ヌビア王国

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ヌビア王国
Nubia
エジプト第22王朝
エジプト第23王朝
エジプト第24王朝
紀元前500年前後 - 5世紀頃 エジプト第26王朝
アクスム王国
:en:nobatia
:en:makuria
:en:alodia
ヌビアの位置
エジプト第25王朝」時代の位置。赤い丸に囲まれた地域が、王国の中心地だった範囲と、ヌビア人の主な活動範囲である。
公用語 古代エジプト語ヌビア語メロエ語
首都 ケルマ、ナパタメロエ
ファラオ
紀元前747年 - 紀元前722年 ピイ
紀元前690年 - 紀元前664年タハルカ(Taharqa
紀元前664年頃 - 紀元前656年タヌトアメン
紀元前542年頃 - 紀元前538年アナルマイエ(Analmaye
紀元前335年頃 - 紀元前315年ナスタセン(Nastasen
245年頃 - 265年テクェリアマニ2世(Analmaye
不詳(4世紀) - 不詳(4世紀)ラキデアマニ(Lakhideamani)
変遷
ヌビアの成立 紀元前2000年頃
古代エジプトの支配の開始紀元前700年頃
古代エジプトからの撤退紀元前650年頃
「ヌビア人の王国」の崩壊紀元5世紀頃
通貨古代エジプト貨
現在 エジプト
スーダンの旗 スーダン
南スーダンの旗 南スーダン
 リビア
ヌビア王国の王たち

ヌビア王国[1](ヌビアおうこく、英語:Nubian Kingdom英語発音: [ˈnjubiʌn kíŋdəm]アラビア語:مملكة النوبيةギリシア語:Βασίλειο της Νουβίας紀元前500年前後 - 5世紀頃)とは、エジプト南部アスワンあたりからスーダンにかけて存在した黒人であるヌビア人王国の総称[1]ヌビア朝エチオピア王朝[1][2]とも。これは古代ギリシアではヌビアのことを「エチオピア」と呼んでいたことに由来する[3]エジプト第25王朝クシュメロエ王国などの総称であり[4]、それらは同系列の文化を保持し、民族も同じであったと考えられる[3]

最も早い時代にナイル川流域で発達した文明の一つである「クシュ[5][6]」の延長線上にある国家といわれ、ナパタ(英語:Napata)を都としたヌビア王国はエジプトの領域内への進入の時期の後で発展し[7]エジプト新王国と相互に影響を与え合っていた。後にエジプト人から駆逐されるが、その後も南方のヌビア砂漠において王国が存続し、後にメロエへと遷都する。メロエ文字を作り出し、王は神殿を建設し、メロエのピラミッドに埋葬されるなど繁栄した。その後、南部のエチオピアや北部のペルシャ帝国ローマ帝国等に圧迫されて衰退するものの、5世紀ごろまで政権と民族を継承させることとなった。

アラビア語ではヌーバと呼ばれる。ヌビア人はレプシウスにより「黒人との混血」、ライニシュにより「原ハム語」、ヴェステルマンにより「スーダン系」とされてきたが、グリーンバーグ以降ナイル・サハラ語族の東スーダン語派とされている[8]。呼称の由来は古代エジプト語の「ヌブ」(金、の意。金などの鉱山資源に恵まれたことから)から古代ギリシアローマ人がそう呼んだのが始まりである。

一時はエジプトを征服し、ピイ王以降には古代エジプトファラオにも即位しているヌビア王国の王が何人かいる(ピイPiye)、シャバカ(Shabaka)、シャバタカ(Shebitku)、タハルカ(Taharqa)、タヌトアメンTanutamun)、それ以降の王たち。)。

概要[編集]

ヌビア王国は、前述にあるようにナイル上流にあった黒人最古の王国であるが、一概に「ヌビア王国」と総称する。このヌビア王国は、クシュ王国、その前身であるケルマ王国(ケルマ王朝)、ナパタ王国(ナパタ王朝)、紀元前8世紀の古代エジプトを支配しファラオを称したエジプト第25王朝(ヌビア朝)、メロエに遷都して以降のメロエ王国の総称である[9]。これらの王朝は全てが連続した政権・国家であるが、このクシュ王国の3つの王朝(ケルマ王朝・ナパタ王朝・メロエ王朝)や古代エジプトへの進出・後退などの節目で呼び分けられている。

およそ紀元前10世紀頃、エジプト文明の影響を受けてナイル川沿岸でヌビア人の王国が成立した。この王国はアフリカで最古の黒人王朝であるとされる。はじめはナパタを都として栄え、エジプト新王国時代にはその征服を受け植民地と成ったが、紀元前8世紀頃は勢いを盛り返し、エジプト末期王朝の時期にはエジプト全土を支配しファラオを称した。この王朝をエジプト第25王朝と呼び、約100年間続いた。

しかし、前671年にアッシリア帝国がエジプトに侵入しすると、それに押されてナイル上流に後退した。その後の期間はナパタを都とし、エジプト第25王朝の血統が続いたが、王朝交代後は更にナイル川の上流域に移動した。その結果、前540年頃、新たな都を資源が豊かな南のメロエに定め、これ以降をメロエ王国とも言い区別されている。

紀元後3 - 4世紀頃には、ある程度の繁栄を見せたメロエ王国であったが、4世紀の後半、アラビア半島からエチオピア一帯に侵入したアクスム王国のに圧迫されて滅亡した[10]

この王国もナイル川に面し、紅海方面とナイル川上流域を結ぶ交易に中心地として栄えたらしく、現在ゲベル・バルカル(ジェベル・バルカル、旧ナパタ[11])やワド・ベン・ナカなどのヌビア遺跡が発掘されている。また、メロエを中心に、プトレマイオス朝エジプトローマ帝国とも盛んに交易を行い、またアフリカ内陸部の文化にも影響を与えたとされる。また、独自のメロエ文字というエジプトの象形文字ヒエログリフを簡略化した文字も用いられていたことがわかっている。

この文明は鉄器文明に分類されている。発掘の結果、多量の鉄製品が出土し、高度な文明を持っていたことが示唆されている。また、この製鉄技術がアフリカ内部へと伝播したという説がある。また、ローマ帝国はたびたびこの地に遠征している。しかし、それでもこの地に重要性がなかったのか撤退しているし、首都メロエに攻め込まれた例はない。

歴史[編集]

成立[編集]

エジプトの支配[編集]

ヌビア人の勢力範囲、この地域が基盤となって成立した。

ヌビアは、もともと古代エジプトとは同一の祖先から別れた国であった。ヌビアは古代からなどの鉱物資源に恵まれ、エジプトにとって重要な役割を担ってきた。

初めにエジプトの資料によって言及されたのは、エジプト第1王朝(紀元前3100年頃 - 紀元前2890年頃)の時代で、ヌビア人の国として知られている最初の国は「ケルマ王国」と呼ばれた。ケルマ王国はヌビアで最初の中央集権国家であり、その建築様式や埋葬形式はヌビア土着のもので、王国は紀元前2600年ごろに興った。ヌビア砂漠の一体とスーダンナイル川流域、それとアスワン辺りの上エジプトの一部を支配したが、文字資料が発見されていない上、エジプトの資料もめったに言及していないので、これらの人々についてはほとんど知られていない。

古王国時代のエジプトとは人的・物的資源の供給地として、また南方との交易路として重要な役割を果した。特にこの地で産する黄金象牙香料黒檀石材などは重要な物品であった。したがって古代エジプトの歴代の王たちはヌビア経営を重要な政策として考えた。しかし、特に中王国時代の第 11王朝よりヌビアの征服が開始され、新王国時代は全ヌビアが王権のもとに制圧された。エジプトの支配時代に多くの神殿や城塞が建てられ、アブ・シンベル神殿などの古代エジプト遺跡が残る。

紀元前2500年頃、エジプトが南に移動し始めた。私たちの持つクシュに関する知識のほとんどはそれらを通してきている。しかしこの拡大は、エジプト中王国の凋落によって止まった。紀元前1500年ごろエジプトの拡大は再び始まったが、このときは組織化された抵抗に遭遇した(歴史家たちはこの抵抗が多種多様な都市国家に由来するものなのか、一つの統一された帝国に由来するものなのか確信を持っていない。独立した国家という観念が土着のものなのかエジプト人から持ち込まれたものなのかということにも議論の余地がある)。エジプトは優勢で、この地域はトトメス1世の支配下におかれ「植民地化」された。トトメス1世の軍隊はたくさんの堅固な要塞を築いた。ヌビア王国はいったん崩壊し、ヌビア人は古代エジプト人による支配に甘んじた。ヌビア地域は、その名の由来と成った金や、奴隷をはじめとする様々な資源を供給した。

