フィオレンティーナ

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フィオレンティーナ
原語表記 ACF Fiorentina SpA
愛称 Viola、Gigliati
クラブカラー
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創設年 2002年
所属リーグ レガ・カルチョ
所属ディビジョン セリエA
ホームタウン フィレンツェ
ホームスタジアム
Tifosi fiorentina.jpg
スタディオ・アルテミオ・フランキ
収容人数 47,495
代表者 イタリアの旗 アンドレア・デッラ・ヴァッレ
監督 イタリアの旗 チェーザレ・プランデッリ
公式サイト 公式サイト
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チームカラー
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チームカラー
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チームカラー
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チームカラー
チームカラー
ホームカラー
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チームカラー
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チームカラー
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チームカラー
チームカラー
チームカラー
アウェイカラー
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チームカラー
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チームカラー
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チームカラー
チームカラー
チームカラー
サードカラー
 サッカークラブPJ

ACFフィオレンティーナACF Fiorentina SpA 以前の名称としてAssociazione Calcio FiorentinaおよびFlorentia Viola)は、イタリアトスカーナ州フィレンツェを本拠地とするサッカークラブである[1]

目次

解説

クラブカラーからヴィオライタリア語で「紫」)の愛称で呼ばれる。また、フィレンツェ市のシンボルである百合の紋章からジリアーティイタリア語で「百合の人」)とも呼ばれる。

クラブの全盛期にはリーグ戦、コッパ・イタリア、カップウィナーズ・カップなどで優勝を経験するなど、インテル、ミラン、ユヴェントス、ASローマなどのトップグループに次ぐ強豪クラブとして確固たる地位を築いた。

1990年代中期以降もガブリエル・バティストゥータマヌエル・ルイ・コスタらを擁して上位に食い込んだ。

なお、日本にもフィオレンティーナのサポーターは多く、クラブ公認サポーターズクラブ「ヴィオラクラブ・ジャパン」も存在している。

沿革

創設から最初の全盛期まで

フロレンティア・ヴィオラ時代の紋章

旅先のイングランドで観たサッカーに魅了された創設者のルイジ・リドルフィ伯爵は、パレストラ・ジンナスティカ・リベルタス (Palestra Ginnastica Libertas) とクラブ・スポルティーヴォ・フィレンツェ (Club Sportivo Firenze) というフィレンツェの2つのサッカークラブを合併させて、1926年8月26日ACフィオレンティーナ (Associazione Calcistica Fiorentina)を創設した。初期のクラブカラーは紫ではなく、フィレンツェの市章と同じ赤と白のシャツを着ていた。[2][3]

1930-1931シーズンのセリエBで優勝して、[4]1931-1932シーズンよりセリエAに参加。1930年W杯優勝メンバーだったウルグアイ人FWペドロ・ペトローネがリーグ得点王となる活躍を見せ、セリエA初年度は18チーム中4位に食い込んだ。[5]1931年9月13日にはホームスタジアムのスタディオ・アルテミオ・フランキ(当時はスタディオ・ジョヴァンニ・ベルタと呼称)が開場した。1938-1939シーズンにセリエBへと降格したが、1シーズンでセリエAに復帰。1939-1940シーズンのコッパ・イタリアではジェノアを決勝で破り、クラブ初タイトルを獲得した。

1950年代から1960年代にかけてクラブは全盛期を迎えた。初めてスクデットを獲得した1955-1956シーズンは2位のACミランに勝ち点12差をつけての独走優勝だった。[6]1956-1957シーズンにはUEFAチャンピオンズカップで準優勝(優勝はレアル・マドリード)。1960-1961シーズンにはUEFAカップウィナーズカップで優勝したが、これはイタリアのクラブにとって最初の欧州タイトルでもあった。

チェッキ・ゴーリ時代

クラブの英雄バティストゥータ
ルイ・コスタ

1980年にクラブを買収した宅建業者のフラヴィオ・ポンテッロは、1990年に若き人気選手ロベルト・バッジョをライバルユヴェントスに売却したことでティフォージから大きな批判を浴びつつオーナーの座を追われた。[3][2]クラブ経営は映画王のマリオ・チェッキ・ゴーリが引き継いだが、補強に失敗して1993-1994シーズンに54年ぶりにセリエBへ降格した。[7]マリオの没後は息子のヴィットーリオ・チェッキ・ゴーリが会長に就任した。

