バンス・ロー

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バンス・ロー
Vance Law
Vance Law.jpg
シカゴ・ホワイトソックス時代
(1984年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国アイダホ州ボイシ[1]
生年月日 (1956-10-01) 1956年10月1日(64歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手二塁手
プロ入り 1978年 MLBドラフト39巡目
初出場 MLB / 1980年6月1日[1]
NPB / 1990年4月7日
最終出場 MLB / 1991年10月6日
NPB / 1990年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • ブリガムヤング大学

バンス・アーロン・ロー(Vance Aaron Law、1956年10月1日 - )[1]は、アメリカ合衆国アイダホ州出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)、野球指導者。

1990年NPBセントラル・リーグ)の中日ドラゴンズに在籍した。中日時代の登録名は「バンスロー[注 1][3]

父のバーノン・ローも元メジャーリーガー[1]、NPB(パシフィック・リーグ)の西武ライオンズコーチ経験がある[4]

来歴・人物[編集]

1978年MLBドラフト39巡目でピッツバーグ・パイレーツに指名され契約[2]1980年にパイレーツ傘下のマイナーリーグ・AAA級ポートランド・ビーバーズからメジャー初昇格[2]。パイレーツでは目立った成績を残せなかったが、1982年シカゴ・ホワイトソックス1982年 - 1984年)に移籍してからは主力選手として活躍[2]。以後はモントリオール・エクスポズ1985年 - 1987年)、シカゴ・カブス1988年 - 1989年)と渡り歩く。1989年まではカブスで三塁手のレギュラーに定着し、ナショナル・リーグの選手会長も務めており[5]、同年までのMLB通算成績は打率.257・71本塁打[6]

しかし、若返りを図るカブスのチーム事情から放出が決まり、その情報を球団OBのケン・モッカから知らされた中日ドラゴンズ[注 2]がローに接触[5]1990年1月に中日と2年契約(年俸+契約金の推定額:1億5,000万円)[注 3]を交わし、ベニー・ディステファーノとともに新外国人として入団[6]。背番号は2で、当時の中日監督星野仙一は「シュアな打撃の持ち主だが、日本なら本塁打も狙える。ロー、落合博満、ディステファーノのクリーンアップはどこにも負けない」と[6]、ともにクリーンアップを組むことになった落合も「(打率)3割・25本塁打は行ける」と、それぞれ彼を高く評価していた[注 4][3]。ヒッティングマーチ(応援歌)は当時発売されていたダイハツ工業軽自動車ミラ・パルコ」のCMソングの替え歌だった。(原曲はインドネシア民謡「Nona Manis」。)

同シーズンは122試合に出場して1年目にして打率.313・29本塁打・78打点の成績を残し、三塁手としてセ・リーグのベストナインに選出された[8]。また、長打率は.560(セ・リーグ1位)で、シーズンオフには同じくパ・リーグの最高長打率(.615)を記録した清原和博(西武)とともに「スーパースラッガー賞」を授与された[9]。しかし、当時は8歳の長女が脳腫瘍で闘病中だったため[注 5]、同年11月19日には「家族との時間を優先させる」という理由から退団を申し入れ、同年限りで帰国した[8]。なお、入団時に2年契約を締結していたため、退団時には球団がバンスローに対し、契約不履行の違約金を要求した[注 6][8]

長年に渡り中日球団職員を務めていた足木敏郎は自著 (2009) で「バンスローは敬虔なモルモン教徒だった[注 7]が、日本の生活・野球に嫌気が差していた[注 8]ことが退団の引き金になった」と述べている[10]。実際、バンスローは退団後の1991年3月(アスレチックス入団後)に「日本では大きな収入を得たが、野球そのものが面白くなかった。自分の球歴では『金のためだけにプレーする』という経験は初めてだった」「自分は本当に孤独だった[注 9]し、日本の野球には閉口した。(日本で)楽しかった思い出は成績だけである」と述懐している[11]。バンスローの想定外の退団を受け、中日は彼に代わる新外国人の補強が必要となり[8]、クリーンアップを打てる外国人選手としてマーク・ライアル(パイレーツ)を獲得することとなった[13]

1991年オークランド・アスレチックスに所属[注 10]して1年プレーした後[2]、現役を引退。なお、メジャーでは通算7試合に敗戦処理として登板している。引退後、2009年時点では母校のブリガムヤング大学の野球部監督を務めている[10]

