ピエトロ・ヴィエルコウッド
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名前 | ||||||
愛称 | 皇帝 (Zar[1]) | |||||
ラテン文字 | Pietro Vierchowod | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1959年4月6日(61歳) | |||||
出身地 | カルチナーテ | |||||
身長 | 179cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1975-1976 |
![]() | 3 | (0) | |||
1976-1981 |
![]() | 115 | (6) | |||
1981-1995 |
![]() | 358 | (25) | |||
1981-1982 |
→![]() | 28 | (2) | |||
1982-1983 |
→![]() | 30 | (0) | |||
1995-1996 |
![]() | 21 | (2) | |||
1996 |
![]() | 0 | (0) | |||
1996-1997 |
![]() | 16 | (1) | |||
1997-2000 |
![]() | 79 | (6) | |||
代表歴 | ||||||
1982-1993[2] |
![]() | 45 | (2) | |||
監督歴 | ||||||
2001 |
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2002 |
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2005 |
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2014 |
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2018 |
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ピエトロ・ヴィエルコウッド(Pietro Vierchowod, 1959年4月6日 - )は、イタリア・カルチナーテ出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはディフェンダー(センターバック)。
選手経歴[編集]
クラブ[編集]
ウクライナ出身の軍人の父親を持つ[3]。父親は第二次世界大戦の際にドイツ軍の捕虜となりイタリアへと移送されたが戦後もイタリアに留まって生活を送った[1]。ヴィエルコウッドは少年時代は配管工を務めながらサッカーを学んでいた[1]。当時は持ち前の俊足を生かし右ウイングのポジションを務めていたが多くの結果を残すことは出来ず、ディフェンダーに転向することになった[1]。
ASDロマネーゼから1976年にカルチョ・コモへ移籍すると高い身体能力を備えたセンターバックとして活躍し[4]、1981年にUCサンプドリアへ移籍すると出場機会を求めてフィオレンティーナやASローマへ期限付き移籍をしてプレーをした[1]。ローマではファルカンやブルーノ・コンティらとともに1982-83シーズンのスクデット獲得に貢献した[1]、イタリアのスポーツ誌 Guerin Sportivoが選ぶシーズン最優秀選手賞にも選ばれた[5]。
1983年にサンプドリアで出場機会を得ると12シーズンにわたって在籍するなど選手時代の大半を過ごし、ヴヤディン・ボシュコヴ監督の下でジャンルカ・ヴィアリやロベルト・マンチーニらとともに1990-91シーズンのセリエA初優勝、1989-90シーズンのUEFAカップ初優勝、1991-92シーズンのUEFAチャンピオンズカップ準優勝などに貢献した[1]。サンプドリアでプレーを続けた理由についてヴィエルコウッドは会長のパオロ・マントヴァーニに「7位や8位に留まるクラブなら私は興味ない、私はこのチームでUEFAチャンピオンズカップでプレーしたいのだ」と応えたところ会長もそれに応じて強化を進めたためだという[1]。またヴィエルコウッドに対して1990年にACミランから獲得のオファーが届いた際にはマントヴァーニ会長やチームメイトに全てを話し残留をするなど、チーム内は友好的関係にあったという[1]。
1995年にユヴェントスFCへ移籍し[1]、サンプ時代の同僚であるヴィアリと再びチームメートとなり、1995-96シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝では先発し、アヤックスの攻撃を抑え、優勝にに貢献した。その後はACミランやピアチェンツァといったクラブを渡り歩き40歳を超えた後も現役を続けた。2000年にセリエA通算562試合出場(歴代4位)の記録を残し41歳で現役引退した。
イタリア代表[編集]
イタリア代表としては1981年1月16日に行われたオランダとの国際親善試合でデビューした[2]。1982 FIFAワールドカップの代表メンバーにも選ばれ最終的にイタリアが優勝を成し遂げたが試合出場はならなかった[2]。この大会後に代表に定着し1986 FIFAワールドカップでは全4試合に出場。その後は代表メンバーから遠ざかっていたが地元開催となった1990 FIFAワールドカップの直前に復帰を果たし3試合に出場した[2]。1993年5月1日に行われた1994 FIFAワールドカップ・予選のスイス代表戦で代表から退くまでに国際Aマッチ45試合に出場し2得点を記録した[2]。
評価[編集]
マラドーナはとても高く評価していて、自身の本で、「インターセプトの名人で、足技は脅威。猟犬タイプだが、岩の壁の様であり、すごい勢いでボールを奪うと味方に正確なパスを繋いでいた。またマークも一流であった」と回想していた[3]。
引退後[編集]
引退後は指導者として2001年にセリエC1のカルチョ・カターニア、2002年にセリエC2のフロレンティナ・ヴィオラ(後のACFフィオレンティーナ)と2005年にセリエBのUSトリエスティーナの指揮を執ったが、いずれも成績不振により解雇された。
2014年6月13日、ハンガリーのブダペスト・ホンヴェードFCの監督に就任したが[6]、リーグ戦では10試合を消化した時点で3勝1分6敗と低迷し、同年10月6日に解任された[7]。
個人成績[編集]
代表での成績[編集]
- 出典[2]
イタリア代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1981 | 2 | 0 |
1982 | 0 | 0 |
1983 | 4 | 0 |
1984 | 9 | 0 |
1985 | 5 | 0 |
1986 | 7 | 0 |
1987 | 0 | 0 |
1988 | 0 | 0 |
1989 | 0 | 0 |
1990 | 7 | 1 |
1991 | 6 | 0 |
1992 | 0 | 0 |
1993 | 5 | 1 |
通算 | 45 | 2 |
脚注[編集]
- ^ a b c d e f g h i j “Era ieri, sembra una vita fa I ricordi di "Zar" Vierchowod”. Gazzetta dello Sport (2008年4月25日). 2014年7月5日閲覧。
- ^ a b c d e f “Pietro Vierchowod - International Appearances”. The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. 2014年7月5日閲覧。
- ^ a b マラドーナ 独白 第4章マンマミーア p.133-134
- ^ “No.299「シニア」にサッカーの場を”. サッカーの話をしよう 大住良之オフィシャルアーカイブサイト (2000年1月26日). 2014年7月5日閲覧。
- ^ Guerin d'Oro-Italy - Footballer of the Year
- ^ “Vierchowod torna ad allenare: la storica Honved di Budapest”. La Gazzetta dello Sport (2014年6月13日). 2014年7月5日閲覧。
- ^ “Kirúgták a Honvéd edzőjét”. sportgeza.hu (2014年10月6日). 2014年11月2日閲覧。
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