ
|||||||793ペリープトン
|||||233エクラット
||||||1377エベレスト
|||||1515マツカゼ牡前名ハーモニー
||||||847ツルカゼ
||||||1510若鶴
|||||雲錦
||||||1671アズマニシキ[40]
|||||||2091デアーリング
||||||||ハリマオー
|||||||||ニューハリマオー
||||||||||ニシノローゼン1989年
|||||961ガスライト
||||第八パンジー
|||||366種爲前名チャンス
||||||64山照牡[35]
||||||524朝爲
|||||||1424爲盛
|||||||2098爲昭
||||||671雪爲牡
||||||770第弐チヤンス
|||||||第二チヤンスノ四
||||||||1166タマチヤンス
|||||||1404第二チヤンスノ五
||||||||1443昭チヤンス牡
||||||896月爲
||||||909爲秀
||||||1995爲勝
||||||1203爲浪
|||||837ヘロイン
||||||776第二ヘロイン
|||||||1262第二ヘロインノ一
||||||835第八ヘロイン
||||||1269第九ヘロイン牡
||||||836西風
|||||||1283錦風 前名東風
|||||エンブレーム エムブレームの表記も
||||||771第一エンブレーム
||||||1169優越前名ブレーム
|||||||1464クインシゲル 父第六チャペルブラムプトン
||||||2225第五ブレーム
||プリンセス前名第六吾妻明治19年 Princess表記も
|||第七吾妻明治31年
||||ラフレシュー
|||||831レデーラフレシュー牡
|||||2114第四ラフレシュー
|||長春
||||466第五長春
|||||467第八長春
|||クラウドレツス
||||クラウドレツスピー クラウドレスビー表記も
|||||紅
||||||727金静
|||||||786金筋牡
|||||||919ケイキン牡
|||||||1015ケイ静
|||||||1253芳静[40]
||||||||オミナヘシ
|||||||||ツキクモ
||||||||||ヤシマツルギ
|||||||||||ミスダイリン父タガミホマレ
||||||||||||カネヤマアルプス
|||||||||||||ディアルレーブ
||||||||||||||ザラストアラビアン2005年
||||||||||||カネヤマロマン
|||||||||||||マルチジャガー
|||||||1319ケイ勇牡
||||||733日向
||||1264カスミ
|||||1265安榮
||||||1604第一安榮 第五吾妻の4代後
|||||||第三谷川タガミホマレの記事より、原典未確認[40]
||||||||バイオレット
|||||||||タガミホマレ牡
||||||||||タイムライン
|||||||||||ビクトリアータイム
||||||||||||アキヒロホマレ
|||||||||||ローゼンホーマ
||||||||||ロニアン
|||||||||||マツガミクイン
||||||||||||シゲルホームラン
||||||||||シナノリンボー牡
|||||||||||トチノミネフジ
|||||||||||ホマレダナー
||||||||||||アサヒリイダー
|||||||||||||スズノキャスター
||||||||||エイランカイキョウ
|||||||||||エイランスイエイ
||||||||||||スイグン牡父の母の父もタガミホマレ
||||||||||ミスダイリン 母も第六吾妻の子孫
|||||1266浦島 父の母は第四パンジー
|||ホープフル
||||36第三ホープフル
|||||484トカチプリンセス前名プリンセス
||||482第四ホープフル
||第七チューリップ前名第七吾妻明治20年父第二モンマース 第六吾妻の仔と別
|||ハッピネス
||||ハナゾノ旧名スイウン[35][36]大正14年9歳
||||ホープ[35][36]大正14年5歳
||||71第四ハッピネス
|||||410アルフォンゾー
||||||737第二ヂョジ
||||||792第三ジョン
|||||アバンドン
||||||487第二アバンドン 父第三サッパーダンス
|||||||タマコイワヰ
|||||||603バードン
||||||||1466第二バードン牡
||||||||1467第三バードン
||||||||1962十倉
|||||||1287第二タマコイワヰ 父ブレービーの母の母は第八チューリップ
|||||||1465第五バードン 父第三サッパーダンス
||||第五ハッピネス
|||||236ハンピー
|||||643ダウントン牡
||||100第八ハッピネス
|||||906光助
