V号戦車

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V号戦車パンターA型
Panzer V mg 7819.jpg
性能諸元
全長 8.66 m
車体長 6.87 m
全幅 3.27 m
全高 2.85 m
重量 44.8 t
懸架方式 ダブルトーションバー方式
速度 46 - 55 km/h(整地
27 - 33 km/h(不整地
行動距離 170 - 250 km
主砲 75 mm Kw.K.42 L/70(79発)
副武装 7.92 mm MG34機関銃×2(4,200発)
装甲 砲塔前面110 mm 傾斜11°
側・後面45mm 傾斜25°
車体前面80mm 傾斜55°
側面40mm 傾斜40°
後面40mm 傾斜30°
エンジン Maybach HL230P30
水冷4ストロークV型12気筒
700 hp (520 kW)
乗員 5 名
  

V号戦車パンター(ごごうせんしゃパンター、Panzerkampfwagen V Panther 制式番号:Sd.Kfz.171)は、第二次世界大戦においてドイツが製造した中戦車である。しかし後に「V号戦車」という名称は廃止され、「パンター戦車(独:Pz.Kpfw. Panther、戦車)」が制式名称となる。

目次

開発

番号としてはVI号戦車ティーガーの前であるが、実際にはその後に計画・設計されたものである。独ソ戦開始と同時に、ソ連T-34戦車に衝撃を受けたハインツ・グデーリアン将軍は、その調査を命じた。後に「戦車委員会(Panzerkommision)」と呼ばれることになるこの調査団を東部戦線に派遣し、T-34の評価を行った。そして戦車委員会は、T-34の最大の長所は傾斜装甲であり、幅広の履帯が柔らかい土の上での機動性の向上、そして76.2mm砲が貫通力が高く、また炸薬量が多いこと、以上の3点が重要な特徴であると結論した。 1941年11月末、ダイムラー・ベンツ社とMAN社に30-35t級新型中戦車VK30.02.の1942年4月までの期限での設計が発注された(これは明らかにヒトラーの誕生日の公開に間に合わせるため)。ダイムラーベンツによるVK30.02.(DB)はT-34の影響を大きく受けたスタイルではあるが、足回りは大型転綸とリーフスプリング式サスペンションの組み合わせであり、この為ターレットリングの小型化、車体の小型化などが実現された。MANの初期案(トラディショナルなドイツ戦車)とともに両者の案は42年1月から3月までTodt、後にSpeerによるレビューを受け、両者ともDB案をヒトラーへ提案する事を支持していた。しかし、最終案提出に際しMAN社はDB社の提案を参考にデザインを変更し、最終的に採用となったのは、よりドイツ戦車的構造であるVK30.02.(MAN)の方であった。この決定の決め手の一つにMAN社のデザインは既存のラインメタル―ボルジッヒの砲塔を利用できた、と言う事も挙げられる。この新型中戦車は設計段階から、先発して開発途中であった重戦車より優先権があるとされ、また委員会の名前から、1942年5月15日に「V号戦車パンターA型(Sd.Kfz.171)」と命名された。しかしこれは1943年1月に「パンターD型」に変更され、A型の名はより後の型につけられている。

VK30.02.は当初35tクラスということで設計されたが、設計段階から重量が増加した上、設計がほぼ出来上がった時点でヒトラーの一声で車体前面装甲を60mmから80mm、および砲塔前面を80mmから100mmへと強化したため、当時の重戦車クラスの約45tになった。そのため当初、最高速度は60km/hを計画していたものが55km/hに落ちてしまった。

構造

装甲

三重構造の挟み込み型配置の転綸

本車はそれまでのドイツ戦車と違い傾斜した装甲を持っており、70口径 7.5 cm KwK 42という強力な(対戦車兵器として56口径8.8 cm KwK 36よりも近距離であれば高い装甲貫徹力を持つ)戦車砲を搭載していた。また、ティーガー同様に幅の広い履帯、挟み込み式配置の大きな転輪で車重を分散し接地圧を下げる工夫が行われ、これは車台側面を守る補助装甲の役も与えられている。転綸の上に露出している車台側面装甲は射撃試験の結果、ソ連軍の14.5mm対戦車ライフルに射貫される恐れがあったため、量産型ではこの部分を被う補助装甲であるシュルツェンが装着された。