セリエB降格でもクラブを離れなかったアルゼンチン人FWガブリエル・バティストゥータの活躍もあり、1年でセリエAに復帰した。1990年代中盤以降はバティストゥータとポルトガル人ゲームメーカーのマニュエル・ルイ・コスタらを擁して上位に食い込んだ。1998-1999シーズンはシーズン前半を首位で折り返すも、最終的には首位から勝ち点差14の3位に終わった。[8]

経営破綻と4部降格

1990年代後半における放漫経営の結果、2000年代に入ると主力選手を次々に放出し成績は下降する。2000-2001シーズンは9位、2001-2002シーズンは17位となり、2002年夏には親会社が破綻。クラブは2002年に4部リーグ(セリエC2)に強制降格された。この結果、クラブは消滅し、「フィオレンティーナ」の名称の使用権も旧クラブの債権者に渡ってしまう。しかしフィレンツェ財界とティフォージたちは新会社「フィオレンティーナ1926」を設立して新チーム「フロレンティア・ヴィオラ」を結成(フロレンティアはフィレンツェの古称である)。フィオレンティーナ再建に取り組んだ。クラブの新オーナーには革靴ブランド企業家のディエゴ・デッラ・ヴァッレが就任した。

名門復活

フロレンティア・ヴィオラは2002-2003シーズン、主将アンジェロ・ディ・リービオとエースストライカーのクリスティアン・リガノを中心に戦い、首尾良くセリエC2を優勝。2003年には「フィオレンティーナ」の商標権を入札により250万ユーロで獲得し、2003-2004シーズンからは再びフィオレンティーナとして戦うことになった。また特例によりこのシーズンは3部ではなく2部のセリエBに編入された。[9]

いきなり2つ上のリーグで戦うことになったフィオレンティーナは苦戦するも、リガノの得点力はセリエBでも群を抜いており(後に彼はセリエAでも通用することを証明する)、なんとかセリエA下位クラブとのプレーオフ権が与えられる6位を確保。プレーオフではリガノとディ=リーヴィオが故障で出場出来ないという危機的状況であったが、ACペルージャを見事に下して2年ぶりの1部リーグ(セリエA)復帰を決定した。

セリエA復帰とカルチョ・スキャンダル

2000年代中盤の躍進を演出したプランデッリ監督
2005-2006シーズンに得点記録を樹立したルカ・トーニ
トーニ移籍後のエースストライカー、ムトゥ

2004-2005シーズンには中田英寿マルティン・ヨルゲンセントマーシュ・ウイファルシジョルジョ・キエッリーニファブリッツィオ・ミッコリエンツォ・マレスカなどの有力選手を一気に獲得してセリエAを戦ったが、急造チーム故なかなか勝ち点を獲得することが出来ず、シーズンを通して残留争いをすることとなる。実はこの苦戦の裏には、ユヴェントスのオーナーが仕掛けた審判による八百長、いわゆるカルチョ・スキャンダルが存在していた(八百長に加わらないクラブに対しては不利な判定を下すというもの)。また、大型補強により加わった新加入の外国人選手達と、それにより出場機会を奪われたセリエB時代からクラブを支えていたと自負する一部のイタリア人選手達との間に軋轢が生じ、ロッカールームの空気も纏まりにかけるものであった。結果、フィオレンティーナは最終戦で勝たなければ再び降格という所まで追い詰められたが、アルテミオ・フランキで開催されたシーズン最終戦ではディ=リーヴィオの獅子奮迅の活躍などもあり、劇的な残留を決めることとなった。このシーズンは16位でセリエAを終える。

2005-2006シーズンには、前年度の低迷を受けクラブは幹部の大刷新を行う。オーナー兼、会長であったディエゴ・デッラ・ヴァッレは名誉会長に退き、実際的なクラブの舵取りは、副会長であった弟のアンドレア・デッラ・ヴァッレに譲りアンドレアが会長に就任した。また当時USレッチェの躍進を支えていたパンタレオ・コルヴィーノを新たにスポーツディレクターに迎え、夫人の看病のために監督業を休業していたチェーザレ・プランデッリを新体制の監督として招聘した。クラブのプロジェクトも中長期的なものに変更し、2010年以降にスクデット(リーグ優勝)を狙える「有望な若手選手と共に成長するクラブ」をスローガンとした。新体制の幹部は前年度に造反したとされる選手達を格安で放出し、新たにルカ・トーニステファノ・フィオーレクリスティアン・ブロッキセバスティアン・フレイなどのベテラン選手やプランデッリ監督の元教え子を集め、また無名の有望選手を発掘することに長けたコルヴィーノはアレッサンドロ・ガンベリーニリッカルド・モントリーヴォマヌエル・パスクアルらの若手選手に投資した。このシーズンは前年に獲得した選手たちが漸くまとまってきたことに加え、新加入のストライカーのルカ・トーニの大活躍もあってクラブは躍進し、チャンピオンズリーグ出場権が与えられる4位となる。