||||||2128崇助
|||||545英助牡
|||||281賢逸牡 283の表記も
||||||1072梅花
||||||1148第一五丘牡
||||||1433黄金
|||||715玄助
|||||1441天助
||||488第九ハッピネス
|||カラブリア
||||第二カラブリア
|||||282シイクイン
||||||380スプイン牡
||||365種頼前名第三カラブリア
|||||519朝頼牡
||||||596頼道牡
|||||833フレーム
||||||1450トカチヒメ
||||||1453ジイモンド
|||||907頼駒牡
||||511第四カラブリア
|||||411チャペル
||||||726アザミ
||||||2152ワカバ
|||||475ルピナス
|||||734フークメード
||||||802第一メード
|||||||2139ワメー
|||||||720第一メードノ2
||||||||2137第三有徳
||||||784第二メード
||||||1263第五メード
||||||1316第八メード
|||||565昇旭牡前名振天
|||||691ウヰンナー牡1923〜1928年4万円以上受賞馬11頭中の1頭[39]
||第八チューリップ明治21年父第二モンマース
|||レヂー父ユスーフ
||||91第三サツパーダンス牡 Supper Dance IIIの表記も 父サツパーダンス
|||||487第二アバンドン 以下第七吾妻の系統に記載
|||||64山照牡[35]
|||||179雲鳥
||||||1514クモフリー
|||||雲紅
||||||に447岩紅
|||||||2092サチベニ
|||||雲富士
||||||2105名勢
|||||ガスライト 第五吾妻の2代後
|||||第二アバンドン 第七吾妻の4代後
|||||ベロナ
||||||235マリー前名クイーンマリー
||||||レースローレル
|||||||805ローレル
|||||||1168精華
|||||872第四ピースウイング 第五吾妻の4代後
|||||甲子
||||||899ラブガー
|||||エボメード
||||||に304第二エボメード
|||||第五アブリアル 第五吾妻の4代後
|||||1331ホイデン 第三ミュージックの3代後
||||169ブレービー牡
||||第二レヂー
|||||186リミー
||第九チューリップ前名第九吾妻 明治23年父第三スイロン
|||アレキサンドラ
||||95第五アレキサンドラ
|||||ハツハル牡[35][36]大正14年7歳
|||||106博瑞
|||||龍姜
||||||904光登
|||||||2129崇伯
|||||438龍姿
||||||708玄登牡
||||||904光登
||||||1008萬登牡
|||||539天巧牡
|||||547英姿
||||506第七アレキサンドラ競馬名ツイヒナ 旧名ヒロミ[36]
||||第八アレキサンドラ
|||||662揚明牡前名アキラ
|||||1016サツマダケ牡
|||セランダイン
||||128ミスエーホー競馬名ヤエツバキ
|||||2148ハクキン
|||第七ガイヨル牡明治29年父ガイヨル
||||第五ホーソーン明治38年
|||||カチドキ牡[35][36]大正14年5歳
|||||カツヨ牡[35][36]大正14年6歳
|||||55總耀牡[35]
|||||チャムピオン チャンピオン表記も
||||||368雲扇
|||||||516朝扇牡
|||||||607岩扇
|||||||675雪扇
|||||||892月扇
|||||||994波扇牡
|||||||1096久扇
|||||||1182鶴扇
|||||||1288雲羽牡
|||||||1968島扇
||||||第二チャムピオン
|||||||ハヤブサ
||||||||1286スピード
|||||101種博前名エクリツプス エクリップス 義博表記も
||||||109博元前名博駿
|||||||677雪元
||||||||2189ベストモアー牡
||||||||2190スヰフトモアー
|||||||891月元牡
|||||||895月博牡
|||||||996波元牡
|||||||1095久元牡
|||||||1181鶴元
|||||||1290雲元
||||||286昭信
|||||||628伯信
||||||||1106明清牡
||||||||1207秀清牡
|||||||1107明信牡
|||||||1208秀信牡
|||||||711玄信牡
||||||674雪博牡
||||||808雪華
|||||||1058ダイヨツザン
||||||445山博
||||||521朝歌
||||||604岩博牡
||||||898雲華
|||||||1102ヒッショウ
|||||||1162イボアザン