G型の装甲厚

強力な前面装甲に対し側面装甲は半分程度の厚みで、特にD・A型は燃料タンクのある車体後部を容易く射貫され炎上することがあった(但し、側背面の装甲が薄いのは本戦車に限ったことではない)。主装甲板は初期生産車に限ってはニッケルを一切使用しない装甲板を使用、Oh式という特殊な焼き入れで表面硬化を行い、さらに高周波表面硬化を施して強度を保っていたが、のちにこの処理を止めており、特にG型からは全車が表面硬化処理を廃止している。ただし装甲厚の薄い側面装甲には表面硬化処理が施されている(英国は捕獲したパンターD・A型を調査した結果、主装甲には表面硬化処理が施されていなかった。またドイツ軍の火焔焼き入れ鋼板規格においてパンターの主装甲厚である80mm規格は1943年末には廃止されている)。

サスペンション

サスペンションは、トレーリングアームトーションバースプリングの組合わせを採用しており、当時の戦車としては強力なエンジンと合わせ、機動力も高かった。しかしトランスミッションは改良を加えたとはいえ重量に対し適正なものとはいえず、放棄されたパンターの故障原因に最終減速ギアの損傷によるものが多い事が記録されている[要出典]。故障の少ない試作品もあったものの、それを作るための工作機械が足りないためやむを得ず改設計し、それが仇となって故障が続出したともいわれている[要出典]。この箇所は改設計がくり返されたものの、最後まで万全と呼べる状態にはならなかった。異説としては、「生産効率向上のため、徹底して従来からある共通部品を使用するために専用部品の製造を避け、やむを得ず不適切な部品を無理やり組み込んだ」というものがある。このため従来の戦車よりも重くなって負荷が大きいにもかかわらず、ヘリカルギアではなく旧来の平歯車を組み合わせたため、乱暴なギアチェンジで歯が欠けて故障を多発する原因となった、ということである[要出典]

実戦投入後

最初の量産型(D型)は、ツィタデレ(城塞)作戦に間に合わせるためにさまざまな問題が未解決のまま戦場に送り込まれた。しかし重量増のため、転輪や起動輪、変速機など駆動系に問題が多発。また燃料漏れによる火災事故も発生し2輌が戦わずして全焼するなど、稼働率は低かった。また最初にパンターを装備し実戦投入された第51・52戦車大隊は、それぞれ既存の戦車大隊を基に再編成されたものであったが、一握りのベテランを除く乗員は、東部戦線での実戦経験の無い新兵が多く、また訓練期間も不足していた。さらに同隊の作戦将校にも実戦経験のある者が少なく、指揮にも問題があったため、クルスク戦では十分な活躍はできなかった。[1]後に問題点が改良され、装甲師団の中核を担う戦車となる。それまでドイツ機甲部隊の中核を担ってきたIII号戦車の生産は打ち切られ、突撃砲を除いて全て本車の生産ラインに切り替えられた。

1943年頃のパンターの価格は125,000ライヒスマルクで、これに対しIII号戦車は96,200ライヒスマルク、IV号戦車が103,500ライヒスマルク、ティーガーIが300,000ライヒスマルクと、高性能でありながら導入コストパフォーマンスが高かった[要出典]。前線の戦車部隊においても管理運用コストの増大による稼働率の低下は現有戦力の低下に直結するため、長砲身(48口径)7.5センチ砲に換装されたIV号戦車(戦車連隊の第二大隊装備)が最後までパンター(第一大隊装備)と併行生産された。

