ビルゲ・テムル

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ビルゲ・テムル(モンゴル語: Bilge Temür,? - 1391年)とは、チンギス・カンの次男チャガタイの子孫で、元末明初に活躍したモンゴル帝国の皇族。漢字表記は豳王列児怯帖木児

概要[編集]

ビルゲ・テムルの先祖豳王チュベイは、チャガタイ・ウルスの内乱から逃れて大元ウルスに居住し、セチェン・カーン(世祖クビライ)からカイドゥ・ウルスに対する最前線の指揮官に抜擢された人物であった。チュベイ以後、その子孫は代々「豳王」と称してハミル一帯を統治し、他のチャガタイ系王家を従えて「チュベイ・ウルス」とでも呼ぶべきゆるやかなまとまりを形成していた。

「豳王」位はチュベイの息子ノム・クリからブヤン・テムルに伝えられ、イリンチンという人物を経てブヤン・テムルの息子ビルゲ・テムルが受け継いだ。ビルゲ・テムルがチュベイ家当主の地位と豳王位を受け継いだ時期は不明であるが、「カラ・ホト文書」には必立傑帖木児大王という名前で登場している[1]

明朝のハミル攻略[編集]

1368年(至元28年、洪武元年)、朱元璋明朝を建国して洪武帝と称し、大元ウルスの首都大都を陥落させたものの、黄河以北の地の大部分はモンゴルの勢力圏に取り残されたままであった。そこで洪武帝はモンゴル遠征と並行して西北方の河西地方(タングート地方)にも出兵し、洪武5年(1372年)には北方ではココ・テムル率いるモンゴル軍に大敗したものの、西方では陝西・甘粛地方を攻略した。

ココ・テムル率いるモンゴル軍に大敗して以来、明朝の対外進出はやや低調であったが、洪武13年(1380年)より西方への進出は再開された。甘粛都督濮英はこの年4月、チュベイの弟トク・テムルを始祖とする柳城王家の軍を急襲して柳城王を捕らえ、ハミルに至る進軍路を確保した[2][3]

濮英は翌月チギンにまで兵を進め、豳王イリンチン(亦憐真)とその配下の者達を捕虜とした[4]。その二ヶ月後に濮英は苦峪に至り、ビルゲ・テムルのボラド・テムル(Bolad Temür)の息子センゲシュリ(Senggeširi/省哥失里)王、アジャシュリ(Aǰaširi/阿者失里)王及びその母を捕虜としたが、直接ハミルを攻撃することなく帰還した[5]。この事件を経てビルゲ・テムルは豳王位を継ぎ、翌1381年にはアラーウッディーン(阿老丁)を使者として明朝に派遣している[6]

この頃、ハミルではビルゲ・テムルの他にビルゲ・テムルのはとこであるグナシリという王族がおり、明朝にも独自に使者を派遣するなどよく知られた人物であった。ハミルは豳王ビルゲ・テムルとグナシリの下で安定しており、それまで西方進出に携わってきた濮英が東方戦線に転属したこともあって独立を保ち続けていた。ところが、洪武21年(1388年)に北元ウスハル・ハーンがブイル・ノールの戦いで大敗し、その後アリク・ブケ家のイェスデルに弑逆されるという事件が起きると、ハミルをめぐる情勢は一変した。

ウスハル・ハーンという後ろ盾を失ったハミル一帯のチャガタイ系諸王家は動揺し、洪武23年(1390年)にはハミルのグナシリが、洪武24年(1391年)には沙州エルケシリが、それまでなかった明朝への朝貢を開始した。ハミルの動揺を察知した明朝はこれにつけ込んでハミルを攻略する決意を固め、同1391年に劉真・宋晟らに命じてハミルを急襲させた。劉真らは涼州よりハミルに至り、夜に乗じてハミルを奇襲し、これを陥落させた。この時グナシリのみは300騎余りの部下とともに逃れたが、豳王ビルゲ・テムルを始めとする多くの者が殺された[7]

チュベイ・ウルス当主[編集]

  1. 豳王チュベイ(Čübei,豳王出伯/Chūbaīچوبی)…アルグの息子
  2. 豳王ノム・クリ(Nom Quli,喃忽里/Nūm qūlīنوم قولی)…チュベイの息子
  3. ノム・ダシュ太子(Nom Daš,喃答失太子/Nūm tāšنوم تاش)…ノム・クリの息子
  4. 豳王クタトミシュ(Qutatmiš,豳王忽塔忒迷失/Qutātmīšقتاتمیش)…チュベイの息子、ノム・クリの弟
  5. 豳王ブヤン・テムル(Buyan Temür,豳王卜顔帖木児/Buyān tīmūrبیان تیمور)…ノム・クリの息子、ノム・ダシュの弟
  6. 豳王イリンチン(Irinǰin,豳王亦憐真/Irinǰinبولاد تیمور?)…ブヤン・テムルの息子?
  7. 豳王ビルゲ・テムル(Bilge Temür,豳王列児怯帖木児/Bilkā tīmūrبلکا تیمور)…ボラド・テムルの息子

脚注[編集]

  1. ^ 杉山2004,263-268頁
  2. ^ 『明太祖実録』洪武十三年四月甲申「都督濮英練兵西涼、襲虜故元柳城王等二十二人・民一千三百餘人、並獲馬二千餘匹。遣使以所獲符印来上」
  3. ^ 『明太祖実録』洪武十三年四月丁亥「都督濮英復請督兵略地、開哈梅里之路、以通商旅。上賜璽書曰、報至、知所獲人畜、略地之請、聴爾便宜、但将以謀為勝、慎毋忽也、所獲馬二千、可付涼州衛」
  4. ^ 『明太祖実録』洪武十三年五月壬寅「都督濮英兵至白城、獲故元平章忽都帖木児、進至赤斤站之地、獲故元豳王亦憐真及其部属一千四百人金印一」
  5. ^ 『明太祖実録』洪武十三年七月甲辰「都督濮英兵至苦峪、獲故元省哥失里王・阿者失里王之母妻及其家属、斬部下阿哈撒答等八十餘人、遂還兵粛州」
  6. ^ 『明太祖実録』洪武十四年五月乙酉朔「哈梅里回回阿老丁来朝、貢馬。詔賜文綺遣往畏吾児之地招諭番酋」
  7. ^ 『明太祖実録』洪武二十四年八月乙亥「命左軍都督僉事劉真・宋晟、率兵征哈梅里。先是、西域回紇来朝貢者、多為哈里梅王兀納失里所阻遏、有従他道来者、又遣人邀殺之、奪其貢物。上聞之、乃遣真等往征之。真等由涼州、西出哈梅里之境、乗夜直抵城下、四面囲之、知院岳山夜縋城降、黎明兀納失里駆馬三百餘匹、突囲而出、我軍争取其馬、兀納失里以家属随馬後遁去。真等遂攻破其城、斬豳王列児怯帖木児・国公省阿朶児只等千四百人、獲王子別列怯部属千七百三十人・金印一・銀印一・馬六百三十匹」

参考文献[編集]

  • 赤坂恒明「バイダル裔系譜情報とカラホト漢文文書」『西南アジア研究』66号、2007年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松村潤「明代哈密王家の起原」『東洋学報』39巻4号、1957年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年