ファニー・ホワイト

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ファニー・ホワイトの彫版画

ファニー・ホワイト (Fanny White, 1823年3月22日 - 1860年10月12日)は、別名ジェーン・オーガスタ・ブランクマン(Jane Augusta Blankman)、アメリカ合衆国の、南北戦争前の、最も成功した高級娼婦のひとりである。その美貌、機知、商才で知られ、ファニー・ホワイトは、生涯でかなりの財産を蓄積し、30歳代で中流階級の弁護士と結婚し、その1年後に急死した。彼女は毒を盛られたという噂は、公衆の抗議を引き起こし、そのために死因審問を余儀なくされた。

前半生[編集]

ジェーン・オーガスタ・ファンク(Jane Augusta Funk)は、1823年3月22日、ニュー・ヨークのオトシーゴー郡(Otsego County)のチェリー・ヴァレー(Cherry Valley)に、農夫ジェーコブ・ファンクとジェーン・B・ファンクと(Jacob and Jane B. Funk)の長女として生まれた。[1] [2] ジェーンが8歳であったときに母が死亡し、1847年に父が死亡した。[3] 彼女は基礎教育を受け、本好きな少女と見なされていた。[1]

17歳または18歳でジェーンは「誘惑者の犠牲になった。」[4] [5] 「誘惑者」(seducer)とは、純真な若い女性たちを、しばしば婚約をもって誘惑し、結局は捨てる年上の男性であった。「誘惑され捨てられた」女性たちは、堕落したと見なされ、中流のヴィクトリア朝ふうの社会によって避けられた。[6] 伝えられるところによれば、1800年代前半のニュー・ヨークでは、誘惑は、経済的動機、「傾向」に次ぐ、売春の共通「原因」の第3位であったし[7] 、倫理改革者によって社会問題と見なされた。[6] [8]

1842年秋に、ジェーンはニュー・ヨーク・シティの、兄のジョン・H・ファンクのもとに行ったが、彼は6年早くそこに移っていた。[4] [9] [10]ジェーンの夫はのちに、ジョン・ファンクを、自分の堕落した妹を助けようとしなかったことで非難することになる。[11] ジェーンは、自活するためにホテルの下賤な仕事を見つけた。[4] 1843年、ファンクは「チャーチ・ストリート120番地の売春の家」に加わり、そこで彼女はファニー・ホワイト(Fanny White)という職業名を使った。

経歴[編集]

南北戦争前のニュー・ヨークでは、大部分の売春宿は女性が所有し、かつ経営した。[12] 平均的な娼婦は21歳より前に稼業を始め、4年間、続けた。[13] 大部分はパートタイムで働き、30歳を過ぎて続ける者は少なかった。[14] [15] 多くは結核または梅毒にかかった。[16]

ファニー・ホワイトには、逆境を克服する商才と幸運があった。チャーチ・ストリート120番地で働き始めた数ヶ月のち、ホワイトは、ナショナル・シアター近くの、ウェスト・ブロードウェイに面したジュリア・ブラウン(Julia Brown)のよりよい売春宿に移った。[17] 1847年までに、24歳のファニー・ホワイトは、かつて自分が働いたチャーチ・ストリート120番地の売春宿を経営中であった。[18]

また1847年までに彼女は弁護士でタマニー・ホールの兄弟のダニエル・シックルズに会った。[19] ファニーのところの職員は、シックルズはファニーの「男(man)」であると見なしていた。[19] 19世紀の娼婦は一般に、彼女らがロマンチックに愛着する「男」(man)あるいは「友人(friend)」がいた。[20]娼婦の愛人は普通は、娼婦の愛情の代価を払わなかったが、シックルズはホワイトに宝石類や金銭を惜しみなく贈った。[21]

1851年にホワイトは、マーサー・ストリート(Mercer Street)119番地の建物を購入し、[22] 控えめな高級売春宿として必要な支度を整えた。「彼女の客は、商人、議会人、ニュー・ヨーク訪問中の外交団に属する人々であった。」[1] ホワイトは警察と良好な関係を注意深く保ったので、彼女のところは官憲当局の注目を避けることになる。[1]