本車に搭乗したエースとしては、第2SS装甲師団エルンスト・バルクマンSS曹長が有名である。1944年7月のフランス、サン・ロー/クータンス間の十字路でアメリカ戦車M4シャーマンをたった1輌で迎え撃ち、近接戦闘で9輌撃破、1輌中破せしめ、後年の戦記では「バルクマン・コーナーの戦闘」として語られている。バルクマンはこの後の二日間に、さらに15輌の敵戦車を撃破、7月30日には乗車を撃破されるも脱出に成功している。同年12月、古いD型で「バルジの戦い」に参加した彼は夜間、敵戦車の列に紛れこみハッチから漏れる車内灯の色で識別し攻撃、M4戦車数輌を撃破している[2]

他国軍での使用

ソ連軍ではパンターを優秀な戦車と認識しており、戦争後期に捕獲した本車で戦車隊を編成、またフランスブルガリアも戦後、パンターのみで戦車部隊[3]を編成している(フランスは占領時代の工場で生産、ブルガリアはソ連から鹵獲品を供与された)。

連合軍の反応

戦場に大挙出現したパンターへのソ連軍の反応は素早く、クルスクの戦いで損傷し、戦場に放棄された31輌のパンターは徹底的に調査された。結果、砲撃により撃破されたものはこのうちの22輌で、傾斜した車体前面装甲を撃ち抜けた砲弾は一発も無く、一方機関部付近への被弾では容易に炎上するなどの弱点も発見している。またこの中でT-34によって撃破されたものはたったの1輌だけであった。しかし1943年後半でも赤軍戦車部隊は、1941年と同様の76.2mm砲装備のT-34が主力のままであった。この砲はパンターの前面装甲に対して力不足で、撃破するためには側面に廻りこまねばならなかったが、パンターの主砲はどの方向からでも遠距離からT-34を撃破できた。そこで85mm砲と三人乗りの大型砲塔を装備したT-34-85戦車が開発された。本戦車はパンターと対等とは言えなかったものの、76.2mm砲装備のものよりはるかに強力であり、質的な劣勢は数的優位でおぎなった。T-34の車台を使用したSU-85SU-100などの新型の自走砲も投入された。1944年半ばまでには赤軍はパンターよりはるかに多数のT-34-85を戦線に投入していた。

1944年3月23日に行われたドイツ軍によるドイツ戦車とソ連のT-34-85およびIS-2(122mm砲装備)の比較では、パンターは正面戦闘ではT-34-85よりはるかに優れており(パンターG型は2000mでT-34-85の前面装甲を貫くのに対し、T-34-85はようやく500mでパンターG型の砲塔前面装甲を貫くことができる)、側面と背面ではほぼ互角であり、IS-2に対しては正面では互角であるが、側面と背面では劣っているとされた。1943年と44年にはパンターはあらゆる連合軍戦車を2000mの遠方から撃破でき、ベテラン乗員の乗るパンターは1000m以内で90%以上の命中率を達成した。パンターはIS-2とほぼ同じ重量があり、実際のところはるかに軽量なT-34よりIS-2の方が好敵手と言えた。

これに比べ米英の対応は一貫性がなかった。パンターは1944年初めのアンツィオの戦闘でようやく初めて英軍の前に姿を現したが、その時に使用されたのはごく小数だった。米軍は北アフリカ戦線ティーガーIに遭遇しており、パンターもこれ同様に独立編成される少数の重戦車であり、IV号戦車を支援するものと思い込んでいた。しかし実際には、その後ノルマンディー上陸作戦で遭遇したドイツ戦車の半数近くはパンターであり、米軍のM4シャーマン戦車の75mm砲では前面装甲を貫けなかった。米軍はとりあえず76.2mm砲装備のシャーマンとM10駆逐戦車、1944年末頃からは90mm砲装備のM36ジャクソン駆逐戦車で対応、終戦間近にようやくM26パーシング重戦車を投入した。これらの新兵器によってもなおパンターの前面装甲を貫くことは容易ではなかった。米陸軍の統計では、平均してパンター1輌を撃破するのにシャーマン5輌が撃破されていた。

