パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル

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パーマストン子爵ヘンリー・テンプル

第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルHenry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, KG, GCB, 1784年10月20日 - 1865年10月18日)は、イギリスの政治家。19世紀半ばに2度、首相を務めた。イギリスが絶頂期の時に外交を仕切った政治家でパックス・ブリタニカのシンボル的存在。

目次

生涯

生い立ちから外相になるまで

政治家であるアイルランド貴族、第2代パーマストン子爵ヘンリー・テンプル(1739年 - 1802年)の息子として、ハンプシャー州ブロードランズで誕生。ロンドンで育つ。ジョナサン・スウィフトのパトロンでルイ14世の覇権に挑戦した外交官ウィリアム・テンプルの弟ジョンの玄孫にあたる。

幼いころにテレーズというフランス人の女性家庭教師に養育され、彼女のもとでフランス語を習得。ハーロー校エディンバラ大学で学び、ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジを卒業。学生時代に父が死去。父の死後は父の友人でもあった初代マームズベリー伯爵(ジェームズ・ハリス)がパーマストンの後見人となった。マームズベリー伯爵は、20代でフォークランド諸島をめぐる問題でスペインと交渉して成功に導き、アメリカ独立戦争時には、ロシアを対イギリス同盟に参加させないよう全力を尽くし、フランス革命直前時にはプロイセンオランダと三国同盟の締結に成功するなど優れた外交官であった。マームズベリー伯爵のもとで外交の基礎を学ぶ。2度選挙に落選し、1807年に初当選した。

1809年から1828年、軍務大臣として対アメリカ戦争などを仕切る。最初はトーリーであったが1822年からホイッグ党カニング派になる。

パーマストン外交時代

グレイ内閣・メルボルン両内閣の1830年から1841年にかけて外相を務める。1827年ロンドン条約(1827年)1832年ロンドン条約(1832年)ギリシャの独立承認、1839年のロンドン会議でベルギーの独立承認に尽力。1833年から1841年、ロシアの南下政策とフランスの東地中海進出の封じ込めに尽力。

1840年から1841年アヘン戦争を指導。特にアヘン戦争で王朝と戦争状態にある時、エジプトを巡る第二次東方危機問題でロンドン5ヶ国海峡条約を締結してロシアとフランスの封じ込めに成功できたのはパーマストンの優れた外交指導力であり、当時のイギリスの力がいかに絶大であったかを示す事件であった。関税改革をめぐって選挙に敗れたメルボルン政権は崩壊しパーマストンも外相の座をおりた。その後第二次ピール政権の下で新たに外相の座についたアバディーン伯(ジョージ・ハミルトン=ゴードン)の協調外交を批判した。

1845年から1849年の4年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生したジャガイモ飢饉が発端となって穀物法の存廃をめぐってピール政権が崩壊。代わってジョン・ラッセル卿が首相になると再度パーマストンが外相に就任。1846年から1851年の在任期はポルトガル内戦の解決やドン・パシフィコ事件でギリシャを恫喝。1848年にフランスに二月革命が起きると、国王のルイ・フィリップと首相のギゾーの亡命を受け入れた。

また、三月革命オーストリア帝国ウィーンにも広がると宰相のメッテルニヒの亡命も受け入れた。これらはウィーン体制の崩壊を意味し、イギリス流の自由主義とそれを推し進めてきたパーマストン外交の勝利を意味した。しかし、1851年にナポレオン3世のクーデターを勝手に承認した発言を問われ外相を事実上更迭させられる。

アバディーン伯の連立政権が成立すると1852年から1855年の間内相を務める。アバディーン伯がパーマストンの存在を恐れて閣内に取り込んでおかないと政権が不安定になると考えたのでランズダウン侯を通じてパーマストンに内相になるよう説得したからである。内相時代の1853年に新たな工場法を成立させ青少年労働者の工場における労働条件の改善に尽くした。

クリミア戦争が起こりセバストポリの攻囲戦をめぐって戦線が膠着状態になると、軍事の諸問題に明るくて抜群の外交手腕を持つパーマストンに戦争指導者としての期待がたかまった。穏健外交スタイルのアバディーン伯首相は戦争時の指導者にはむいていなかった。パーマストンの力ずくの外交を批判していたアルバート公もパーマストン待望論を表明し、夫アルバート公同様パーマストンを毛嫌いしていたヴィクトリア女王もパーマストンの組閣を認めざるを得なかった。

首相就任以後

パーマストンが正式に首相に就任したのはセバストポリの攻囲戦の最中の1855年2月であった。セバストポリ要塞の陥落後もクリミア戦争を続けてイギリスに有利な状況で戦争を終わらせたかったがフランスのナポレオン3世はこれ以上の戦争の継続を望まなかったのでパリ条約に同意して戦争終結(1856年)。首相就任と同時に時代遅れになっていた陸軍の機構改革にも着手する。パーマストンはクリミア戦争を何とか勝利に導いた功績でガーター勲章を与えられた。

1856年には太平天国の乱に苦しむ清王朝に対してアロー号事件をきっかけに開戦を決意するが下院でコブデンらが反対の決議をしたのでパーマストン首相は下院を解散。選挙で勝利して国民の支持を得た後にナポレオン3世を誘って再度清国を攻撃(第二次アヘン戦争)。1858年天津条約1860年北京条約を締結。1857年から1858年のセポイの反乱を鎮圧してインドを直轄地にする。過激な政治亡命者を取り締まる法案をめぐって議会が紛糾し、一旦は政権の座からおりるが、選挙法をめぐって混乱したダービー政権のあとをついで再び首相の座に就任。

1859年から1860年イタリア統一運動を支持。アメリカの南北戦争には不干渉を維持。シュレースヴィヒとホルシュタインをめぐるデンマークとオーストリア・プロイセンの戦争の調停には失敗した。

1865年10月、風邪をひき高熱に苦しみ、10月18日に首相在任のまま死去。生前、ラムジー修道院(ハンプシャー州)への埋葬を望んでいたが、内閣は国葬を決定。1865年10月27日、ウェストミンスター寺院で国葬にされ、同地に埋葬された。王族でない人物で寺院に埋葬されたのは、彼が3人目であった。

若い頃から名うての女たらしとして知られ、「タイムズ」紙にLord Cupid(キューピッド卿)と揶揄されたこともあった。1839年、長年の愛人エミリー・カウパー(カウパー卿の未亡人、メルボルン首相の妹)と結婚。彼女との間には子供がなく、彼の死後パーマストン子爵家は断絶した。

関連項目

参考文献

  • 君塚直隆『パクス・ブリタニカのイギリス外交――パーマストンと会議外交の時代』(有斐閣, 2006年)
  • 中西輝政『大英帝国衰亡史』(PHP, 1997年)
先代:
アバディーン伯
イギリスの首相
1855年 - 1858年
次代:
ダービー伯
先代:
ダービー伯
イギリスの首相
1859年 - 1865年
次代:
ラッセル伯

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