||||||998波博
||||||1097久博
|||||174モンブラン 『第3巻』ではダーブの仔 前名第二ダーブ
||||||777アタゴ
||||||750ハヤマ
||||||1507バンダイ
||||||2163第二モンブラン前名第二ダープ
|||||シリシア
||||||228總名牡
||||||400第二シリシア
|||||||に369遠辰
||||||601オーシヤ牡
||||||739キングホース
||||||1405スワン
||||第四プリムローズ 第四吾妻の2代後
||||第二ラブリー第四高千穂の2代後
|||||432グリンマー競馬名ミヤギ
||||||1428ハヤコ
||||||1429第二ハヤコ
||||カーネーション 第二四ツ谷の2代後 以下吾妻と四ツ谷の子孫
|||||96第六カーネーション[35]
||||||102慶利前名慶嬉
|||||||608岩利
|||||||995波利牡
||||||63山樂牡[35]父ダイヤモンドウエツデイング
||||||287昭良牡
||||||436龍寶牡
||||||629伯賓
|||||||1724武寶牡
|||||||2134崇賓牡
|||||||1109明寶
|||||||2061統寶
||||||377フワシネーション競馬名ヒメコマ
|||||||1675ミントミス
|||||||2171靜山
|||||||2194第四ヒメコマ
||||||||2207星天翔
|||||||561ラステイ
||||||||1676ミントプトン牡
||||||709玄寶
||||||554英寶
|||ブルーム
||||春日前名第五ブルーム
|||||873ブルーム大正10年
||||||874イワタカ
||||||875イワスミ
||||||883勝富
||||1520川柳
|||||1268柳生牡
|||||1521柳月
|||||1522柳花
|||||2140光柳[40]1938年生
||||||クロサカエ父の父はダイオライト
||第四ユスーフ牡明治26年父ユスーフ
|||バソープ明治37年母第二ミュージック 吾妻の牝系なら次の牡まで高砂のミトコンドリアを持つ。
||||イゾノ[36]
||||35第参バソープ[35]
|||||チャーム
||||||129ウイン
|||||||401昭駿
|||||||1387暁駿
||||||||2002雪眞[40]
|||||||||十九雪
||||||||||クインシユース
|||||||||||シーメンス
||||||||||||タカラヒメ
|||||||||||||セカイライフ 以下サラブレッド[40]
||||||||||||||セカイファミリー
|||||||||||||||トウカイオーヒ
||||||||||||||||ハドソンホーク牡2006年
||||||||||セカイオー
||||||||||オーヒ
|||||||||||ダテモアー
||||||||||||コーナンルビー
||||||||||ミスセカイ
||||||||シロユキ
||||||||2157永敢
|||||||812北慶 競馬名セカイイチ
||||||||2000雪慶
||||||||2156永慶
|||||||2158永駿
||||8ホースキング牡
||||125第五十七ハアリー牡
||||第二バソープ
|||||764オーイチ
||||||765第二オーイチ
|||||||791アイ前名ヤヨイ
||||||772ミカド
||||||954第六オーイチ
|第一高砂 吾妻は持込馬との仮定に基づく。父モルモン[41]1/2
||若江
|||に488第三チントウ牡
|第二高砂 明治12年 名前と前述日本軽種馬協会記事より推定 1/2
||筑紫 明治18年父スイロンCeylon1873
|||アドミレーション父ミグノン
||||638第一アドミレーション
||||152第五アドミレーション
|||||1447第六アドミレーション
||||||1448イボアダケ
|||||438第七アドミレーション競馬名ライトマザー
|||カロライン
||||141野菊牡
|||||877アサナミ
||||||1451ジイナミ
||||||1455ハナヒメ
|||||||1972ハツハル
|||||||1988タカユキ
||||第二カロライン
|||||1473ポーツライン
||||1252第三カロライン
|||||1131関ノ音
|||||1427第四カロライン
|第四ブラドレー牡明治14年スイテン記事より、原典不詳
||第四エリース
|||スイテン牡
|||メープル明治43年
||||に293第四メープル
四ツ谷 前述日本軽種馬協会記事より推定 1/1
|第二四ツ谷明治9年 1/2
||初萩明治23年父豪サラ蘭
|||カーネーション 第九吾妻の2代後 以下第九吾妻の子孫に記述 に159同名馬とは別