しかしながら、彼女のダニエル・シックルズとの思慮分別のない関係は、かなりの注目を引いた。シックルズは1847年にニュー・ヨーク州議会議員に選ばれたのち、ファニーをオールバニーにある自分のホテルに連れて行き、そこで朝食のテーブルを囲む招待客たちに彼女を紹介してうろたえさせた。[23] 彼はファニーを連れて州議会を訪問したが、この行動で彼はホイッグ党によって譴責された。[23] またある晩、彼らふたりは、ファニーは不法に男装して町に出かけたが、結局は、獄中でその夜を過ごした。[24] シックルズが、 友人のアントニオ・バジョリ(Antonio Bagioli)の名前を使って、ファニーのマーサー・ストリートの売春宿を譲渡抵当に入れる手筈をとったたことは、ほぼ確実である。[25] ファニーが自分自身の稼ぎ高をシックルズの選挙運動に寄付しているという噂は、彼の政治人生が終るまで彼につきまとうことになる。[25][26]

1852年9月、シックルズは16歳のテレザ・バジョリと急いで結婚した。[27] ファニーは腹を立てて、彼の後をつけてあるホテルに行き、乗馬用の鞭で彼を襲ったと噂された。[28] しかし1853年8月、シックルズが駐英大使ジェームズ・ブキャナンの書記官としてイングランドに旅行したとき、ファニーは夫人の代わりに彼に同行した。[29] ある出典は、シックルズが彼女の旅券の手筈をとったと主張する。[28] 売春宿のおかみ仲間であるケート・ヘースティングス(Kate Hastings)は、ファニーの留守中に、彼女の売春宿を経営するために彼女のマーサー119番地に移った。[22]

イングランドでは、ファニーは公然とシックルズに同行して劇場、オペラ劇場、外交行事に行った。[30] 大部分の出典が一致するところによれば、バッキンガム宮殿での歓迎会でファニー・ホワイトがヴィクトリア女王にカーテシーをし、そこでシックルズは彼女を「ニュー・ヨークのミス・ベネット」と紹介した。[31]

歴史学者らの憶測によれば、ファニーはシックルズを説得して自分を紹介させ、またシックルズはさらに、君主政体と『ニュー・ヨーク・ヘラルド』の編集者ジェームズ・ゴードン・ベネット・シニア(James Gordon Bennett, Sr.)との両者に対する強い嫌悪感に動機づけられていた。[30] [31] ヴィクトリア女王が真相をまったく知らなかったことは明らかであるが、ベネットは彼の名前の使用に激怒した。[31] しかしながら、『The Life and Death of Fanny White』は、ホワイトはヨーロッパに向けて発つ前に合法的に名前を変えたと主張する。[28] 1853年以降、ファニー・ホワイトは、銀行為替手形や業務契約書に「J・オーガスタ・ベネット(J. Augusta Bennett)」という名を書いた。[32] [33]

テレサ・バジョリ・シックルズが1854年春にロンドンに着いたとき、ファニー・ホワイトは発った。[34] ある出典によれば、ホワイトは大陸旅行をした--彼女は「パリ、バーデン=バーデン、ウィーン、その他の興味深い、流行の、貴族的な、行楽地を訊ねた」し[28] 、酒に酔って大騒ぎを演じたのち、憲兵によってパリ、オペラ座から排除された--その年後半にニュー・ヨークに帰った。[28] ニュー・ヨークに戻ってホワイトは、セイト・ニコラス・ホテル(St. Nicholas Hotel)の背後に2つ目の売春宿を開業し、[28]またマーサー・ストリート119番地の経営を再開した。

1856年までにファニー・ホワイトは、裕福でずっと年上のジェーコブ・ラトガース・ルロイ(Jacob Rutgers LeRoy)の4輪馬車に乗ってニュー・ヨークじゅうを走っているところを見られたが、彼はニュー・ヨーク州西部のトライアングル・トラクトのルロイ家のひとりであった。[35] [36] 1856年に、彼女はまた、マーサー・ストリート119番地の経営をクララ・ゴードン(Clara Gordon)に譲渡し、自分は「女性の下宿人」2人とともに12番街108番地に所有する家屋に移った。[22] [37] [38]