米軍より対戦車戦闘能力を重視していた英軍は、ドイツ重戦車に17ポンド砲搭載のシャーマン ファイアフライと牽引式の17ポンド対戦車砲で対抗した。ノルマンディー戦の終結までに英軍のシャーマンの5輌に1輌はファイアフライとなった。また1945年には、17ポンド砲の短縮版である77mm砲を搭載するコメット巡航戦車を投入した。

ソ連軍には捕獲されたティーガーとパンターは修理してはならず、故障したら破壊して放棄せよとの規則があった。しかし前述のように、前線部隊ではパンターが大変好評であり、しばしば優れた戦功に対する褒章として与えられ、まだできるだけ長く使用するため努力が払われた。ドイツ乗員のためのパンター戦車の使用マニュアルもロシア語に翻訳されて、捕獲したパンターの乗員に支給された。

但し(これはパンターに限らない事ではあるが)鹵獲した敵の戦車を使用すると友軍からの誤認射撃を受けて戦闘不能に陥るというケースが頻発した為、その犠牲者になる事を恐れて、一部のソ連軍戦車兵の中には鹵獲したパンターに乗る事を避ける者もいた。

バリエーション

列車輸送されるパンターD型。砲塔側面連絡用ハッチを残す初期型で、クルスク戦に投入された。(撮影はクルスク戦より後で、各部が改修されている)
パンターD型
1943年中にMANダイムラー・ベンツヘンシェル、MNH各社によって842輌が生産された最初の型。このうちヘンシェル社では車体のみが製造され、砲塔の製造はヴェクマン社が担当している。
D型の原型である試作2号車「フェアズヒス・パンターV2」では砲塔左側に車長キューポラ用の張り出しがあったが、量産型では無くなっている。この60mm厚の装甲を持つ、6つの視察口を持つドラム型(ダストビン型ともいう)キューポラは、防弾ガラスを通して直接視認するタイプであった。また主砲の照準装置は双眼式のTZF12を装備している。車体前方にMGクラッペ(車内に搭載された機関銃を発砲するための蓋付きの開口部)が設置されているのは、この時点では80mm厚の装甲に対応したボールマウント式銃架の開発が間に合っていなかったためである。
予定されていたマイバッハV12型HL230 P30エンジン(700PS/3000rpm)も間に合わず、第250号車まではV12型HL210 P30(650PS/3000rpm)が搭載されている。このHL230 P30エンジンは通常のV型エンジンと異なり、両シリンダーバンク位置が長手方向にオフセットされておらず、コンパクトさを特徴としたが、逆に故障を促進する結果となった。また、シリンダーガスケットも問題があったが1943年9月までにシール材の改良によりこの問題は解消された。たびたび故障の原因となったベアリングは1943年の11月に改良されたものが導入され、改善された。またエンジンガバナーも1943年11月から導入され、エンジンの最大回転数は2500rpmまでに押さえられる事となった。当初クランクシャフトのベアリングは7つであったが1944年1月より8個に増やされた。
当初砲塔の左側に連絡用ハッチが設置されていたが、防御力向上のために1943年8月以降の生産車から廃止された。また砲塔の左右に煙幕弾発射器が装備されていたが、被弾によって損傷し、不必要なときに発煙し視界を妨げるため撤去された。