なお、ヌビアの人々は古代エジプト人に奴隷として圧政を敷かれていたという説も存在するが、それは誤った説であり、あくまでも珍しい物品の産出地として重宝され、確かに奴隷も産出したが、全体が奴隷のように支配されていたというわけではない。また、ヌビア地方では、エジプト新王国時代のエジプトの植民地支配を経て、エジプト文化が広く普及するようになった。

政治や宗教の中心地であったナパタという都市はナイル川第4急湍よりやや下流、かつて「清純の山」と呼ばれていたゲベル・バルカルという岩山の麓にあった。ここに残存する遺物の数々から、ヌビア人が(少なくとも支配階級は)高度にエジプト化されていたことが把握できる。彼らはエジプト風の記念物を建設し、アメンを信奉、ヒエログリフを用いて碑文を残したりもした。さらにエジプトと同じようにアメン神官団が大きな力を持つようになり、しばしば政策にも影響を与えた。

ケルマ王国[編集]

ケルマ

紀元前8世紀前後、新王国の衰退に伴ってエジプトがヌビアから撤退した後、ヌビアのナパタに本拠地を置いた王国の独立運動が起こり、ヌビア人達はナパタを都として独自の王国を建設した[1]。また、紀元前11世紀にエジプトでの内部抗争により「植民地」支配が完全に崩壊して、この王国は植民地の政権を転覆させた地元民であるヌビア人たちの手によって支配された。王国ではエジプトの文化と技術の影響があり、土着の神と同じようになされたエジプトの神も崇拝された。

2003年、ゲベル・バルカルは周辺のナパタ地方の遺跡群とともに、「ゲベル・バルカルとナパタ地方の遺跡群」として世界遺産に登録された。平坦なスーダン砂漠に山が1つぽつんと立っていて、それがゲベル・バルカルである。ゲベル・バルカルにあるアムン神殿のような大神殿は、地元民から神聖視されていたと見なされている。ゲベル・バルカル周辺の遺跡には、少なくとも13の神殿と3つの宮殿が含まれる。ナイル川が大きく蛇行している地域の西に位置するその山のふもとには、数世紀にわたって王宮が存在していた。エジプトのファラオ・トトメス3世ヌビアを征服したとき、都市ナパタ英語版を建設した。後に、エジプト第25王朝ヌビア王ピイは、この街のアムン寺院を大幅に拡大し、その中に彼の「勝利の碑文」を建てた。だが今は、遺跡があるだけだ。

このナパタを始めとしたヌビア地方の遺跡、及びエジプトから発見される遺物などから、ナパタの王家はアララ英語版という王と彼の兄弟カシュタ英語版によって始まったと考えられるが、彼らの治世を証明する証拠は少ない。また、アララとカシュタの治世に関する記録はほとんど無いが、カシュタの王名を記した記念碑がアスワンで発見されていることから、彼が上エジプト南部地域まで勢力を拡張していたとされる。

ナイルデルタの支配者たちから貢物を受け取るピアンキ王

そして、ヌビア王国の王、カシュタ王(Kashta)とその王妃ペバトマ英語版の子ピイ(ピアンキ、ピイ、ピエとも)の二人の王の下で、ヌビア王国の本拠地ナパタはとても有力になった。そして、彼はエジプトに対する支配を打ち立てることになる。ピアンキのエジプト征服の詳細については、ゲベル・バルカルのアメン神殿で発見された『勝利の碑文』と呼ばれる花崗岩製の大碑文から知ることができる。それによればピアンキ王は、当時のエジプトの分裂とリビア人王朝の支配、即ちタニスの第22王朝、レオントポリスの第23王朝、ヘルモポリスの王朝、ヘラクレオポリス(エジプト語: Hwt-nen-nesu - ネンネス)の王朝、そしてサイスの第24王朝による割拠状態を目にし、「旧宗主国の秩序とアメン神の権威を立て直す」ためにエジプトへの遠征を決意したと言う。

最盛期[編集]

勝利の碑文にはこのようなことが書かれているが、実際は、当時すでに上エジプトにはヌビアに忠実な地方支配者が幾人もおり、より直接的にはこれらの地方支配者が敵の攻撃を受けて救援依頼をしてきたのが遠征の理由であった。

そして、ピアンキ王はエジプトを征服し、エジプト第25王朝を建国した。この王朝は、ヌビア王国の延長線上に存在する国家であるので、「ヌビア朝」 とも呼ばれた。

ピアンキは軍勢を率いて北上し、まずエジプトのアメン信仰の中心テーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール[12])を抵抗を受けることもなく占領した。

そこでピイは神殿においてアムン神に捧げる宗教儀式を行うとともに、自分の妹であるアメンイルディス1世を、当時の「アメンの聖妻」シェプエンウエペト1世の養女にし、その後継者とした。これによってテーベのアメン神官団対するコントロールを強めた。エジプト北部では第24王朝のテフナクト1世英語版を中心に対ヌビアの同盟が組まれたが、上エジプトの重要都市ヘラクレオポリスの王ペフチャウアバステトは早々にヌビアに従った[13][14]

テフナクト1世はヘルモポリスのニムロトを誘い、彼を同盟側に引き入れると、ヌビアへの従属を決めたヘラクレオポリスを包囲した。ヘラクレオポリス王ペフチャウアバステトは篭城してこれに対抗し、ヌビア軍の救援を待った。そしてヌビア軍が到着したことで、両軍は戦闘に入った。同盟軍側にはテフナクト1世の他、第22王朝オソルコン4世英語版第23王朝イウプト2世、ヘルモポリスのニムロトという3人の王、及びその他の州侯が多数参加していた。ヌビア軍はこの戦いで勝利し、ヘラクレオポリスを包囲していたテフナクト1世らは自領へと引いた。ペフチャウアバステトは包囲からの解放者としてピアンキを大歓迎したと言う。

ヘラクレオポリスに進駐したピアンキは周辺諸地域を平定しつつ、反転してヘルモポリスを攻撃した。ヘルモポリス王ニムロトは5ヶ月にわたって篭城し抵抗したが、食料の欠乏などのため勝算が無いのを理解すると降伏した。この結果、上エジプトの全域がヌビア軍の占領するところとなった。この時ピアンキが降伏したニムロトに対して、ヘルモポリスで飼われていた馬が飢えていることを叱責したという説話が、やはり『勝利の碑文』に残されている。

ピイ王は(ニムロト王の親族には)興味を示さず、家畜の飼育施設へと向かった。そして(包囲の厳しさのために)動物達が飢えているのを見て仰られた。「ラー神の恵みにより私の呼吸に生命が与え続けられる限り、誓って言うが、汝(ニムロト)が自らの欲望の追求のために行ったどんな悪事よりも、馬達が飢えに苦しんでいることの方がずっと嘆かわしい…私はこのことで汝を非難せざるを得ない。」

上エジプトを平定したピアンキは遂に下エジプトの入り口に当たる古都メンフィスに迫った。第24王朝のテフナクト1世はメンフィスに8000人の兵士を配置して防御に当たらせた。一方メンフィスを包囲したピアンキは水上から都市を落とすことを画策した。ヌビア軍はナイル川各地の船を徴発すると、それを使って川を横断して市内に侵入し、メンフィスを陥落させることに成功したのである。

このメンフィスの陥落はピアンキのエジプト遠征の成功を決定付けるものであった。メンフィス陥落直後、第23王朝のイウプトは王子らとともにピアンキに降伏し、彼の庇護下で自領の統治権を維持する道を選んだ。下エジプトに入ったピアンキは、ラー信仰の中心都市ヘリオポリスに入り、そこでラー神に捧げる儀式を執り行った。ヘリオポリス進駐から間もなく、第22王朝のオソルコン4世も降伏してイウプトと同じようにピアンキの臣下となった。第24王朝のテフナクト1世は沼沢地帯に逃げ込みなお散発的な軍事行動を行っていたが、ここに至ってピアンキに降伏の意思を伝え忠誠を誓った。こうして全エジプトがヌビアの支配下に収まることとなった。