ジェーン・オーガスタ・ブランクマンの改心[編集]

1857年ころ、ファニー・ホワイトは、7歳年下の刑事被告人専門弁護士であるエドモン・ブランクマン(Edmon Blankman)に会った。 ふたりは1859年に結婚し、ファニー・ホワイトはジェーン・オーガスタ・ブランクマンになった。[39] 結婚当時、「彼女は、5,000ドルの年金と、男性の友人によって、伝えられるところによれば、彼女に与えられた不動産の区画のほかに、市内に、申し立てによれば、求婚者たちからの贈り物である幾つかの家屋を所有していると言われた。」[22]

ジェーン・オーガスタ・ブランクマンは自分の家族には気前が良かった。1856年に彼女は、兄弟ジョンが所有する家屋の終身賃貸借契約でジョンに2,500ドル払い、それを未亡人であり姉妹であるミセス・イライザ・ウィリアムズ(Mrs. Eliza Williams)に与えた。[9] ジェーンは、ブルックリンのグリーン=ウッド墓地にファンク家の区画を購入する金銭の半分を寄付した。ジェーンは、弟ハイラム・ファンク(Hiram Funk)がレザレート火災保険会社(Resolute Fire Insurance Company)の検査官としての地位を入手し得るだけの株を買ってやった。[11] [40] 彼女は、姪リリアン・ベネット(Lillian Bennett)の養育を手伝い、その学校通学の費用を負担した。[41] 彼女は、自分と新夫がブランクマン夫妻として住む流行の財産を西34番街49番地に所有していた。[37] [42] しかしながら、エドモン・ブランクマンが、正式に財産を譲渡することを署名して承認するように彼女に求めたとき、彼女はそれを拒んだ。ある友人が理由を訊ねると、ジェーンは、伝えられるところによれば、こう答えた、「わたしはそんな愚か者ではない」、「姪と親密な関係を持とうとしている[エドモン]に関して疑惑が生じて以来ずっと、彼に対する信頼をすべて失っている」と。

論議を呼ぶ彼女の死[編集]

1860年10月12日、ジェーン・オーガスタ・ブランクマンは自宅で急死した。[39] [41] 彼女は37歳であったし、知られた子はひとりも居なかった。夫が彼女の財産を入手するために彼女に毒を盛ったという噂がただちに生まれた。兄弟は、検死解剖がフィネル(Finnell)医師とサンズ(Sands)医師によってなされるように手筈をとったが、彼らはジェーン・ブランクマンは卒中で死亡したと結論づけた。[2] [42] 彼女の死体は氷詰めにされ、埋葬されるためにグリーン=ウッド墓地に運ばれた。[9]

しかし10月16日、毒を盛られたという途切れないうわさが動機となって市検視官シャーマー(Schirmer)と地区首席検察官ウォーターベリー(Waterbury)は、彼女の遺物をベルヴュー・ホスピタル・センター(Bellevue Hospital Center)で再検査するように命令した。[42] [43] 3日間にわたる死因審問は有名な裁判事件となって、『ニュー・ヨーク・タイムズ』紙上で報道された。

ジェーン・ブラックマンの死体を再検査した医師団は、心血管疾患と広範囲な脳内出血の症状のほかに、結核と梅毒の曝露の徴候を報告したが、しかし毒を盛られたという徴候は見出さなかった。『The Life and Death of Fanny White』は、彼女を「虚弱」と記述するが、彼女の死亡を宣告した医師は彼女を「すこぶる頑丈」と記述した。[41]

1860年10月20日、検視官は、卒中による死亡という評決を確認した。[41][42] 彼女の同胞(きょうだい)たちは「ジェニー」をファンク家の区画に埋葬することを欲したが、ジェーン・オーガスタ・ブランクマンの遺物は1861年3月25日、ブルックリンのグリーン=ウッド墓地のブランクマン家の区画に埋葬された。[9] [44]