製造後にも、脱落しやすい転綸のゴム製リムを固定するリベットの数を増やすなど改修が加えられている。こういった初期故障への対応が完了しない状態のまま、第10戦車旅団の(実数)192輌のD型がクルスク南部戦区に投入された。エンジンコンパートメントは気密性を確保し、浅い川などをとかする能力をパンサーに付与したものの、逆にエンジン区画の換気性能の低下、エンジンのがオーバーヒートし易くなる原因となった。また初期型においては燃料系の漏れ対策が不十分であり、エンジン区画への燃料漏れ、火災など数々のトラブルが発生し、実戦デビューは大失敗に終わる。この前後に、実に40を超える細かい改修が製造済みの車輌や生産ライン上の工程に加えられていったものの、最終型に至っても克服できなかった問題点も残っていた。
最初の量産型なのにD型である理由については、A~C型は試作車両として存在する、敵方への情報撹乱のため、単に書類上の誤りなどの諸説があった。実際には前述のように当初はA型と命名されているのだが、なぜD型に変更されたのかは不明である。
車体番号は210001~210254および211001~214000。
ドイツ・ムンスター戦車博物館のパンターA型(指揮戦車型)。星形アンテナが見える。
パンターA型
1943・44年に851号車以降、MAN、ダイムラ・ーベンツ、MNH、デマーク各社により約2,200輌が生産された。
車体そのものにはD型から大きな変更は無かったが、問題が多かった変速機を変更するなど機械的信頼性を高めた。また生産途中から車体前面のMGクラッペが新型ボールマウント式機銃架・クーゲルブレント80に改められた。
砲塔は新設計で、D型の直視式から、装甲が強化されペリスコープによる間接視認式となった鋳造製の新型キューポラに、主砲用照準器は途中から単眼式のTZF12aに変更されている。また砲塔旋回速度の変更ができるようになり、標的の捕捉が容易になった。途中から砲塔上面にSマイン(対人跳躍地雷)を発射できる近接防御兵器の搭載が予定されたが、生産が間に合わず取り付け部に蓋がされているものが多い。
D型の次はE型のはずなのに、A型となった理由は不明である。
車体番号は151000~160000および210255~211000。
パンターG型
パンターG型
1944年・45年にMAN、ダイムラー・ベンツ、MNH各社により3,100輌ほど(2953輌説もあり)が、1945年4月に工場が占領されるまで生産され続けた。
開発中止になったパンターIIでの改良点を加えた事実上のパンターの完成型。弱点だった車体側面装甲が若干強化されている反面、被弾率の低い車体下部前面などは逆に削られた。また、生産途中からD・A型で問題になった主砲前面防循のショットトラップ(防循で跳弾した敵弾が装甲の弱い車体上面を直撃してしまう現象)対策で防循下部に“あご”状の張り出しを設けた物も使用された。
操縦手と無線手用のハッチは、それまでの持ち上げてから横旋回で開くタイプから、ヒンジ付きで普通に上に開くタイプに変更された。当時の多くの戦車の弱点である操縦手のクラッペ(視察窓)は廃止され、それまでの固定式から変更された旋回式ペリスコープから外部を視認した。しかしこれにより行軍中に直接外を見ることができず不便になったので、後に座席の高さを変えてハッチ穴から頭を出せるように、またそれに合わせ操縦ペダルも高さの違う二組に改良された。一部の車輛は赤外線暗視装置を搭載し、実戦使用された。また、排気管も生産途中で消炎型の物に改められた。