このころの文化は、ほとんどエジプト化されていたと考えられている。その証拠として、のちに本拠地となるメロエのちには、エジプト的なピラミッドがいくつも建造された。

エジプトからの撤退[編集]

ナパタ王国[編集]

タハルカ英語版

ピアンキ王が死去すると、シャバカの14年の治世の後、ピアンキの息子であるシャバタカが王位を継いだ。シャバタカの治世に入るとアッシリアの拡大が重大な問題となっていた。紀元前690年にシャバタカ王が死去するとタハルカ英語版が王位を継承した。

カルナック神殿に残るタハルカ英語版王の円柱

タハルカの即位当初はアッシリアの脅威が遠のいた。それはアッシリアで紀元前681年にセンナケリブが暗殺され、王位を巡って内戦が勃発したためである。この一時的な平和の間にタハルカは熱心に内政に取り組み、大規模な建築を数多く残している。特に有名なのはカルナックのアメン神殿における巨大柱廊の再建であり、現在でもその威容を残している。また、カルナック神殿には脇に「タハルカ神殿」を築いた。対外的には、紀元前673年にパレスチナのアシュケロンの対アッシリア反乱を支援してこれを成功させた。

タハルカは紀元前690年、31歳のときにメンフィスで戴冠し、26年間エジプトとヌビアを支配した。この時代、エジプト第25王朝は最盛期を迎えたとされ、豊かで平和な時代を統治し、タハルカはカルナック神殿を含む多くの建設事業を行った。妹をアメンの神妻の地位につけ、内政も安定させ、ナイルの反乱の影響もあって農業も好調だった。

しかしタハルカの成功はアッシリアの内政安定とともに失われた。アッシリアの王位継承の内戦を、母ナキアの支援の下で勝利したエサルハドンは、紀元前671年に大軍を率いてエジプトへと向かってきた。タハルカはこのアッシリア軍の侵攻を食い止めることができず、遂にアッシリア軍はエジプト本国へと侵入、タハルカは下エジプトで行われた戦いで敗れ、メンフィスが陥落した。その際にはタハルカ王の親族の大半がアッシリアに捕らえられ、タハルカ自身は負傷してテーベへと逃走した。紀元前671年にアッシリアが侵攻したとき、ヌビア王国はエジプトから撤退した。紀元前591年プサメティク(Psammetik)2世治世下のエジプトがクシュに侵攻した。おそらくクシュの支配者アスペルタ(Aspelta)がエジプトに侵攻する準備をしていたためで、エジプトはすぐに撤退した。

タハルカ英語版の北進と下エジプトの反乱を受けて、アッシュールバニパルは再びエジプトへと侵攻した。紀元前667年、アッシリア軍の攻勢を受けてタハルカは再び敗北し、アッシュールパニパルはさらに戦線をエジプト内部まで推し進め、ついにテーベが陥落し、テーベからも逃走してさらにナイル川上流のナパタ英語版まで撤退し、王宮を遷した。当時のテーベの長官メンチュエムハトはアッシリアに降り、全エジプトがアッシリアの支配下に置かれた。

エジプトの諸侯たちはタハルカについて戦い、一時は勝利したものの、エサルハドンに続くアッシュールパニパルに攻め落とされる。

アッシュールバニパルはタハルカの進軍にあわせて下エジプトで反乱を起こしたエジプト貴族の大半を処刑したが、この時、アッシリアに従順であったエジプト第24王朝の王家の子孫ともいわれるサイスネコ1世(ネカウ1世)だけは、「サイスの王」としての地位を保障され、またネコ1世の息子、プサメティコス1世(プサムテク1世)は「アトリビスの王」として、父とともにエジプトの管理をアッシリアから任された。アッシリアの手によって有力な貴族の多くがその力を失う中で、地位を維持したサイスの王家はエジプトにおける地位を確固たるものとしていくことになる。

その後、完全にヌビアの勢力を追い払ったとされるネカウ1世がアッシリアの後ろ盾のもと下エジプトを支配するようになる。アッシリアは、ネカウ1世と、その息子プサメティク1世を首都ニネヴェで教育し、傀儡政権に仕立て上げようとした。そしてこのサイスの王家がエジプト第26王朝とよばれる政権を形成することになる。サイスを都とし、そのためサイス朝と呼ばれることもあるこの王朝は、後にアッシリアの弱体化に乗じて独立を達成し、オリエントの四大国の1つとして大きな影響力をもった[15]

その一方、タハルカの死後、シャバカ王の息子であり、そのタハルカの甥であったタヌトアメン(「バカレ」とも[16])が跡を継ぎ、エジプト本土の奪還に乗り出した。一時はナイル川を下って快進撃を遂げてメンフィスの周辺にまで再征服したが、それもまたアッシリアの反撃による逃亡によって失敗に終わった。しかし、アッシリア王はヌビアまでは進軍しなかったために、タヌトアメンはヌビア王国の支配を引き続き認められた[17] 。その後、彼はヌビア王国のみを支配し、彼の死(紀元前656年)を以てエジプト第25王朝は滅亡したとされている。タヌトアメンは、最後にエジプトを支配したヌビア王であった。

彼はピイ王の「勝利の碑文」と呼ばれる石碑の隣に「夢の碑文」と呼ばれる石碑を奉納した。その内容は、

(王は)二匹の蛇が出てくる夢を見た。この夢は「南の国はあなたのものです。あなたは北の国をも取りなさい。」と言う意味に解され、彼はそれに従ってエジプトの再征服に向けて軍事行動を起こしたのだ。

という物であったと言う。

タヌトアメンの跡を継いだ王アトラネルサ(Atlanersa)は、タハルカに次いでヌリにピラミッドを建設した2番目のヌビア王であった。エジプトのヌビア王朝の最後の支配者であるタヌトアメンの後継者として紀元前653、王に即位した。彼の父の候補の一人であるタヌトアメンとは異なり、彼の支配下では、アスワンの南のヌビア地域のみを支配した。もちろん彼はエジプトに対するヌビア人の影響力を失うことを認めたくはなかった彼は、彼の称号の一部に「エジプトのファラオ」という言葉を付け加えたが、この称号は明らかに名目上のものであった。その時代、先王タヌトアメンがアッシリアに敗れて以来、ヌビア王国は古代エジプトに影響を与えなかった。

アトラネルサの父に関しては確固たる定説が存在するわけではない。ファラオ・タハルカ王の息子か、あるいはタヌトアメン王の息子だった。アトラネルサはジェトゥールとケールの2人の姉妹と結婚しました。王妃の中には、後に王位に就くセンカマニスケンとペルタセンの母親であるマロタラルも含まれる可能性がある。その名前は部分的にしか保存されていない女性「 - タバ」は、別の男の妻である可能性も高い。

また、アトラネルサの最も著名な建築物は、未完成のゲベル・バルカル寺院のオシリス・デドウェン神へ捧げた寺院である。この神殿からは、アトラネルサの名前が刻まれた花崗岩製の祭壇が見つかっている。この寺院は一部は製作途中で、これはアトラネルサ王が予期せず死んだことを示唆する。寺院の入り口には王の2つの巨大な彫像が並び、そのうちの1つは完成しており、現在はスーダン国立博物館に所蔵されている。また、彼の名前のオベリスクの破片がドンゴル遺跡で発見された。

アトラネルサは紀元前643年に死亡し、彼はヌリ遺跡のピラミッド20に葬られた。

「メロエ王国」への発展[編集]

クシュ王国[編集]

アトラネルサの死後、跡を継いだのはセヌカマヌイスケン(Senkamanisken)、その後継者はアヌラマニ(Anlamani)、アスペルタ(Aspelta)と続いた。紀元前591年エジプト本土のファラオ・プサムテク2世(Psammetik Ⅱ)治世下のエジプトがクシュに侵攻した。アスペルタ王はそこでより南方のメロエへ遷都した。それ以降、ヌビア王国は「メロエ王国」とも呼ばれるようになる。遷都した時期については、紀元前670年ごろとする説もある。おそらくクシュの支配者アスペルタ(Aspelta)がエジプトに侵攻する準備をしていたためで、エジプトはすぐに撤退した。

メロエ王国[編集]