フルネームをそのまま登録名にした外国人選手は、バンスロー、タイゲイニーテリーリーマットホワイトの4人。

物静かな性格であったが、中日時代には巨人戦で槙原寛己の投じた顔付近の球に激昂し、捕手の村田真一に詰め寄った。結局手は出さなかったが、両軍による乱闘騒ぎに発展すると暴れ者のディステファーノが退場処分となった。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1980 PIT 25 78 74 11 17 2 2 0 23 3 2 0 1 0 3 0 0 7 2 .230 .260 .311 .571
1981 30 71 67 1 9 0 1 0 11 3 1 1 1 1 2 0 0 15 2 .134 .157 .164 .321
1982 CHW 114 398 359 40 101 20 1 5 138 54 4 2 7 5 26 1 1 46 10 .281 .327 .384 .712
1983 145 471 408 55 99 21 5 4 142 42 3 1 6 5 51 1 1 56 7 .243 .325 .348 .673
1984 151 533 481 60 121 18 2 17 194 59 4 1 6 4 41 2 1 75 13 .252 .309 .403 .713
1985 MON 147 621 519 75 138 30 6 10 210 52 6 5 8 6 86 0 2 96 11 .266 .369 .405 .773
1986 112 402 360 37 81 17 2 5 117 44 3 5 2 2 37 1 1 66 9 .225 .298 .325 .623
1987 133 492 436 52 119 27 1 12 184 56 8 5 2 3 51 5 0 62 8 .273 .347 .422 .769
1988 CHC 151 621 556 73 163 29 2 11 229 78 1 4 4 3 55 4 3 79 15 .293 .358 .412 .770
1989 130 454 408 38 96 22 3 7 145 42 2 2 1 7 38 0 0 73 11 .235 .296 .355 .651
1990 中日 122 507 457 69 143 24 1 29 256 78 2 4 3 3 42 3 2 83 14 .313 .371 .560 .931
1991 OAK 74 157 134 11 28 7 1 0 37 9 0 0 5 0 18 0 0 27 4 .209 .303 .276 .579
MLB:11年 1212 4298 3802 453 972 193 26 71 1430 442 34 26 43 36 408 14 9 602 92 .256 .326 .376 .703
NPB:1年 122 507 457 69 143 24 1 29 256 78 2 4 3 3 42 3 2 83 14 .313 .371 .560 .931

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1986 MON 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 16 4.0 3 0 2 0 0 0 1 0 2 1 2.25 1.25
1987 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 15 3.1 5 0 0 0 0 2 1 0 2 2 5.40 1.50
1991 OAK 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 4 0.2 1 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0.00 3.00
通算:3年 7 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 35 8.0 9 0 3 0 0 2 2 0 4 3 3.38 1.50

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

MLB
NPB

背番号[編集]

  • 49 (1980年)
  • 2 (1981年、1985年 - 1991年)
  • 5 (1982年 - 1984年)

登録名[編集]