高砂-第一高砂-トヨ1931年6歳の資料[41]もあるが年齢から各同名の別馬と推定

一部原典未確認の血統[編集]

『登録書』に明記されてはいないが、他で高砂の子孫とされ、生年と生産地から可能性がある馬を参考として示す。原典未確認のため、『第6巻』までと、主な馬、原典が示せる馬を記す。

高砂
|吾妻?
||?
|||ミュージック前名新笛明治22年 原典不詳 イナボレスが吾妻の子孫なら唯一あり得る接点
||||第二ミュージック 父フラミンゴウ
|||||バソープ 第四ユスーフの仔 以下確実な第四ユスーフに記述
|||||ラック
||||||383第三ラック
|||||||470第四タッチストン牡競馬名インペリアル
||||第三ミュージック 父ユスーフ
|||||ツレージュア
||||||94第四ツレージュア[35]
|||||||103華麗
||||||||440龍禮
|||||||288昭敏牡
|||||||310ジプシー
|||||||374賢敏牡
|||||||437龍仁
|||||||542天慶
|||||||544英慶牡
||||||99第五ツレージュア[35]
|||||||285昭幸牡
|||||||172賢幸牡
|||||||435龍相牡
|||||ケープメード
||||||369雲笛
|||||||520朝笛牡
||||||476彌生
|||||アリース
||||||120第七キューバス[35]
||||||第三アリース
|||||||178フローレンス
|||||||1331ホイデン 父第三サッパーダンス 以下血統が確実な前項に記載
||||||第五アリース
|||||||雲鳥 父第三サッパーダンス
|||||アルビー
||||||第二アルビー競馬名チハヤ
||||第四ミュージック明治33年
|||||ベラドンナ明治37年
||||||第四ベラドンナ
|||||||1853瑞盛
||||||||に499月盛[40]昭和8年
|||||||||ハツピウイン
||||||||||ボーレスクイン
|||||||||||イナボレス牡
||||||||オーシス牡 該当記事より
||?
|||高千穂 明治16年 原典不詳
||||第三高千穂
|||||グローリー
||||||149池月[35]前名第七グローリー
|||||||150ライト
|||||||151スカイラーク
|||||||156月姫
||||第四高千穂 名前からの推定
|||||ラブリー
||||||第二ラブリー第九吾妻の2代後 以下血統確実な前項に記載
||||第六高千穂 名前からの推定
|||||ウェールス
||||||第三ウェールス
|||||||199クロンウェール牡
|||||||269ヂーサイド
||||||||270雲碧
||||||ファブリック
|||||||378第四ファブリック

時期[編集]

馬が到着した時期については、文久・慶応の両説があるため、前述の内容と重複するが、両説の根拠を併記する。 1861〜1864年が文久、1864〜1865年が元治、1865〜1868年が慶応だが、いずれも年の途中に改元され、また、太陽暦・太陰暦、馬齢の数え方のずれにも注意が必要である。

文久説[編集]