王アスペルタ(在位:前600年頃 - 前580年頃)の後継者が彼らの王宮をナパタよりずっとかなり南のメロエに持っていたのは記録から明らかだ。遷都の正確な日付は不確かだが、ある歴史家達はヌビア南部へのエジプトの侵攻に対応して、アスペルタの統治期間中だと信じている。他の歴史家達は王国を南にやったのは、鉄の鉱山の魅力だと信じている。メロエ周辺にはナパタと違って、溶鉱炉を燃やすことが出来る大きな森がある。地域のいたるところにギリシャ人商人が到達したことはまたクシュがもはやナイル沿いの交易に依存しているのではなく、むしろ製品を東の紅海へ輸出し、そしてギリシャ人が植民都市と交易していたことを意味する。

アスペルタの死後、その息子アラマトレ=クォ(Aramatle-qo)、その後継者はマロナクエン(Malonaqen)と続いた。しかし、マロナクエンでナパタ王家は途絶え、紀元前542年頃、ナパタに勢力を持つナパタ王家から、メロエに根差すメロエ王家へと王朝が交代したと言われている。メロエ王家の初代王はアナルマイエ(Analmaye、在位:前542年頃 – 前538年頃)で、その後はメロエ王家が王国を支配した。

他の学説によると、ヌビア王国はナパタ(ギリシア語:Νάπατα)を本拠とする国とメロエを本拠とする国に分かれていたが、その発展は関連していたともされる。メロエは徐々に北のナパタを凌駕した。王室の立派な邸宅はメロエ北部で見つけられていない、そしてナパタは宗教的指導者でしかなかったということはありえる。しかしナパタで数世紀の間王達がメロエに住んでいるときでさえも、戴冠式が行われ、王達が埋葬されていたので確かに重要な中心地だった。しかし、ナパタは紀元前650年代から590年にかけて、ヌビア王国の中心であり続けた。その時期のヌビア王国の経済は本質的に金に基づいており、エジプト第26王朝のエジプトは重要な位置を占める経済的同盟国であったとも言われている。

王はナパタとメロエを支配し続けたが、王宮はその後もメロエに置かれ続けた。また。アムンの主要な寺院は引き続きナパタにあり続けたが、メロエにもアムンの寺院が建設された。しかし、その後1世紀ほどは王と多くの女王がナパタ近くのヌリに埋葬されたが、その王墓の建設場所は一部は後にメロエに埋葬されるようになった。ナパタは宗教の中心地、メロエは政治と経済の中心地として機能した。

ゲベル・バルカルのアメン神殿の復元図。
ナパタのゲベル・バルカル遺跡
ナパタ
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n
p t
N25

紀元前343年、ペルシャ帝国の侵攻によって王都タニスを追われたエジプトのファラオナクトホルエブ(ネクタネボ2世)は、ヌビア王ナスタセンによる庇護をあてにしてヌビア王国の下へと逃げ込んだ。その後、ナクトホルエブの一派はこのエジプトの南のヌビア砂漠において独立勢力として2年以上もその地位を保ったという。また、エドフでみつかった記録には18年という数字がみられる[18] 。ナクトホルエブがヌビア王国の王の下に亡命を余儀なくされ、逃れてからは外国人のファラオによる支配が続き、その事実は独立したエジプトの終わりを象徴する事件だった[19]。ナクトホルエブを匿った王ナスタセンはゲベル・バルカル・のアムン神殿に巨大な石碑を建立したことや、ナパタのピラミッド群に最後に埋葬されたファラオであることで知られている。彼のピラミッドは下半分が水没しており、発掘調査が進められている。しかし、彼のピラミッドには華麗な装飾壁画が残されている[20]

ナスタセン

ナスタセンはその治世の間、上エジプトからのペルシャ帝国のヌビア王国への侵略を打ち負かし、軍船をはじめとする数々の戦利品を奪取したとされる。前述した花崗岩製のナスタセンの記念碑は、ペルシャ帝国のヌビア王国の制服の失敗と、ナスタセンの撃退、戦利品を取ったとの主張が描かれている。

その時期、ヌビア王国の建築、絵画、文字、その他の芸術文化様式はクシュ様式に発展した。しかし、其の中にあっても古代エジプトの埋葬習慣は、王墓である「ヌビアのピラミッド」の建設を行うなど、その影響はまだあった。「ヌビアのピラミッド」遺跡には、数百年の間に、ヌビア王の王墓として220基ほどのピラミッドが建てられた。その建設された遺跡は主に3つの遺跡に分かれていた。1つはエル=クル遺跡であり、古代エジプトの支配に成功したカシュタ王とその息子ピイ王、さらにその子のシャバカ、シャバタカ、タンウェタマニの陵墓が残されている。また、いくつかの古代エジプトの神々が崇拝された。最も重要な神は、テーベの守護神であったアムンアメン・ラー)で、都だったナパタのゲベル・バルカル遺跡には、古代エジプト建築で建造されたアムン神殿がある。その遺跡は現在でも遺構を見ることができる。その神殿は、古代エジプトカルナック神殿ルクソール神殿のように王朝の中で重要な位置を占める最も重要な神殿であった。

ヌビア王国におけるアムン神の信仰の主要な中心地であったナパタ遺跡は元々、エジプト新王国(紀元前16世紀 - 紀元前11世紀ごろ)の最南端の恒久的な集落だった。その後、エジプト第25王朝時代には首都に定められ、紀元前663年に最後のファラオがエジプトを追われた後、ヌビア王国の王都とされた。しかし、紀元前593年、北方から侵攻してきたエジプト人によって襲撃され、ヌビア王国の王宮はさらに南方のメロエに移転した。その後再建されたナパタであったが、都市は紀元前23年にローマ人によって2度目の失脚を迎えた。その後、再建され、ヌビアにおけるアムン教団の重要な中心地として存続された[21]。その頃には王国の中心地はもっぱら南方のメロエに移されており[21]、そこでは古代エジプトを基盤とした文化が花開いた。

その一方、エジプトのアケメネス朝ペルシャ帝国の征服後、ナパタは経済的影響力を失った。また、ナパタ周辺の地域自体は乾燥しており、牧畜や農業の減少に拍車をかけた。ペルシャ帝国の襲撃は紀元前591年にナパタに深刻な影響を与え、メロエに経済の中心地という役割を失っていたナパタは壊滅した。しかし、ナイル川とアトバラ川によって形成されたメロエ島は、鉄が豊富な地域であり、繁栄した。メロエはやがて名実ともにヌビア王国の首都となり、ナパタの放棄につながった。

紀元前300年ごろ、王がナパタの代わりにメロエに埋葬され始めてから、メロエへの遷都はより完璧になった。ある学説はこのことは王がナパタに本拠地を置いた神官たちの権力から離れたことを表しているとする。紀元前1世紀頃の歴史家であるシケリアのディオドロスは、神官達によって自分自身を殺すよう命ぜられたが、伝統を破って神官達を代わりに死刑にさせたエルガメネス(Ergamenes)という名前のメロエの支配者について物語を語っている。ある歴史家達はエルガメネスはアラカマーニ(Arrakkamani)というメロエに埋葬された最初の支配者の事を言っているのだと考えている。しかしながらもっとありそうなことに、エルガメネスの音訳はアラカマニ(Arqamani)だ。彼は、長年統治した後王室の埋葬地をメロエに開いた人物である。他の学説に首都は常にメロエだったというものもある[21]

鉱物資源農産物に恵まれ、アビシニア(エチオピア)からインド洋へ通じる交易路の結節点として栄えた。アッシリアから導入した製鉄技術が高度に発達し、アフリカ大陸全土に広まった。ナイル川とアトバラ川の合流点に近いメロエは鉄鉱石や樹木が豊富で、クシュ人自らも製鉄を行いアフリカ黒人の歴史上最初の鉄器製造の中心地となった。旧首都ナパタが滅ぼされた後王の唯一の居住地となったメロエは、現在もなお「メロエ遺跡」として残存している。遺構としては、当時の堤防、宮殿、アムン神殿跡などが見られる[21]

ナタカマニ

ローマの侵略の後、ヌビア王はナパタのアムン神殿を再建した。また、宮殿を建設したナタカマニ王によって数々の寺院が復元された[22][23]。ナタカマニ王はヌビア王国の最盛期を象徴する偉大な王とされ[23]、いくつかの寺院の建物から、そしてメロエのピラミッドから彼の業績は知られる[23]。彼はまた、アムン神殿を復元したことによっても広く世に知られている。しかし、後に彼の寺院は放棄され、その建物は略奪され、破壊された。これは宗教的な変化の結果である可能性がある。

