ナリタハヤブサ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナリタハヤブサ
欧字表記 Narita Hayabusa
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1987年4月28日
死没 2003年2月27日(17歳没・旧表記)
ナグルスキー
フェアーカップ
母の父 ダイハード
生国 日本の旗 日本北海道門別町
生産 下河辺牧場
馬主 山路秀則
→岩村忠太
調教師 中尾謙太郎栗東
→向山勝(新潟
厩務員 角居勝彦
→ ?
競走成績
生涯成績 中央競馬33戦5勝
地方競馬8戦4勝
獲得賞金 3億1366万6600円
テンプレートを表示

ナリタハヤブサは、日本競走馬種牡馬。1990年代初期のダート戦線で活躍し、1991年JRA賞最優秀ダートホースを受賞した。

馬齢は旧表記で統一する。

戦績[編集]

1989年9月にデビュー。しばらくは芝のレースに出走していたがなかなか勝ちきれず、皐月賞にも出走したものの12着と大敗している。

転機となったのは1990年12月のウインターステークス。初のダートレースへの出走だったが、カリブソングやオサイチブレベストといった当時のダートの強豪馬を相手にレコードで優勝。さらに年が明けた1991年1月のフェブラリーハンデキャップでもレコード勝ちを収め、ダートの強豪として認識されるようになる。年末のウインターステークスでは再びレコードで連覇、この年のJRA賞最優秀ダートホースを受賞した。

1992年には帝王賞でラシアンゴールドとの同着優勝となり、続く武蔵野ステークスで4回目のレコード勝ち。この時記録したダート1600mを60.5キロというトップハンデで1分34秒5というタイムは当時としては驚異的なものであり、2001年クロフネに塗り替えられるまで日本レコードだった。 その後中央競馬では勝利を収めることはできず、現役晩年には新潟へと移籍した。 引退後は種牡馬となり門別町の三浦牧場で繋養されていたが、産駒のうち目立つのは中央で3勝を挙げたファルコンシチー、アンプルカット、地方ではアイアンハヤブサ程度で、活躍馬を出すことができなかった。2003年2月27日に左前脚を骨折、安楽死となった。なお母の父としては七夕賞勝ちのドモナラズを出している[1]

[編集]

3歳時には芝の重賞競走であるペガサスステークススプリングステークスで2着、その他にも重賞でたびたび入着しており、もともとは芝路線での大成を期待されていた馬だった。しかし蹄が非常に脆かったために、芝に比べて負担のかからないダート路線へと転向せざるを得なかったという事情がある[2]。本馬の装蹄はディープインパクトエアグルーヴの装蹄も務めた西内荘が担当しており、西内は後に「今の自分の技術で装蹄することができたら、メジロマックイーンのライバルになれたかも知れない」との評価を送っている[2]

血統表[編集]

ナリタハヤブサ血統ニジンスキー系 / Nearco5×5=6.25%) (血統表の出典)

*ナグルスキー
Nagurski 1981
鹿毛 カナダ
父の父
Nijinsky II 1967
鹿毛 カナダ
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Flaming Page Bull Page
Flaring Top
父の母
Deceit 1968
黒鹿毛 アメリカ
Prince John Princequillo
Not Afraid
Double Agent Double Jay
Conniver

フェアーカップ 1968
鹿毛 日本
*ダイハード
Die Hard 1957
栃栗毛 イギリス
Never Say Die Nasrullah
Singing Grass
Mixed Blessing Brumeux
Pot-Pourri
母の母
健宝 1959
黒鹿毛 日本
*ヒンドスタン
Hindostan
Bois Roussel
Sonibai
トキノタカラ *プリメロ
スターカップ F-No.3-l

ナグルスキー産駒にはダート巧者が多く、本馬以外にもホクトベガなどの活躍馬がいる。祖母「健宝」は1962年の桜花賞優勝馬ケンホウであり、その従姉に史上屈指の名繁殖牝馬として知られるシラオキがいる。母系は1907年に小岩井農場が輸入した20頭の繁殖牝馬のうちの1頭、フロリースカップに遡る。

脚注[編集]

  1. ^ 母は産駒の中でただ一頭繁殖入りしたアンプルカットである
  2. ^ a b 城崎哲『カリスマ装蹄師西内荘の競馬技術 - 空飛ぶ蹄鉄をいかにデザインするか』白夜書房 p.84