『取調書』の書付には1860年とある。26頭の馬の名前・特徴がそれぞれ記され、農商務省の文書であり、信憑性は高い。明確な根拠がない限り否定しがたい。後に、1866年を1860年と誤った可能性はあるが、当時の日本人が慶応を文久と誤るとは考えにくい。日本着は翌1861年(文久元年)と考えられる。実際に馬を見た村上要信は前掲書に書付の写しを掲載し、1860年に我が萬延元年と注釈をつけており、疑いを持っていなかったと考えられる。

廣澤が触れた、ハリー号が明治19年(1886年)に29歳とする新聞記事は、現在、馬の生年月日が不明のため、『取調書』の書付と照合した場合、三通りの考え方ができる。書付と新聞記事の年齢を満年齢とし、イロンデールが7歳のうちに日本着とすると、29歳はその22年後のため、1864年(文久4年)日本着である。残り二通りは慶応の節に記す。

『下総御料牧場要覧』に文久年間に輸入、『畜産要務彙集』では蚕種数万枚に対する返礼として文久年間に来たとしている。

今井吉平の記述は、第二次長州征伐前の時期の将軍の権威に関する認識の欠如を示す一方で、大正初期には馬が文久期に来たと信じられていた事を示す。

今井幹夫は蚕卵紙が文久元年と慶応元年の2回にわたって送られ、馬は文久年間に来たとしている。

慶応説[編集]

廣澤安任は、慶応2年末〜慶応3年末(太陽暦1867年1月〜1968年1月)在職の慶喜公の時に来たと記している。会津藩士であった廣澤が将軍の在職期間を間違える可能性は低い。 廣澤が触れた新聞記事は、日本での年齢を数えとするか満年齢とするかでさらに二通りの考え方ができる。書付の7歳を、日本人が当時の習慣に従い、数えの8歳と考えたとすれば、日本着は数えの9歳、数え29歳はその20年後のため、日本着は1866年(慶応2年)となる。新聞記事の29歳を満年齢とすると、8歳、1865年(元治元年・慶応元年)日本着になる。

『東葛飾郡誌』の記述は、鎌ヶ谷の牧士の末裔で貴族院議員でもあった三橋彌による明治39年の新聞記事を掲載したものである。少なくとも小金牧へ来たのは慶応年間であった可能性が高い。

慶応2年2月25日作成とされる『亜剌比亜馬横浜表江牽移候義ニ付申上候書付』[16]の内容は未公開のため、アラビア馬到着の前か後か不明だが、国内から横浜にアラビア馬を移送する可能性は極めて低い。

慶応2年12月29日「仏国帝へ製鉄器械語学伝習大砲寄贈三兵伝習留学生委託「アラヒヤ」馬種ヲ伝ウル等ノ数件ヲ陳謝ノ国書」とする資料[25]が残る。

今泉六郎は前掲書中で慶應3年秋に贈られたと記している。旧暦での秋は7〜9月である。

カズヌーブがブリュネと行動を共にする等、軍事顧問団の一員とする資料、カズヌーブと馬を結びつける資料は多い。輸送の手間を考慮すると、馬は、1867年1月(慶応2年12月)の軍事顧問団より後に到着した事になる。今井吉平自身、「カズヌーフ」が「附添来れり」と記している。ただし、今井はイロンデールをアイヨンデールと記し、書付の原文は見ていないと考えられる。

クリスチャン・ポラック[5]によれば蚕卵紙の発送は1965年11月で、澤護の説を裏付けている。

脚注[編集]