上流のメロエに遷都して以降は、鉄器文明の時代に入った[9]。この鉄器の製造技術は古代エジプト由来の物であった。

メロエ

メロエには小型のピラミッドが数多く建造され、ヒエログリフをもとにしたとみられるメロエ文字が発明されるなど、クシュ王国同様エジプトの影響を色濃く受けていた。エルガメネスドイツ語版(在前248~220)王の頃から最盛期を迎えた。シチリアの歴史家ディオドルスの記述に依ると、紀元前4世紀のヌビア王であったとされる。エルガメネスはプトレマイオス朝から流入したギリシャ文化を賞賛したとされる。また、「エルガメネス」という王に該当するとされる候補は3人おり、アルカマニ、アルネカマニ、アルクアマニである。その内、アルネカマニは、古代エジプト由来の寺院や、土着の民族によって信仰される神々を祀るムッサワート・エス・スフラに寺院を建てたという。寺院の建設に当たってはエジプト人の建築家も三あKしたと言われているが、大体はメロイスティックである。

紀元2世紀後、王室の墓は規模と豪華さに関して縮小し始めていて、そして大きな遺跡の建築は取りやめられた様である。王室のピラミッドの埋葬もまた紀元4世紀半ばには終わった。

メロエ
ヒエログリフで表示
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滅亡する直前には、ヌビア王国の王家の葬儀も比較的小規模なものに変化し、ピラミッドも次第に規模を縮小された。また、末期のヌビア王国の王にはフィラエのイシス神殿に訪問したイェセボケヤマニ(またはアマニイェセボケ、3世紀後半 - 4世紀初頭のクシュの王)[24][25]、フィラエのイシス寺院のデモティックの碑文に名を残したテクェリデマニ2世(Yesbokheamani)、最後の女王ラキデアマニ(Lakhideamani)などがあげられる。その碑文は、ローマ皇帝トレボニアヌスの治世(206年 - 253年8月)中に日付が付けられ、これまでのところヌビアの歴史の中で唯一明確な日付であると考えられている。旧首都ナパタが滅ぼされた後王の唯一の居住地となったメロエの様子は今もメロエ遺跡として残存しており、堤防宮殿アメン神殿跡などが見られる[26]

滅亡[編集]

征服[編集]

ノバティア王の王冠。英国のエジプト学者W.B.エメリーによって発見された。「ホルスの目」があしらわれている。

350年ごろ、アビシニア高原(エチオピア高原)に興ったアクスム王国の侵攻を受けて滅亡した。アクスム王国は一般に現在のイエメンに当たる地域から越えてきたセム語系のサバ人が中心になって建国されたと考えられている。インド東ローマ帝国と主に交易し、象牙エメラルドなどを輸出し、絹・香辛料・手工業製品を輸入すると言う貿易によって栄えた地中海世界の影響を強く受た王国であった[27]。2世紀にはアクスム王国は紅海を越えてアラビア半島まで進出していた。

このことは西暦350年ごろエチオピアのアクスムからのエザナ王の侵攻によって王国が破壊されたという伝統的な学説とほとんど一致する。しかしながらエチオピアの文書では彼らがすでに支配していた土地のコミュニティと反乱を鎮圧したことを描写しているが、ヌバ(Nuba)の事を述べているのみで、メロエの支配者については何も言及していない[28]

考古学上の記録は未知の集団あるいはバラナ(Ballana)として知られている新しい社会への文化的変化を示している。

その後[編集]

バラナ文化において、西暦450年ごろノバティア王国が成立した。この王国はキリスト教国であるとも言われ、この新しい王国はヌビア王国から多くのものを受け継いでいたが、また非常に異なってもいた。彼らが建造した寺院の様式はどちらかというとビザンティン様式であったし、また、浮彫には古代エジプト風の壁画もあったし、ローマ風のものもあった。彼らは古ヌビア語を話し、コプト語の基になった文字を使っていた。つまりメロエ語とメロエ文字は完全に失われたようである。「バラナ文化」の名称の由来ともなったバラナ遺跡からは、ノバティアの王とその王妃などが埋葬され、壮麗なビザンティン様式の王冠をはじめとする副葬品が残されていた。しかし、その王墓には文字が一切残されていなかったため、その王墓の主が誰なのかは、未だ判明していない。

こうして、かつて「ヌビア王国」と呼ばれた、エジプト・クシュの文化を受け継ぎ、メロエ王国、スーダンを支配した国家は消滅した。しかし、滅亡こそしたものの、その民族と文化の系譜は「アスクム王国」、そして、「エチオピア」へと連なっていったのである。なお、ノバティア王国は後にコプト教会と呼ばれる集団の文化的祖先にあたるとも言われている[29]

現在では本来の文化や風貌など、古代以降にギリシャ人・ローマ人の移民が流入し続けたエジプトとは異なる独自性を残している。

メロエ島の考古遺跡群は、2011年世界遺産文化遺産)に登録された。

文化[編集]

ヌビアのピラミッド。

ヌビア王国の文化は、ほとんどエジプト化されていたと考えられている。その証拠として、のちに本拠地となるメロエのちには、エジプト的なピラミッドがいくつも建造されたし、アッシリアから技術が輸入された、鉄器の文化もあったほどだ。 メロエには小型のピラミッドが数多く建造され、古代エジプトの神聖文字ヒエログリフをもとにしたとみられるメロエ文字が発明された。この文字は、形こそヒエログリフに似ているものの発音自体は古ヌビア語に沿っていると考えられており、いまだ解読はなされていない。

エジプト第25王朝としての支配を失った後のヌビア王国では、エジプト支配の間に吸収したエジプト文化を自らの土着のヌビア様式と折衷しながら継承した「メロエ文化」が花開く。ヌビア王の王墓であるメロエのピラミッドは、手放したエジプトへの憧れの象徴であるとみなされている[30]。後身であるクシュ王国も、同様に古代エジプトの影響を色濃く受けていた。

ヌビアの王の冠は、数多くの壁画や彫刻像にも描かれているように、ダイアデム状のものであった。

また、ハンニバルなどに代表される軍象の文化は、メロエが出発点であったという説もある[31]

エジプトの建築物[編集]

ヌビア王国の王の中で、最も多くの建築物を古代エジプトの地に残した王は、エジプト第25王朝第4代目のファラオ・タハルカだった。タハルカはエジプト全土に、自分の姿や名を刻んだ彫像や石碑を造らせ、それらの多くは現在、博物館におさめられている。

タハルカは神への信仰心が深いとともに、自らの権力を示すことにも興味を示した。タハルカは、建築物のために資金をつぎ込み、新王国時代以来、最も野心的な建築計画を押し進めた。エジプト第25王朝時代の主要な都市であるアメンの都テーベとヌビア王国の本拠地たるナパタに向けられ、テーベのカルナック神殿には多くの建築物を残したのだった。

第25王朝のタハルカの祠堂とも称される建物跡は、聖池の北西に位置し、地下には太陽神が毎夜、地下を旅して、毎朝再びスカラベとして復活する描画がある[32]。また、「タハルカのキオスク」と呼ばれると呼ばれるものを建設し、それは後に破壊された。しかし、その中で「タハルカの円柱」と呼ばれるものは復元されている。即ち、カルナックのアメン大神殿の第1中庭にある1本の巨大な円柱は王の造らせた列柱廊の名残りで、ヌビアのエジプト支配の象徴である。

ナパタ[編集]

ナパタにあるゲベル・バルカル、エル・クル、ヌリ、サナムの遺跡には、王家の墓地とエジプトの神々に捧げた神殿が築かれた。特にゲベル・バルカル遺跡の岩山のふもとには、はじめてこの地を征服したファラオであったラムセス2世が築いたアムン神殿があった。ラムセス2世の治世中、この地域はエジプト王国の南限にあたり、それより以南には古代エジプトの恒久的な集落はなかった。この神殿は小規模ながらもヌビア王国の宗教の中心地として発展した。また、この神殿はヌビア人たちの精神的なよりどころでもあった。

