フアナ・ラ・ベルトラネーハ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョアナ・デ・トラスタマラ
Joana de Trastâmara
ポルトガル王妃
Joana, a Excelente Senhora - The Portuguese Genealogy (Genealogia dos Reis de Portugal).png
在位 1475年5月30日 - 1481年8月28日
別称号 アストゥリアス女公
カスティーリャ女王(王位請求者)

別称 フアナ・ラ・ベルトラネーハ
Juana La Beltraneja
出生 1462年2月21日
Estandarte del Reino de Castilla.svg カスティーリャ王国マドリード
死去 (1530-04-12) 1530年4月12日(68歳没)
Flag of Portugal (1521).svg ポルトガル王国リスボン
配偶者 ポルトガル王アフォンソ5世
家名 トラスタマラ家
父親 カスティーリャ王エンリケ4世
母親 フアナ・デ・ポルトゥガル
宗教 ローマ・カトリック
テンプレートを表示

フアナ・ラ・ベルトラネーハJuana La Beltraneja, 1462年 - 1530年)は、カスティーリャエンリケ4世と2番目の王妃フアナポルトガルドゥアルテの娘)の一人娘。正式にはフアナ・デ・カスティーリャJuana de Castilla)であるが、フアナ・ラ・ベルトラネーハと呼ばれることの方が圧倒的に多い。ポルトガル名は、ジョアナ・デ・トラスタマラ(Joana de Trastâmara)。

生涯[編集]

マドリードでの出世時から醜聞がフアナについてまわった。エンリケ4世は最初の妃ブランカとは子供をもうけることなく離縁し、2人目の妃フアナにもなかなか子供が産まれず、性的不能者ではないかと囁かれていた。そのため、王妃フアナはカスティーリャ貴族ベルトラン・ラ・クエバを連れ込んで妊娠したのであり、王女はエンリケの子ではないと思われていた。揺りかごの中にいた頃から、フアナは「ベルトランの子」という意味で「ラ・ベルトラネーハ」と呼ばれていたのである。

のち、王妃フアナは司教フォンセカの甥の元へ走り、彼の子供を2人生んだ。このため、エンリケは彼女も離縁したが、正嫡かどうかは不問のままフアナ・ラ・ベルトラネーハを自身の一人娘として後継者に指名し、カスティーリャ貴族に女王として仕えるよう命じた。この決定に異を唱える貴族は多く、エンリケの異母弟でフアナの叔父にあたるアルフォンソ王子、次いでその姉イサベル王女(のちのイサベル1世)が推された。エンリケが1474年に死ぬとイサベルを支持する勢力が拡大し(フアナの実父とされるベルトランもイサベル支持者であった)、後ろ盾のないフアナは母方の叔父であるポルトガル王アフォンソ5世の元へ救援を求めた。

アフォンソは1475年にフアナと結婚し、翌1476年にカスティーリャへ侵攻した。しかし、トーロの戦いでイサベルと夫フェルナンド5世(のちのアラゴンフェルナンド2世)の軍に敗退した。アフォンソはフランスルイ11世と同盟の交渉をしたが、失敗に終わった。1479年、アフォンソはカトリック両王の王位の正統性を認める和議に調印した。ほどなくアフォンソとフアナの結婚は、ローマ教皇シクストゥス4世により、近親婚を理由に無効とされた。正統性を否定されたフアナは修道院に送られ、リスボンで死んだ。死ぬまで手紙には La Reina(クイーン)と署名していたという。

先代:
エンリケ4世
アストゥリアス女公
1462年 - 1464年
次代:
アルフォンソ