  • バンスロー (1990年)[8]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 1990年の春季キャンプ時点ではユニフォームの背ネームは「ロー」(LAW)だったが[3]、不振時に「成績もローLow=低い)」という風に、マスコミに揶揄されるのを嫌った球団側の配慮でフルネームの「バンスロー」とした。
  2. ^ 星野監督は1989年の夏頃からバンスローに注目していたが「獲得できたのは、ラッキーの一語に尽きる」と述べていた[3]
  3. ^ これに加え、30本塁打・80打点を達成した場合は約5万ドル(当時のレートで約750万円)の出来高ボーナス(インセンティブ)が支払われる契約だった[5]
  4. ^ また、バンスローも落合の打撃練習を見て、落合に対し「落合の名はアメリカでも知られている。彼は大リーグでも通用する選手」と高い評価を下していた[7]
  5. ^ バンスローは当時、夫人との間に4人の子供(3男1女)がいたが、長女は翌1991年に米国で検診・治療を受ける必要があり、バンスロー本人も退団理由を「長期間、家族と離れて暮らすことは自分には耐えられない」と説明した[8]。また、足木敏郎 (2009) は「バンスローは出来高獲得の条件(30本塁打・80打点)の条件を満たせる寸前にも拘らず、残り2試合となったところで帰国を申し入れた。自分は説得したが、当時は既に順位が決定しており、ボーナスも出さなくて良くなるため、球団も了承した」と述べている[10]
  6. ^ 当時の中日球団社長・中山了は退団に際し、バンスローについて「彼の生活態度から、我々の想像以上に家族思いなのは知っている。契約を盾に無理を強いても来季の成果は期待できない」と述べている[8]
  7. ^ 飲酒・喫煙をしなかったほか、1990年の春季キャンプ中には中日球団のヘッドコーチを務めていた一枝修平から「(次の紅白戦は)2打席ぐらい打って交代してはどうか?」と問われたが、バンスローはそれに対し「そんな勝手なことをして、チームメートに嫌われないだろうか」と回答しており、そのやり取りを取り上げた『中日新聞』は「(バンスローは)誠実さを絵に描いたような選手」と報道していた[3]
  8. ^ 来日当初(春季キャンプ当時)は「球場の設備・ホテルの料理も最高だ。チームカラーも明るく、楽しく野球ができそうだ」と発言していたが[3]、足木 (2009) は「日本では真夏でも2時間は練習するが、これはメジャーでは考えられないことだった。そこで、バンスローは『ゲームへの体力がなくなてしまうから、練習を短くしてほしい』と首脳陣に申し入れたが、聞き入れられなかったことで気持ちが切れた」と述べている[10]。また『中日新聞』 (1991) は「日米の文化の違い・ホームシックに加え、日本独特の野球スタイルがローを苦しめていた」と報道している[11]ほか、「試合中に星野監督が大豊泰昭にベンチ裏で鉄拳制裁を行い、顔面を殴られた大豊が鼻血を流していた姿を目撃してショックを受け、退団を決意した」とする報道もある[12]
  9. ^ バンスロー本人は「同僚のディステファーノが途中退団し、家族も帰国してからは私生活でも一人ぼっちだった」と述べている[11]
  10. ^ バンスロー本人はアスレチックスに入団した理由として「数球団から(獲得の)話があったが、これまでワールドシリーズで優勝したことがなかったので、強いチームでプレーしたかった」と述べている[11]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e Vance Law Stats, Fantasy & News” (英語). MLB.com. メジャーリーグベースボール. 2020年10月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月7日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j Vance Law Minor & Japanese Leagues Statistics & History” (英語). Baseball-Reference.com. Sports Reference. 2020年10月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月7日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 『中日新聞』1990年2月20日朝刊第一運動面27頁「夢、一直線 90Dキャンプから バンスロー いけるゾ3割、25本 立浪と黄金二遊間」(中日新聞社)
  4. ^ Associated Press. "BYU coach takes position in Japan". The Desert Sun. December 5, 1978. Retrieved May 23, 2019.
  5. ^ a b c 足木敏郎 2009, p. 245.
  6. ^ a b c 中日新聞』1990年1月9日朝刊第一運動面19頁「中日にV使者 “舶来砲”2人決まる 豪打のロー、強打のディステファーノ」「強竜が復活」(中日新聞社
  7. ^ 『中日新聞』1990年2月17日朝刊第一運動面25頁「夢一直線 90Dキャンプから 落合博満 早くもエンジン全開 「高い目標」へ自信」(中日新聞社)
  8. ^ a b c d e f g 『中日新聞』1990年11月21日朝刊第一運動面25頁「中日 バンスロー退団 長女が難病 「単身赴任ノー」」「外人の補強再スタート 許されぬ“空振り”」(中日新聞社)
  9. ^ 『中日新聞』1990年10月20日朝刊第一運動面23頁「バンスローにスラッガー賞 清原も初受賞」(中日新聞社)
  10. ^ a b c d 足木敏郎 2009, p. 246.
  11. ^ a b c d 『中日新聞』1991年3月26日朝刊第12版第一運動面25頁「日本の野球には閉口 バンスローが述懐(米アリゾナ州フェニックスAP・SW=共同)」(中日新聞社)
  12. ^ 星野仙一 スポーツ紙が封印した「鉄拳流血事件」を一挙プレイバック!(1)鉄拳制裁にあの落合もドン引き」『アサ芸プラス徳間書店、2014年10月7日。2020年10月7日閲覧。オリジナルの2020年10月7日時点におけるアーカイブ。
  13. ^ 『中日新聞』1990年12月27日朝刊第一運動面19頁「中日 パ軍のライアル入団へ 今季3A首位打者 年内にも正式決定」(中日新聞社)

参考文献[編集]

  • 足木敏郎「750万円をふって帰国したバンスロー」『ドラゴンズ裏方人生57年』中日新聞社、2009年12月6日、初版第1刷発行、245-246頁。ISBN 978-4806206040。

関連項目[編集]