ダイアデム冠を着用したアマニテヌメミデ(Amanitenmemide)王

また、ナパタ近郊の「メロウェ(「メロエ」とは全く異なる)」にあるヌビア王の王墓である「ヌビアのピラミッド」が建設された。この王墓群は、小さなピラミッドで覆われている。これらピラミッドはエジプトのピラミッドを見デルにしたと言われている。また、それらと同じ形状のものは後にナイル西岸にあったメロエにも建設されるようになった。このメロエのピラミッドはヌリ遺跡はナパタ後期のピラミッドである。この広大な墓所はヌビア王国のメロエ王朝の21人の王とその妃、王子たちのために建てられた。また、ヌビア王国には古代エジプト由来のミイラを作る習慣もあった。

クッル遺跡には、エジプト第25王朝最後の王とされるタヌトアメン王とその王妃・カルハタの墓が残されている。ヌビア王国の王たちの墳墓(ヌビアのピラミッド)はメロエ、ヌリ、ゲベル・バルカル、そしてこのクッルの4箇所に存在するが、前室の壁画が保存され見学できるのはこのクッルのみである[33]。タヌトアメン王とカルハタ王妃の2箇所の墓では、それぞれ約4メートル地下に階段を下ると前室と玄室がある。この構造は「ヌビアのピラミッド」がエジプトのピラミッドを真似たように、テーベの「王家の谷」にある墳墓を真似たと予測される。この構造は古代エジプト新王国時代のファラオの墓と似通っている。王や王妃は、アヌビスオシリス、聖なる船などエジプトの壁画で見られるのと同じ神々であったり同じテーマで描かれ、その再生・復活が望まれたと考えられている。 ヴォールト造りの天井には天空を意味する星が描かれ、正面には太陽神ラーを乗せた聖なる船、見送るトート神が描かれている[33]

メロエ[編集]

メロエでは古代エジプトで信仰されていたテーベの守護神アムン、豊穣の女神イシスなどを初めとする神々のが祀られ、信仰されていた。また、その他に元々ヌビア地域一帯で信仰されていたライオンの姿をした神であるアぺデマク神などの神々を融合した宗教観念があった。宗教的にもかなりエジプトの影響を受けており、前述したようにアメン信仰が盛んであった。それに、エジプトの王朝のようにアメンの神官たちが勢力を拡大し、政策にも影響を及ぼすこともあった。しかし、エジプトの宗教が信仰されていたとともに、その他の宗教も広く信仰されていたと考えられている。エジプトにおける冥界の神オシリス神と土着の神も習合した。

また、エジプトローマギリシアなどの影響を受けつつも黒人の造形感覚を生かした独自の美術工芸品を残した[9]。「メロエ文学」と呼ばれる文学の様式も成立し、ヌビアで独自の発展を遂げた。鉄器文化を有するヌビア王国は、メロエにおいて、大量の製鉄が行われていた。アフリカへの製鉄の伝播ルートとしては、メロエからアフリカ全土へと製鉄法が伝えられたという説等がある[34]

前述したようにエジプト文字を改変し、独自に発達させたメロエ文字、メロエ文字で表記されたギリシア語の影響を受けたメロエ語を使用するなど、エジプトの影響を受けつつもヌビア王国独自の文化を築き上げていったとされている。

また、ヌビア王国がメロエへ遷都王宮を移した理由として、は、以下の理由があげられる。

  1. 農耕や牧畜を行える広い土地があった。
  2. ヒッタイトから伝播した製鉄を行うのに必要ななどの燃料を確保できるのに充分な森林が近郊にあったあった。
  3. 紅海エチオピア高原、はるか西方のチャド湖をつなぐ交易の要衝であった。
  4. エジプトから政治的文化的に独立し、影響力を断ち切るのに都合がよい。
  5. メロエ王家の本拠だった。

等の理由が重なった結果である、と考えられている。王都と成ったメロエは、1km×750mとい古代にしては広範囲な範囲に広がっていた。その内部に考古学者たちが「ローマ浴場」とも呼ぶような、凝ったレリーフが施されていた井戸から水を引くレンガが床に敷き詰めたプールの存在も確認されている。そのように余裕があったメロエでは、アフリカ各地や紅海周辺から商人が訪れる大都市と成った。また、メロエでは内部を石壁で方形に区切り、その区画ひとつひとつに外面を焼き締めた煉瓦で覆った日干し煉瓦の壁を複雑に入り組ませていた。メロエの遺跡からは、エジプトだけでなくギリシアローマの影響が見受けられる。また、製鉄技術をアフリカ南部へ伝播する役目を担っていたとも言われている。周壁に囲まれた王宮の址、アムン神やイシス女神にささげられたとみられる神殿、庶民たちの住居址などが発見されているのだが、メロエ遺跡の市街地の調査は一部がなされただけである[35][36]。墓地は市街地の東の丘陵上に営まれた[35]。一般人は円墳に埋葬され,王族はピラミッドやマスタバ墳に葬られた。

王宮

メロエの西南西100kmほど上流にワド・ベン・ナカで相当規模の街と王宮、神殿があったことが確認されている。ワド・ベン・ナカの王宮は、50m×50mの正方形をしている少なくとも二階建ての建物で、真南に入口があり、砂岩でできた列柱の間がエントランスとして設けられている。壁は日干しレンガを焼き締めレンガで覆い表面を白い漆喰(しっくい)で塗っていた。上の階はほとんど失われていたため、その性格について正確なところはわからないが、下の階は、貯蔵施設で壺が置かれた部屋や、象牙や木材が置かれた部屋などがあった。

また、ワド・ベン・ナカの南東、メロエから南西100kmほどの地点にある「ナカ遺跡(Naqa)」において広く知られている建築物の多くは、古代エジプト様式の建造物に浮彫や絵画で種々の神や、ヌビア王国とその敵との戦いなどが表されているものである。ナカ遺跡にはキオスク(神殿に付随するローマ風の建物)、アペデマク神殿、アムン神殿の3つの主要な建物が残されている。その中で「ローマのキオスク(あずまや)」と名付けられている付属の小神殿があり、この神殿は、アフリカ大陸で最も南にあるローマ様式の建築として注目される建築物であり、ヌビア王国におけるローマの文化の浸透を物語っている。ローマのキオスクは、強いヘレニズムの要素を持つ神殿だが、キオスクへの入り口は古代エジプト建築で仕上げられている。また、正面は神聖なウラエウスの列を持つリンテルで覆われているが、側面はローマ様式のコリント様式の柱頭を持つアーチ型の窓をで構成されている。

壁面にはヌビアの王族のレリーフ(ナクタアマニ王、アマニシャヒド女王等)がレリーフとして彫られており、壁画において最も大きいのは女王のレリーフで、それはヌビア王国ではは女王が大きな権力を持っていたためである。

また、ナカ遺跡では、二ヶ所の広大な墓地と七つの石造りの神殿を伴う大規模な街があったことが確認されている。ほかの神殿など度と比べると割と小規模な建築であるが、現在も調査・修復はドイツベルリン大学のチームが行っており、現在でも判然としたレリーフなどの形が残っている。神殿のうちナカマタニとアマニテレのライオン神殿の外面レリーフには、エジプト風に横を向いて剣を振りかざし、捕虜の髪をつかむアマニテレ女王の姿が刻まれていて、メロエ王朝の権力の大きさと繁栄ぶりを描いている。この遺跡は、アワタイブという名のワディとナイル川の合流点に位置する[37]。ここには王宮とアムンのための神殿、それと土着のアペデマク神のための神殿が建立された[37]。アムン神殿はエジプト様式で設計されており、ゲベル・バルカルとエジプトのカルナック神殿に似たつくりをしている。

アムン寺院はナタカマニ王によって造られ、支配者のいくつかの彫像がある。このアムン神殿はメロエで最大規模の神殿で、ここからはアスワンのフィラエ島・イシス神殿から23年にメロエ軍が破壊したアウグストゥスの像の頭部がここから出土しており、それは現在、大英博物館におさめられている。アムン神殿の西に位置するのは、アペデマク神殿で、この「アペデマク」という神はヌビアのメロエにおいて崇拝されたインド由来のライオン頭の戦士の神で[38]、これもナタカマニ王によって造られた。

この地は、紅海とアフリカ内陸部をつなぐために元も重要な場所の一つであり、したがって、戦略的な重要性を持っていたと考えられる。

ムサワラット・エス・スフラ遺跡(Musawwarat es-Sufra)は、メロエの南西約100kmに位置する、宮殿を中心に神殿、官吏や神官の住居、厩、交易所闘技場などの遺跡である。この遺跡はメロエとならぶヌビア王国最大の遺跡で、1960年代に「ライオン神殿」が発掘され、灌漑設備などの設備が整っていることが、新たに見いだされた[39]