車体番号は120301~130000(途中欠番あり)。
量産には至らなかったパンターF型の模型
パンターF型
ラインメタル社が基本設計、ダイムラー・ベンツ社が製作した小型砲塔(シュマールトゥルム)が搭載され、重量を軽減すると共に防御力が高められていた。この小型砲塔ではキューポラのハッチの開き方がヒンジ式に変更され、SZF1潜望鏡式照準器が装備されていた。また車体にも改良が行なわれ、車体上面・下部装甲の増厚、操縦手、装填手用ハッチのスライド式への変更、車体前面機銃をMG34からMG42へ変更、乗員自衛用のMP43装備などが行なわれている。
主砲はチェコシュコダ社の開発したKwK42/1に変更され、新装備のステレオ式測距器は、正確な彼我の距離を測れるなど特に遠距離での砲撃に威力を発揮する物であるが、戦後同じものを装備したアメリカ戦車(M47など)にトラブルが続発していることから、戦時中に物になったかどうかは疑問である。
試作1号砲塔をG型車体に載せた1輌が作られ、G型に代わって量産に入る予定であったが、結局実現せず終戦を迎えた。試作2号砲塔は戦後イギリス軍が押収し、砲撃訓練のターゲットとして使用していた。現在、ボービントン戦車博物館に痛々しい姿で展示されている。
G型の次がなぜF型と呼ばれたのかもまた不明である。
パンター指揮戦車
中隊指揮官・副官以上用に350輛(D型75輌、A型200輌、G型75輌)が生産された他、改修キットにより既存のパンターから改造された。
標準的なFu5無線機に加え、上級司令部などとの連絡用にFug8長距離用無線機と星形アンテナ(独:シュテルン・アンテナ)を搭載した。無線と発電機の増設のため、搭載弾薬が79発から64発に減らされ、主砲同軸機銃が撤去されている。制式番号はSd.Kfz.267。
パットン・ミュージアムのパンターII試作車台
パンターII
試作型に対するヒトラーの改良要求のうち、D型には間に合わなかった点を取り入れ改設計された、A型以前に計画開始された型。全体に強化された装甲と、パンターI(従来型のパンター)よりシンプルな二重構造の千鳥足型配置で鋼製転輪の足回りを持ち、多くの部分でティーガーII計画との部品共通化が図られていた。
生産は1943年9月から開始される予定であったが、既に各工場ともパンターIの生産に手一杯であり、パンターIIの開発に労力を費やすよりも従来型に足回り以外の改良点を反映させた方が現実的である(これは後にG型として結実する)との判断から計画は進展せず、1943年8月に試作車1輛が完成しただけで、砲塔は試作にも至らないまま、1944年初頭にパンターIIの量産化は断念された。
終戦時、試作車は未完成であった砲塔の代わりに死重を載せた状態で米軍によって捕獲され、現在は米国のパットン・ミュージアムで保存されている(展示車輛にはG型の砲塔が搭載されているが、米国内での試験後に載せられたもので、パンターII本来の計画とは無関係である)。

