バルバラ・パウルス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バルバラ・パウルス
Barbara Paulus
Tennis pictogram.svg
基本情報
愛称 バブシ (Babsi)
国籍  オーストリア
出身地 同・ウィーン
生年月日 (1970-09-01) 1970年9月1日(48歳)
身長 177cm
体重 62kg
利き手
ツアー経歴
デビュー年 1986年
引退年 2001年
ツアー通算 7勝
シングルス 6勝
ダブルス 1勝
生涯通算成績 306勝209敗
シングルス 280勝166敗
ダブルス 26勝43敗
生涯獲得賞金 US$1,289,777
4大大会最高成績・シングルス
全豪 4回戦(1990・95)
全仏 4回戦(1997)
全英 2回戦(1995・97)
全米 4回戦(1989・90)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 2回戦(1990)
全仏 1回戦(1989)
全英 1回戦(1990)
全米 1回戦(1989・90)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全豪 2回戦(1990)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 10位
ダブルス 83位
2010年8月12日現在
テンプレート  プロジェクト テニス

バルバラ・パウルスBarbara Paulus, 1970年9月1日 - )は、オーストリアウィーン出身の元女子プロテニス選手。当地の女子テニス選手として、史上初の世界ランキングトップ10入りを果たした人である。WTAランキング自己最高位はシングルス10位、ダブルス83位。身長177cm、体重62kg、右利き。WTAツアーでシングルス6勝、ダブルス1勝を挙げた。粘り強さを持ち味とするベースライン・プレーヤーで、多彩なグラウンド・ストロークを最大の武器にした。彼女は「バブシ」(Babsi)という愛称で呼ばれた。日本語メディアでは名前だけ英語読みを用いたバーバラ・パウルスの表記も見られる。

来歴[編集]

9歳からテニスを始め、1986年にプロ入り。1987年全仏オープン4大大会に初出場し、いきなり3回戦に進出した。1988年5月の「ヨーロピアン・オープン」で、女子ツアー大会のシングルスに初優勝を果たす。その3ヶ月後、8月のブルガリアソフィア大会で単複とも決勝に進出し、ダブルスではコンチタ・マルティネスとのペアで優勝したが、シングルス決勝ではマルチネスに敗れた。9月にソウル五輪オーストリア代表選手としてオリンピックに初出場し、女子シングルスでジーナ・ガリソンとの3回戦まで進出した。1989年全米オープンで初の4回戦進出を果たした時は、当年度の全仏オープン優勝者アランチャ・サンチェス・ビカリオに 2-6, 2-6 で敗れている。

1990年にパウルスのテニス経歴は最初のピークを迎え、全豪オープン全米オープンで4回戦に進み、「ヨーロピアン・オープン」で2年ぶり2度目の優勝があった。同年10月、パウルスの世界ランキングは「12位」に上昇する。女子テニス年間最終戦の「バージニア・スリムズ選手権」にも、オーストリアの女子選手として初めて出場資格を獲得したが、この大会では1回戦でモニカ・セレシュに完敗した。この年、彼女はオーストリア・テニス連盟から「1990年ゴールデン・ニードル賞」(Golden Needle Award)を授与された。(Golden Needle: 「金の針」の意味)

しかし、この直後からパウルスは多数の故障を抱えるようになり、長期間の低迷に見舞われた。膝や両手首などの手術を受け、リハビリの合間を見ながら1992年バルセロナ五輪に出場したが、その後長期間の療養生活に入り、1993年9月までは全く試合に出場できなかった。ブランクによる世界ランキング下降のため、1994年全仏オープンは予選会の2回戦で敗退する。1994年末の段階で、パウルスの世界ランキングは「108位」の位置であったが、1995年から彼女のプレーは復調し始めた。

1995年全豪オープンで5年ぶり2度目の4回戦に進出したパウルスは、この年に9月中旬のポーランドワルシャワ大会とタイパタヤ市大会で優勝し、女子ツアーでも5年ぶりにシングルス優勝を果たした。1996年全米オープン3回戦で、パウルスは予選から勝ち上がったロシアの15歳、アンナ・クルニコワに 6-3, 2-6, 4-6 の逆転負けを喫した。クルニコワはこの全米オープンが4大大会初出場で、この活躍により「天才美少女」として世界的な人気を得た。1996年に女子ツアーで7度の決勝進出(優勝1、準優勝6度)があったパウルスは、WTAツアー選手権(前年から「チェイス選手権」に名称変更)にも6年ぶり2度目の出場を決めたが、1回戦でリンゼイ・ダベンポートに敗退した。最終戦の開始直前、パウルスは世界ランキングで自己最高の「10位」に入り、オーストリアの女子テニス選手として史上初のトップ10入りを成し遂げた。

パウルスはその直後、右手親指の故障で1997年全豪オープンを欠場するが、全仏オープンで初の4回戦に進出した。この試合では、当時16歳で最年少世界1位になったばかりのマルチナ・ヒンギスに 3-6, 6-0, 0-6 で敗れた。続くウィンブルドンでは、2回戦で日本雉子牟田直子に敗退する。ウィンブルドン選手権の終了後、開催時期が7月末に変更されたポーランド・ワルシャワ大会の決勝でヘンリエッタ・ナギョワスロバキア)を 6-4, 6-4 で破り、ここで最後のツアー優勝を飾った。1998年全米オープンの1回戦でナタリー・ドシーフランス)に敗れた試合を最後に、パウルスは女子ツアーの第一線から退いた。現役最後の試合は、2001年3月のアメリカミネソタ州ミネアポリス大会であった。

オーストリアはテニス選手の比較的少ない国であるが、彼女と同時代に活躍した男子選手のトーマス・ムスター1995年全仏オープンで優勝し、当地初の4大大会シングルス優勝者になった。女子選手では、パウルスとバルバラ・シェットの2人が世界トップ10まで到達した。

参考文献[編集]

  • ITF World of Tennis 1997 (ワールド・オブ・テニス 1997) Collins Willow, London (1997) ISBN 0-00-218714-0 国際テニス連盟が毎年発刊するテニス年鑑。