言語[編集]

メロエ文字

メロエ語(英語:Meroitic)は、紀元前2世紀頃 - 4世紀頃にメロエを首都とするヌビア王国で用いられていた言語である。主にメロエ語は、古代エジプトの象形文字をもとにしてつくられたメロエ文字によって表記された。メロエ文字は、石碑などに刻まれる聖刻体と、普通の筆記用の草書体との2書体が知られる。母音字と子音字があり、アルファベットの性格をもっていたことがわかる。しかし解読は進んでおらず、構造、系統などはわからない点が多い[40]

メロエ語の言語学的起源は紀元前2千年紀中葉までさかのぼるという。所謂ゴレニシェフ・パピルス(P. Golenischeff)にはすでに原メロエ語(Proto-Meroitic)とも呼ぶべき音素が認められる。その当時、メロエ文字は存在せず、表記するための文字はなかったとされている。しかし、当時勢力を誇ったヌビア王国の前身ケルマ王の民はたしかにこの言語を話していたのである。近年ではサイードが、こうした音素を手がかりとしてエジプトと周辺諸国の文化交流を考察している[41][42][43]

メロエ語の言語学的位置は、アフロ・アジア語族説、その他をめぐって明確ではない[44]。その理由としては、解読が進んでいないことや、そもそもメロエ遺跡における考古学が発展していないからであり、未だに言語の性格は未詳である。東部スーダン諸語に系統的に近いとみる学者もある[44]。メロエ語は現在のところ充分に解明されていないため、今までのところ、メロエ語を特定の語族と結びつけることはできず、推測することもかなり困難な言語となっている。

また、メロエ語は後にヌビアにおいて書記言語となった古ヌビア語と似ている点も見られず、ヌビア王国の衰退と滅亡の過程で完全に廃絶したものと考えられる。メロエ語には古代エジプト語からの借用語がいくつかあるが、今までのところ短く、定型的な奉納文を翻訳する以上のことは不可能である。なお、古ヌビア語は、後にヌビア語となって現在も話者が残る。

遅くとも紀元300年頃には、環境破壊による大異変、あるいはアクスム王国に対する軍事的敗北のいずれかによって、メロエ語は死語となった。

ハマダブ碑文」は、スーダンのメロエの古代遺跡のすぐ南にあるハマダブで見つかった巨大な砂岩の碑文である。メロエ語がメロエ文字で刻まれている。ハマダブ碑文重要性は、メロエ文字の中でも解読されているテキストの1つが刻まれているからで、その碑文は、現在、大英博物館に保管されている[45][46]。 最後の支配者は紀元前4世紀のイェセボックヤマニ王かラキデアマニ女王である。

ギリシャ語碑文の存在[編集]

このヌビア王国を滅亡させたアクスム王国の国王であるエザナのものであると考えられる無名の支配者Ge'ezの石碑は、メロエの遺跡で発見された。碑文に刻まれている内容はギリシャ語で、彼は「アクスマイトとオメリテスの王」(アクスムとヒムヤールの王)とかかれ、この王はいつか330の周りを支配している可能性が高い。一部の学者は、これらの碑文を、アクスム王国の軍勢がメロエを破壊した証拠と解釈する一方で、考古学的証拠は約300年ごろのメロエの経済的、政治的衰退を指していると指摘する。さらに、一部の人々は、「ヌバ」の反乱と反乱を鎮圧するためにヌビア王国がアクスム王国に軍事的な援助を求めた結果であると考えている。しかし、決定的な証拠と、どの見解が正しいかの証拠は現在存在しない。

調査[編集]

ヌビア王国の考古学的な視点からの調査は、思ったよりも進展していない。スーダンの考古学は重要視されていないためで、世界的にみても遅れていると言える。20 世紀初頭から中葉にかけて集中的に行われた踏査である。現在も多くのヌバイオロジー考古学者たちによる研究が続けられているが、それでもやはり他国に比べると進展が遅い。その理由もいくつかあり、盗掘者による遺跡の破壊もその原因の一つである[47]。残念ながら、ヌビア遺跡の多くがすでに失われている。

その他[編集]

呼称[編集]

アラビア語ではヌーバと呼ばれる。ヌビア語はレプシウスにより「黒人との混血」、ライニシュにより「原ハム語」、ヴェステルマンにより「スーダン系」とされてきたが、グリーンバーグ以降ナイル・サハラ語族の東スーダン語派とされている[48]。この言語はナイル・サハラ語族の下位区分であり[9]、スーダン全域、ナイル川上流の流域(ウガンダ、ケニア、タンザニア)に至る地域に分布している。スーダンのナイル川流域におけるヌビア語も現在、東スーダン諸語に分類されている。また、ヌビアの多くの方言などが含まれる[9]

物語[編集]

オペラ「アイーダ」の中に登場する国「エチオピア」のモデルはこのヌビア王国である。アイーダの中でも古代エジプトと敵対する国として描かれており、考古学者オギュスト・マリエット原案を元にジュゼッペ・ヴェルディが作曲したものである。主人公アイーダの父でエチオピア王のアモナスロは、実在した紀元前3世紀のヌビア王であったアマニスロ(Amanislo、在位:前260年頃 – 前250年頃)がモデルとなっている。

一般的なアンドロメダ像とは異なる、黒人としてのアンドロメダ

また、ギリシア神話に登場する「アンドロメダとペルセウス」の物語に登場するアンドロメダは「アエチオピア」(エティオピア、現在のエチオピアとは異なる)王国の王女アンドロメダはヌビア王国の王女ではないか、という説がある。古代ギリシアにおいては、クシュが「エチオピア」と呼ばれており、その国名はギリシア語でエチオピア人を意味する「アイティオプス(Αἰθίοψ)」に由来している。ペルセウスが海の怪物セトゥスと戦い、戦いに勝つと、彼はアンドロメダと結婚した。アンドロメダの父の王は「ケーペウス」と言い、エジプトベーロスナイル川の娘アンキノエーの子であり、アイギュプトスの兄弟[49]である。

画像[編集]

歴代王[編集]

ケルマ王家[編集]

在位(年) 王名(英字表記)
? メンカフレ(Menkare)
前1900年頃 カア(Kaa)
前1880年頃 テリアヒ(Teriahi)
前1870年頃 アワワ(Awawa)
前1850年頃 ウタトレルテス(Utatrerses)
前1005年頃 - 前950年頃 カンダケ・マケダ(Kandake Makeda)
アセルカマニ(Aserkamani)
セブ(Seb)
カリマラ(Karimala 女王)

ナパタ王家[編集]

タヌトアメン王。エジプト第25王朝(ヌビア朝)の五代目のファラオ。クシュ王国の国王でもある。、タヌタムンまたはタンウェタマーニ(エジプト)またはテメンテス(ギリシャ語)という別の呼称もある。彼が支配を行った地域は、スーダン北部にある古代エジプト王国およびクシュ王国であった。
王朝及び時代 在位(年) 王名(英字表記) 画像
初期 前795年 - 752年頃 アララ(Alara フレーム無し
前765 - 752年頃 カシュタ(Kashta フレーム無し
エジプト第25王朝 前752 - 前721年 ピイPiye フレーム無し
前721年 - 前706年 シャバカ(Shabaka フレーム無し
前706 - 前690年 シャバタカ(Shebitku フレーム無し
前690年 - 前664年 タハルカ(Taharqa フレーム無し
前664年頃 - 前656年 タヌトアメンTanutamun フレーム無し
後期 前656年 - 640年頃 アトラネルサ(Atlanersa フレーム無し
前640年頃 - 620年頃 セヌカマヌイスケン(Senkamanisken フレーム無し
前620年頃 - 前600年頃 アヌラマニ(Anlamani フレーム無し
前600年頃 - 前580年頃 アスペルタ(Aspelta フレーム無し
前568年頃 - 前555年頃 アラマトレ=クォ(Aramatle-qo フレーム無し
前555年頃 - 542年頃 マロナクエン(Malonaqen フレーム無し

メロエ王家[編集]