派生型

ベルゲパンターG型 復元車輌のため、A型までの機関砲と取り付け架が付いている
戦車回収用器材(パンターI )
Panzer-Bergegerät (Panther I) Sd.kfz.179
またはベルゲパンター(Bergepanther)、パンター戦車回収車(Pz.Berge.Wg.Panther)とも呼ばれる。それまでは18t ハーフトラックSd Kfz 9を戦車回収車として使用していたが、パンターやティーガー等の50t 前後の戦車には3輌以上の重連牽引が必要で、しかもトラックの車体フレームにダメージを与えかねないため、新たに本車が開発された。最初に砲塔の無いD型車体に簡易クレーンを付けた暫定型が少数作られたが、後にボールマウント式銃架を持たないA初期型車体(古い資料ではD型と誤認されている)とG型車体にウインチを搭載したタイプが量産された。車体前方に2cm機関砲Kwk38が設置できるようになっているが、実戦で使われている写真は見られず、A型の途中より取り付け架が廃止されている。
エレファントを主力とする第653重戦車駆逐大隊では、D型車体にIV号戦車H型の砲塔を固定装備した現地改造の指揮戦車?が配備されている。
装甲砲兵観測車 パンター
Panzerbeobachtungswagen Panther
戦闘型パンターから主砲を撤去して木製のダミー砲身と防盾を付け、ダミー砲身の横にボールマウント式のMG34機関銃を増設。距離計など砲兵用の観測機材と無線機を装備した、前線での着弾観測を行うIII号装甲砲兵観測車の後継車輛。1944年末から1945年にかけ41輌が改造されたとされる。しかしこの手の任務に貴重なパンターを使うのは贅沢であるとの批判もあり、その後一部または全ての車輌が戦車型に再改造された。
地雷にやられたM10パンター(仮)のB4号車。薄い偽の砲塔外板がひしゃげている。
M10パンター(仮称)
西部戦線における最後の大反攻「クリストローゼ作戦」(アルデンヌの戦い)の一端で米軍部隊に変装して潜入を図る「グライフ作戦」用に少なくとも5輌(ナンバーからの推測で10輌とも)が改造され、オットー・スコルツェニー親衛隊中佐に指揮される第150戦車旅団に配備された偽装パンターG型。キューポラを取り外し、砲塔・車体の前・側面に薄い軟鉄製偽装車体を被せた作りで、足回り以外はM10GMC(むしろ英軍型のアキリーズ)にかなり似せることに成功している。しかし行軍中の大渋滞に巻き込まれ先行することができず、結局偽装の甲斐も無くマルメディ市街地への強襲攻撃に使われ、地雷やバズーカ、砲撃によって多くが失われてしまった。
ヤークトパンター
Jagdpanther (Sd.Kfz.173)
パンターの車体を元に、71口径8.8cm対戦車砲 (8.8cm PaK43/3 L/71)を搭載した駆逐戦車
3.7cm連装高射砲搭載パンター戦車(ケーリアン)
木製模型だけが作られた対空戦車で、パンターのシャーシの上に3.7 cm Flak 43高射機関砲を連装で搭載した密閉型砲塔を持つ予定だった。実物大モックアップが作られ、計画は1945年1月の時点まである程度進んでいたものの、陸軍兵器局試験部第6課から「車体サイズに比べ火力が貧弱」との指摘があり、この砲塔を拡大したような形で連装5.5cm高射機関砲を備えた車輌に計画が移行した。
ガスタービン試験車
当初Ⅵ号戦車にGT101ユニットを搭載する予定だったが収まらないのでV号戦車に搭載することになり1944年、9月25日試作車が完成した。最初に開発された戦車用ガスタービンはアニュラー型燃焼器、圧縮機は5段軸流式で2段のタービンで圧縮機を駆動して1段のタービンで出力を取り出す型式だった。後に圧縮が4段、出力側タービンが圧縮機駆動兼用3段式に改良された。原理的には現在のM1A1T-80に搭載されているものと同じである。低速での発進が難しく、ガスタービンの寿命も短かった。低速時でも燃料消費が多かった。GT101は14000回転で1150hpの出力、重量450kg、圧縮比4.5:1タービン入口温度800℃だった。改良型のGT102が開発された。9段軸流圧縮、3段タービンに改良された。
D型の砲塔を改造・流用した東方の壁砲塔
オストヴァルトゥルム(Ostwallturm 東方の壁砲塔)
パンターの砲塔だけを地上に置いた固定砲台。「東方の壁」とは東部戦線の要塞や陣地を意味するが、西部戦線やイタリア戦線で使われた数の方が多く、最後にはベルリンの路上にも設置されている。野砲の榴弾に耐えられるように上面装甲が40mmに強化され、姿勢の高いキューポラを撤去し平板なハッチに変更した物も多い。鋼鉄の装甲箱に載せられたI型(砲塔手動旋回)と、コンクリート製の地中トーチカに載せられたIII型(砲塔旋回モーター用発電機と居住施設・ストーブを装備)が実際に使われた。対戦した英軍の報告によると、通常の対戦車砲よりも強力でやっかいな存在であると評価されている。

脚注

  1. ^ 大日本絵画「独ソ戦車戦シリーズ1 クルスクのパンター」(マクシム・コロミーエツ著)、デルタ出版「グランドパワーNo.079 2000年12月号 クルスク戦のパンター」他
  2. ^ 大日本絵画「世界の戦車イラストレイテッド パンター中戦車1942-1945」(スティーヴン・ハート著)、文林堂「グラフィックアクション No.46 ドイツ軍 戦車撃破王列伝」他
  3. ^ 第503戦車連隊、定数50輌、1951年ごろまで現役運用。1961年ごろまでパリ近郊で予備保管

関連項目

ウィキメディア・コモンズ

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