「彼女の財産の全価値は、彼女の死の時点で、50,000ドルから100,000ドルまでさまざまに評価された、」[45] --すなわち、2010年現在で、1,000,000ドルから2,000,000ドルまで--が、しかしそれは、真の価値の過小評価であったかもしれない。[46] エドモン・ブランクマンによって提示された遺言書において、ジェーンはほとんどすべての財産を夫に遺した。 彼女の同胞(きょうだい)たちは、それは彼女の死後、夫によって偽造されたと主張して、遺言書に異議を唱えた。[47] 1861年6月26日、幾月かの苛烈な証明ののち、遺言書検認判事ウィリアム・H・フリーランド(William H. Freeland)はエドモン・ブランクマンの勝訴とした。[48] ジェーンの同胞(きょうだい)たちは上訴したが、ニュー・ヨーク最高裁判所は9月後半に評決を支持した。[49] エドモン・ブランクマンは1861年10月、妻の財産を換金し始めた。[50]

注釈[編集]

  1. ^ a b c d Life and Death, p. 5.
  2. ^ a b “Sudden Death of a Notorious Woman”, ‘’The New York Times’’, October 18, 1860
  3. ^ Cherry Valley Cemetery
  4. ^ a b c Life and Death, p. 6
  5. ^ Sanger, p. 454.
  6. ^ a b Sanger, p. 495
  7. ^ Sanger, p. 488.
  8. ^ Hill, pp. 140-141.
  9. ^ a b c d “The Blankman Will Case Testimony of John H. Funk.”, ‘’The New York Times’’, March 5, 1861
  10. ^ Bungay, p. 25.
  11. ^ a b “The Blankman Will Case.”, ‘’The New York Times’’, February 19, 1861
  12. ^ Hill, pp. 24-25.
  13. ^ Sanger, p. 455.
  14. ^ Sanger, pp. 252.
  15. ^ Hill, pp. 91-95.
  16. ^ Hill, pp. 232-234.
  17. ^ Hill, p. 104.
  18. ^ Hill, p. 104.
  19. ^ a b Kenneally, p. 16
  20. ^ Hill, p. 269.
  21. ^ Swanberg, p. 83.
  22. ^ a b c d Hill, p. 102.
  23. ^ a b Kenneally, p. 17.
  24. ^ Life and Death, p. 7
  25. ^ a b Hill, p. 281.
  26. ^ Swanberg, p. 339.
  27. ^ Swanberg, p. 86.
  28. ^ a b c d e f Life and Death, p. 8.
  29. ^ Kenneally, pp. 1-3.
  30. ^ a b Kenneally, p. 38.
  31. ^ a b c Swanberg, p. 92.
  32. ^ “Surrogate’s Court.; The Blankman Will Case Continuation of Contestants’ Testimony”, ‘’The New York Times’’, February 28, 1861
  33. ^ “Surrogate’s Court.; The Blankman Will Case Contestants’ Testimony Continued.”, ‘’The New York Times’’, March 2, 1861
  34. ^ Swanberg, p. 93.
  35. ^ Hill, p. 282.
  36. ^ Belluscio.
  37. ^ a b “Law Reports; Court Calendar This Day. Surrogate’s Court.”, ‘’The New York Times’’, March 4, 1861
  38. ^ 「女性の下宿人」は、娼婦たちであった。
  39. ^ a b Life and Death, p. 13.
  40. ^ Costello.
  41. ^ a b c d “The Case of Mrs. Blankman.; Verdict”, ‘’The New York Times’’, October 22, 1860
  42. ^ a b c d Life and Death, p. 14.
  43. ^ “The Case of Mrs. Blankman.; A Second Post-Mortem”, ‘’The New York Times’’, October 22, 1860
  44. ^ Green-Wood Cemetery National Historic Landmark
  45. ^ Life and Death, p. 16.
  46. ^ Hill, p. 103
  47. ^ “Surrogate’s Court.; The Will of Fanny White.”, ‘’The New York Times’’, December 11, 1860
  48. ^ “Mrs. Blankman’s Will Sustained.”, ‘’The New York Times’’, June 27, 1861
  49. ^ “The Surrogate’s Decision in the Blankman Will Case Affirmed.”, ‘’The New York Times’’, September 23, 1861
  50. ^ “Auctions – Sales, p. 7”, ‘’The New York Times’’, October 28, 1861

参考文献[編集]