しかしシーズン後には、ユヴェントスACミランラツィオと同様に、セリエAの八百長問題に関わったとして糾弾され、2006年7月14日に「セリエB降格および勝ち点-12点からのリーグ戦開始」との判決が下される。クラブはこの判決を不服として控訴し、同年7月25日の控訴審判決において、セリエA残留で2006-2007シーズンは-19点からのスタート、2005-2006シーズンの勝ち点-30点の判決が下った(カルチョ・スキャンダルの項を参照)。この判決に反発した一部サポーターが暴徒化し、フィレンツェ周辺の鉄道を一時不法占拠する事態にも発展したが、結局クラブはチャンピオンズリーグ出場権を失うこととなった。またユヴェントスとの因縁は更に深まった。

カルチョ・スキャンダルを超えて

勝ち点の大幅剥奪から始まった2006-2007シーズンであったが、トーニの破壊力は健在であり、クラブは連戦連勝、勝ち点剥奪が無ければチャンピオンズリーグ圏内のリーグ3位(最終順位は5位)というシーズンとなった。またシーズン中にレギュラーポジションを獲得し成長したアレッサンドロ・ガンベリーニやゴールキーパーのセバスティアン・フレイを中心とした守備陣も奮闘し、チームはリーグ最小失点でシーズンを終えた。トーニはこのシーズン限りでバイエルン・ミュンヘンに去ったが、長い放浪の末フィオレンティーナで嘗ての輝きを取り戻したアドリアン・ムトゥチェーザレ・プランデッリ監督着任以降じっくりと育ててきた若手のジャンパオロ・パッツィーニリッカルド・モントリーヴォがクラブの屋台骨を支える存在へと成長し[10]、2007-2008シーズンはリーグ戦4位、UEFAカップ準決勝進出というセリエA復帰後最高の成績で終わった。

2008-2009シーズンはUEFAチャンピオンズリーグに出場するにあたり、クラブは大型補強を敢行する。アルベルト・ジラルディーノステヴァン・ヨヴェティッチフアン・マヌエル・バルガスフェリペ・メロなどの高額移籍金選手に投資した。かつての恩師の下で復活を果たしたジラルディーノや、ブラジル代表に初選出されるほどの存在感を示したフェリペ・メロら新戦力の活躍もあり、チャンピオンズリーグとの二足の草鞋にも耐え2年連続でリーグ戦を4位で終える。その一方で大型補強の煽りを受け出場機会を減らした若手選手が不満を訴え、クラブはパッツィーニやパブロ・ダニエル・オスヴァルドらの有望若手選手数人を手放すことになる。9シーズン振りに参加したチャンピオンズリーグでは予備予選を勝ち抜き本大会に出場するが、強豪バイエルン・ミュンヘンオリンピック・リヨンらに退けられ、グループリーグで敗退した。

タイトル

本拠地であるスタディオ・アルテミオ・フランキの正門

国内タイトル

国際タイトル

所属選手

現在の所属選手

トップチーム

No. Pos. 選手名
1 フランスの旗 GK セバスティアン・フレイ
2 デンマークの旗 DF ペア・クロルドルップ
4 イタリアの旗 MF マルコ・ドナデル副主将
5 イタリアの旗 DF アレッサンドロ・ガンベリーニ
6 ペルーの旗 DF フアン・マヌエル・バルガス
8 モンテネグロの旗 FW ステヴァン・ヨヴェティッチ
10 ルーマニアの旗 FW アドリアン・ムトゥ
11 イタリアの旗 FW アルベルト・ジラルディーノ
14 イタリアの旗 DF チェーザレ・ナターリ
15 イタリアの旗 MF クリスティアーノ・ザネッティ
16 ブラジルの旗 DF フェリペ
18 イタリアの旗 MF リッカルド・モントリーヴォ主将
No. Pos. 選手名
19 イタリアの旗 MF マッシモ・ゴッビ
21 セネガルの旗 FW クマ・エルハジ・ババカル
22 セルビアの旗 MF アデム・リャイッチ
23 イタリアの旗 DF マヌエル・パスクアル
24 アルゼンチンの旗 MF マリオ・サンターナ
25 イタリアの旗 DF ジャンルカ・コモット
28 アルゼンチンの旗 MF マリオ・ボラッティ
29 イタリアの旗 DF ロレンツォ・デ・シルヴェストリ
32 イタリアの旗 MF マルコ・マルキオンニ
35 セルビアの旗 GK ヴラダ・アヴラモヴ
39 ブラジルの旗 FW ケイリゾン
90 イタリアの旗 GK アンドレア・セクリン

