バアトル (ジャライル部)

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バアトルモンゴル語: Ba’atul, ? - 1261年)は、13世紀初頭にモンゴル帝国に仕えたジャライル部出身の万人隊長クビライの側近として帝位継承戦争における勝利に大きく貢献し、バアトルの子孫は大元ウルスにおいて大いに繁栄した。

元史』などの漢文史料では覇突魯(bàtūlŭ)、『集史』などのペルシア語史料ではبهادر نويان(bahādur nūyān)と記される[1]。日本語資料では『集史』のペルシア語表記に従ってバハードゥル・ノヤンとも表記される。

概要[編集]

バアトルはかつて左翼万人隊長としてチンギス・カンを補佐した国王ムカリの子のボオルの第3子として生まれた。ムカリ国王家当主の地位はバアトルの兄のタシュスグンチャクの家系が継いでいたが、第5代当主のクルムシ(スグンチャクの息子)が「柔弱」であったため、第4代皇帝モンケの時代にバアトルは実質的にムカリ国王家の代表者となっていた。モンケ・カーンは即位すると自らの次弟クビライを東アジア方面の司令官に抜擢し、バアトルを含む帝国左翼の諸将(「左手の五投下」)はクビライの指揮下に入ることになった。バアトルは建国以来の名家出身であることに加え、クビライにとっては妻チャブイの同母姉テムルンを妻とする義兄に当たり、クビライの最も信頼のおける部下であったと見られる[2]

バアトルはクビライより「先鋒元帥」に任じられて南宋との戦いに従事し、多くの軍功を立てた。ある時、クビライがモンケ・カーンの新たな根拠地について相談したところ、バアトルは「幽燕の地」こそが漢地とモンゴル高原を結ぶ要衝であり天下を経営する上で最も相応しい地であると語ったという[3]。「幽燕の地」とは後の大都が建設された一帯に他ならず、またジャライル部を含む「五投下」の遊牧地と密接する地でもあった。後にクビライが大都を新たな首都と選んだのは、クビライにとって最も信頼できる部下であるバアトルら五投下にとって「幽燕の地」こそが首都として最も相応しかったためであると考えられている[4]

1259年己未)、モンゴル軍はモンケ率いる本隊、五投下を率いるクビライ軍、東道諸王を総べるタガチャル軍の3軍に分かれ南宋に侵攻したが、四川方面で突出したモンケが遠征先で病死するという大事件が起こった。元々クビライは南宋の要衝鄂州を攻囲した上でヴェトナム方面から北上してくる別働隊のウリヤンカダイ軍と合流するようモンケから命じられていたが、モンケの急死によって全軍の連携は崩壊した上、次代のカーン位を巡る駆け引きが始まり、クビライは帝位を狙うためどのような行動に出るか選択を迫られることになった。この時、『集史』によるとクビライは最も信頼おける部下であるバアトルと2人きりで今後の方策を話し合い、バアトルの「軍を率いてあり蟻か蝗の如く我らはこの地にやってきた。噂のために、事を為さずどうして戻れましょうか」という言葉に従ってクビライは南宋領鄂州への再侵攻を決意したという[5]。『集史』ではバアトルの勇ましい言葉のみが記録されるが、このバアトルの進言の真の狙いは鄂州侵攻を行うことで「混乱状態にある南宋遠征軍を守るために敢えて殿軍を買って出、同時に敵中に孤立したウリヤンカダイ軍を見捨てない」という同胞に対して度量の深い姿をアピールし、進退を決めかねている各地の南宋遠征軍の支持を集める点にあったと考えられている。

バアトルらの予想通り、本来クビライにとっては何の徳にもならないはずの鄂州侵攻は南宋遠征軍諸将の支持を集め、モンケ直属軍やタガチャル軍らが次々とクビライ軍への合流を表明した。帝位継承戦争のため十分な味方を得られたと判断したクビライは一旦鄂州攻めをバアトルに任せ、自らは北上して自らの支持勢力と「幽燕の地」にて合流を目指した。一方、バアトルは南宋領を駆け抜けてきたウリヤンカダイ軍と無事合流を果たし、あらかじめクビライと南宋軍の指揮官賈似道との間で交わされた密約に従って鄂州の攻囲を解きクビライとの合流のため北上を始めた。バアトルらが撤退する際、賈似道は約定を破って北上するモンゴル軍に奇襲をかけ、モンゴルの殿軍170名を殺害した。モンゴル軍にとっては僅かな損失であったが、賈似道はこの勝利を大きく喧伝して南宋皇帝理宗の信任を得、数十年にわたる自らの独裁体制を作り上げることとなった[6]。その後、1261年にバアトルは北上してクビライらと合流したが、帝位継承戦争が激しさを増す最中に軍中で亡くなった。バアトルの息子はアントン(安童,Antong)、ディントン(定童,Dingtong)、バドクタイ(覇都虎台,Baduqutai)の3人がおり、特にアントンはクビライ朝の最高位の人臣として大元ウルスで活躍した[7]

ジャライル部バアトル系国王ムカリ家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 志茂2013,558頁
  2. ^ 杉山2004,137-138頁
  3. ^ 『元史』巻119列伝6覇突魯伝,「覇突魯、従世祖征伐、為先鋒元帥、累立戦功。世祖在潜邸、従容語覇突魯曰『今天下稍定、我欲勧主上駐駅回鶻、以休兵息民、何如』。対曰『幽燕之地、龍蟠虎踞、形勢雄偉、南控江淮、北連朔漠。且天子必居中以受四方朝覲。大王果欲経営天下、駐駅之所、非燕不可』。世祖憮然曰『非卿言、我幾失之』」
  4. ^ 杉山2004,137-139頁
  5. ^ 杉山2004,96-97頁
  6. ^ 『宋史』巻474列伝233賈似道伝,「開慶初、憲宗皇帝自将征蜀、世祖皇帝時以皇弟攻鄂州……明年正月、兵至、傑作浮梁新生磯、済師北帰。似道用劉整計、攻断浮梁、殺殿兵百七十、遂上表以粛清聞。帝以其有再造功、以少傅・右丞相召入朝、百官郊労如文彦博故事」
  7. ^ 『元史』巻119列伝6覇突魯伝,「己未秋、命覇突魯率諸軍由蔡伐宋、且移檄諭宋沿辺諸将、遂与世祖兵合而南、五戦皆捷、遂渡大江、傅於鄂。会憲宗崩於蜀、阿里不哥構乱和林、世祖北還、留覇突魯総軍務、以待命。世祖至開平、即位、還定都於燕。嘗曰『朕居此以臨天下、覇突魯之力也』。師還、中統二年卒於軍。大徳八年、追贈推誠宣力翊衛功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・東平王、諡武靖。夫人帖木倫、昭睿順聖皇后同母兄也。子四人長安童、次定童、次覇都虎台;他姫子曰和童、襲国王。安童別有伝」

参考文献[編集]

  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 藤野彪・牧野修二『元朝史論集』汲戸書院、2012年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年