  1. ^ 国立公文書館明治19年『蚕種検査規則同取扱手続ヲ定ム』
  2. ^ 北村實彬・野崎 稔 『農林水産省における蚕糸試験研究の歴史』第1部 組織変遷の歴史
  3. ^ 1940年、京都帝国大学、本庄栄治郎『幕末の蚕種貿易』KURENAIより検索
  4. ^ 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター編 今井幹夫富岡製糸場の歴史と文化
  5. ^ a b 在日フランス商工会、La Lattre Mensuelle 2007 3 15
  6. ^ a b c 外務省より「外務省案内・外務本省・外交資料Q&A」
  7. ^ 国立公文書館 アジア歴史資料センター『続通信全覧』中『類輯之部 物産門 蚕卵寄贈及購求之件』
  8. ^ 小金牧参照
  9. ^ a b c d e 広報しろい2012年8月15日号
  10. ^ a b c d e 千葉県発行『千葉県の歴史』通史編2
  11. ^ a b c d e 1987年『箱館戦争に荷担した10人のフランス人(人文科学編) Dix Francais a la Republique ephemere de Hakodate(The Humanities)』、2007年『S.カズヌーブに関する若干の資料Des Documents sur S. Cazeneuve』いずれも国立情報学研究所サイニイより検索、閲覧可能
  12. ^ アンドレ・カズヌーヴ参照。いずれも本人に接していた大鳥圭介がカズノフ、鼓包武がカズヌーフと記しており、原則としてカズヌーフと記す。アンドレとする根拠は未提示だが、当時のフランス人は洗礼名を複数持つ事が多く、シモンと共に正しいと考えられる。国立公文書館はアンドレとしている。ジュール・ブリュネフランス語版ノート参照。
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 国立国会図書館蔵
  14. ^ 第401回月例発表会2008年12月27日
  15. ^ a b 松戸市より「市の紹介・公共施設ガイド・博物館歴史館・戸定歴史館・デジタルアーカイヴ」参照。
  16. ^ a b c d e f g h 国立公文書館蔵
  17. ^ 『川口家文書の研究』科研費補助金データベースより検索、概要が閲覧可能。
  18. ^ a b c 北海道開拓記念館『北海道開拓記念館調査報告・第40号』三浦泰之「函館大経氏ノ談話」河野常吉の聞き取りから
  19. ^ 千葉県立図書館蔵
  20. ^ 英語版日仏関係(19世紀)では25頭、Meron Medzini "DURING THE CLOSING YEARS OF THE TOKUGAWA RESIME"(Harvard College 1971)では16頭としている
  21. ^ 小野増平(広島経済大学)『草創期の中国地方の新聞』、香川大学図書館・神原文庫、いずれも、インターネットで閲覧可能
  22. ^ 江戸東京博物館・図書室リファレンス2005年
  23. ^ 函館市より函館人物誌
  24. ^ 畜産上施政ノ顛末
  25. ^ a b c d e f g h i 国立公文書館アジア歴史資料センター
  26. ^ 資料はインターネットでは2つの資料に分断
  27. ^ 文書中では小金井牧場、小金と小金井の混同は江戸時代から散見され、司馬遼太郎の小説『最後の将軍 徳川慶喜』にも見られる。
  28. ^ アンドレ・カズヌーヴ参照
  29. ^ 戸崎晃明『白毛の遺伝子が解析されて
  30. ^ 青空文庫で閲覧可能
  31. ^ 宮内庁ホームページ書陵部所蔵資料
  32. ^ 明治3年7月『仏人ブリユネー等賊軍ニ党与ニ付仏国政府ニ於テ其罪ヲ罸セシム』、アラビヤ馬医カツノフとある。
  33. ^ 原稿は1887年
  34. ^ a b ergはアラビア語からの外来語
  35. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 千葉縣印旛郡下總御料牧場産
  36. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『春季競馬成績書大正14年』
  37. ^ a b 春期競馬成績書大正15年
  38. ^ a b 帝室御賞典参照
  39. ^ a b 『競馬成績書昭和3年秋季』11頭中2頭の吾妻の子孫を含め3頭の父はチャペルブランプトン
  40. ^ a b c d e f g h i 以下日本軽種馬協会検索システムJBISより
  41. ^ a b 『競馬成績書昭和6年秋季』

参考文献[編集]

  • 早坂昇治『競馬異外史』中央競馬ピーアール・センター、1987年。ISBN 4-924426-20-2。
  • 青木更吉『小金牧を歩く』崙書房、2003年。ISBN 978-4845510948。