シャスピカ王の碑文。上部のオシリス神の絵から、かなり文化がエジプト化されていた事が伺える。
紀元前4世紀後半のメロエ王国の女王、アラカマニ。
王朝及び時代 在位(年) 王名(英字表記)
第一期 前542年頃 – 前538年頃 アナルマイエ(enAnalmaye
前538年頃 – 前519年頃 アマニナタキレブテ(Amaninatakilebte)
前519年頃 – 前510年頃 カルカマニ(Karkamani)
前510年頃 – 前487年頃 アマニアスタバルカ(Amaniastabarqa)
前487年頃 – 前468年頃 シャスピカ(Siaspiqa)
前468年頃 – 前463年頃 ナサクマ(Nasakhma)
前463年頃 – 前435年頃 マルウィエバマニ(Malewiebamani)
前435年頃 – 前431年頃 タラカマニ(Talakhamani)
前431年頃 – 前405年頃 アマニェテイェリケ(Amanineteyerike)
前405年頃 – 前404年頃 バスカケレン(Baskakeren)
前404年頃 – 前369年頃 ハルショテフ(Harsiotef)
前369年頃 – 前350年頃 名前不明
前350年頃 – 前335年頃 アクラテン(Akhraten)
4世紀後半 アマニバキ(Amanibakhi)
前335年頃 – 前315年頃 ナスタセン(Nastasen)
第二期 前3世紀初期 アクティサネス(Aktisanes)
前3世紀前半 アリャマニ(Aryamani)
カシュ...
ピアンキ=イェリケ=カ(Piankhi-yerike-qa)
サブラカマニ(Sabrakamani)
第三期 前270年頃 – 前260年頃 アラカマニ(Arakamani)
前260年頃 – 前250年頃 アマニスロ(Amanislo)
前3世紀中期 アマヌテカ(Amantekha)
シェセプ=アンケン=アメン・セテプエンラー(Sheshep-ankh-en-Amun Setepenre)
前3世紀中期 - 前3世紀後期 アルネカマリ(Arnekhamani)
前3世紀末 - 前2世紀初頭 アルクァマニ(Arqamani)
前2世紀 アディカラマニ(Adikhalamani)
...mr...t
不明
前2世紀後期 シャナクダケテ女王(Shanakdakhete)
前2世紀後期 - 前1世紀初頭 タヌイダマニ(Tanyidamani)
前1世紀前期 ナクィリヌサン(Naqyrinsan)
不明
前1世紀中期 不明
前29年頃 – 前25年頃 アクラカマニ(Aqrakamani)
テリテクァス(Teriteqas)
前1世紀後期 アマニレナス女王(Amanirenas)
アマニシャケト女王(Amanishakheto)
後1世紀前期 ナウィデマク女王(Nawidemak)
1世紀中期 アマニカブル(Amanikhabale)
1世紀中期 - 1世紀後期 ナタカマニ(Natakamani)
アマニトレ(Amanitore)
第4期 1世紀 ショルカルロル(Shorkaror
ピサカル(Pisakar)
アマニタラクィデ(Amanitaraqide)
アマニテヌメミデ(Amanitenmemide)
アマニカタシャン(Amanikhatashan)
テリトニデ(Teritnide)
1世紀 - 2世紀初頭 テクィリデアマニ1世(Teqerideamani I)
2世紀 タメレルデアマニ(Tamelerdeamani)
アデクァタリ(Adeqatali)
タキデアマリ(Takideamani)
タレケニワル(Tarekeniwal)
アマニカリカ(Amanikhalika)
アリテニェスボケ(Aritenyesbokhe)
アマニカラクェレン(Amanikhareqerem)
3世紀前期 テリテダカテイ(Teritedakhatey)
アリェスボケ(Aryesbokhe)
3世紀 テクェリデマニ2世(Teqerideamani II)
マレクォロバル女王?(Maleqorobar)
イェスボケアマニ?(Yesbokheamani)
4世紀 ラキデアマニ女王?(Lakhideamani)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『世界史年表・地図』亀井高孝ほか、p10
  2. ^ https://kotobank.jp/word/タハルカ-94070
  3. ^ a b https://kotobank.jp/word/ヌビア-111012
  4. ^ László Török, The Kingdom of Kush: Handbook of the Napatan-Meroitic Civilization (Leiden: Brill, 1997), p. 2.
  5. ^ https://kotobank.jp/word/クシュ
  6. ^ https://kotobank.jp/word/クシュ王国-830669
  7. ^ https://kotobank.jp/word/ヌビア%28アフリカの地名%29-1574951
  8. ^ Nancy C. Dorian, Investigating Obsolescence: Studies in Language Contraction and Death, p.91, Cambridge University Press, 1992.
  9. ^ a b c d e https://kotobank.jp/word/東スーダン諸語-1198080
  10. ^ https://kotobank.jp/word/アクスム王国-814686
  11. ^ https://kotobank.jp/word/ゲベルバルカル-490996
  12. ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメンアメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。
  13. ^ Kitchen 1996, p.198
  14. ^ ドドソン,ヒルトン 2012,p.224
  15. ^ https://kotobank.jp/word/サイス朝-67980
  16. ^ Clayton, Peter A. (1994). Chronicle of the Pharaohs: The Reign-by-Reign Record of the Rulers and Dynasties of Ancient Egypt. London: Thames and Hudson. p. 190. ISBN 0-500-05074-0 
  17. ^ Dunham, Dows; Macadam, M. F. Laming (1949). “Names and Relationships of the Royal Family of Napata”. Journal of Egyptian Archaeology 35: 139–149. doi:10.1177/030751334903500124. 
  18. ^ Grimal, op. cit., p.380-381
  19. ^ クレイトン 1999, p. 261.
  20. ^ Fage, page 225
  21. ^ a b c d Richard A. Lobban, "Napata", Historical Dictionary of Ancient and Medieval Nubia (Scarecrow, 2004), pp. 274–276.
  22. ^ Garlake Peter. (2002) Early Art and Architecture of Africa "Oxford University Press". p. 60. 0-19-284261-7.
  23. ^ a b c Oliver, Roland and Brian M. Fagan Africa in the Iron Age "Cambridge University Press". p. 40. 0-521-09900-5.
  24. ^ Török 1997, p. 206.
  25. ^ Adams 1977, p. 252, gives an approximate reign of 283–300.
  26. ^ フィリップソン/河合訳,p.167,p.209,コナー/近藤・河合訳前掲書,p.61, 鈴木八司『ナイルに沈む歴史 ヌビア人と古代遺跡』岩波書店,1970年
  27. ^ https://diamond.jp/articles/-/216668
  28. ^ A. Hakem with I. Hrbek and J. Vercoutter. "The civilization of Napata and Meroe" UNESCO General History of Africa
  29. ^ Jean Leclant. "The empire of Kush: Napata and Meroe" UNESCO General History of Africa
  30. ^ http://www.moonover.jp/bekkan/chorono/farao_25th_05.htm
  31. ^ クリス・ブレイジャ『世界史の瞬間』2004 青土社 p.46
  32. ^ ウィルキンソン 『古代エジプト神殿大百科』 (2002)、160頁
  33. ^ a b https://www.saiyu.co.jp/special/africa/sudan/midokoro/kingdom_of_kush/
  34. ^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p126
  35. ^ a b https://kotobank.jp/word/メロエ-680321#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88
  36. ^ 百科事典マイペディア 【事典・辞書サイトkotobank】
  37. ^ a b Naga Project (Central Sudan)”. Poznań Archaeological Museum. 2018年1月17日閲覧。
  38. ^ [1]によると、メロエ以外のエジプトやナパタでは崇拝の痕跡はないとされる。
  39. ^ https://kotobank.jp/word/ムサワラット・エス・スフラ-1210303
  40. ^ https://kotobank.jp/word/メロエ文字-141873
  41. ^ el-Sayed 2011
  42. ^ http://www.egyptpro.sci.waseda.ac.jp/pdf%20files/JES23/2_sakamoto.pdf
  43. ^ 「メロイティカ」第25巻
  44. ^ a b https://kotobank.jp/word/メロエ語-141872
  45. ^ stela” (英語). British Museum. 2018年2月28日閲覧。
  46. ^ British Museum Highlights
  47. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/3303309
  48. ^ Nancy C. Dorian, Investigating Obsolescence: Studies in Language Contraction and Death, p.91, Cambridge University Press, 1992.
  49. ^ アポロドーロス、2巻1・4。

関連項目[編集]