プリマヴェーラ(CLBリスト登録、トップチーム招集)

No. Pos. 選手名
17 イタリアの旗 MF フランチェスコ・ディ・タッキオ ※※
26 ガーナの旗 MF ダニエル・コフィ・アギエイ ※※
30 ガーナの旗 FW ボアドゥ・マクスウェル・アコスティ ※※
41 イタリアの旗 DF ラムツィ・アヤ ※※
42 イタリアの旗 DF アンドレア・バグナイ
43 イタリアの旗 DF サムエレ・ベットーニ
44 イタリアの旗 DF ミケーレ・カンポレーゼ
45 イタリアの旗 MF フェデリコ・カッラーロ ※※
46 イタリアの旗 FW ピエトロ・イエメッロ
47 イタリアの旗 MF ジャコモ・レプリ
48 イタリアの旗 DF フェデリコ・マージ ※※
-- スイスの旗 FW ハリス・セフェロヴィッチ
  • ※はプリマヴェーラにも所属、※※はトップチームに招集

フォーメーション

  • 2009-10スターティングメンバー
  • 控え選手
  • プリマヴェーラ

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ベットーニ
# 43
マージ
# 48
アヤ
# 41
バグナイ
# 42
アコスティ
# 30
レプリ
# 47
  • ムトゥは2010年1月20日より長期出場停止中。

2009-10シーズン移籍

詳細は「en:List of Italian football transfers summer 2009」を参照

in(夏)
in(冬)
out(夏)
out(冬)

歴代所属選手

GK

DF

  • イタリアの旗 アンドレア・ソッティル
  • イタリアの旗 アルド・フィリカーノ
  • イタリアの旗 ジュリオ・ファルコーネ
  • イタリアの旗 ダニエレ・カルナシァーリ
  • イタリアの旗 パスクアーレ・パダリーノ
  • イタリアの旗 ロベルト・ミッリ
  • イタリアの旗 マルコ・ムニャイーニ
  • イタリアの旗 ミケーレ・セレーナ
  • イタリアの旗 ヴィットリオ・プシェドゥー
  • イタリアの旗 ロレンツォ・アモローゾ
  • イタリアの旗 サルヴァトーレ・フレージ
  • イタリアの旗 ステファノ・ロッシーニ
  • イタリアの旗 ステファノ・ベッタリーニ1997-1998

MF

FW


歴代会長

近年の歴代監督

氏名 国籍 期間
スヴェン・ゴラン・エリクソン スウェーデンの旗 スウェーデン 1987 - 1989
セバスティアン・バロッソ・ラザローニ ブラジルの旗 ブラジル 1990 - 1992
ルイジ・ラディーチェ イタリアの旗 イタリア 1992
アルド・アグロッピ イタリアの旗 イタリア 1992 - 1993
クラウディオ・ラニエリ イタリアの旗 イタリア 1993 - 1997
アルベルト・マレザーニ イタリアの旗 イタリア 1997
ジョバンニ・トラパットーニ イタリアの旗 イタリア 1998 - 2000
ファティ・テリム トルコの旗 トルコ 2000 - 2001
ロベルト・マンチーニ イタリアの旗 イタリア 2001 - 2002
     
ピエトロ・ヴィエルコウッド イタリアの旗 イタリア 2002/8/10 - 2002/10/29
アルベルト・カヴァジン イタリアの旗 イタリア 2002/10/29 - 2004/2/10
エミリアーノ・モンドニコ イタリアの旗 イタリア 2004/2/12 - 2004/10/25
セルジョ・ブーゾ イタリアの旗 イタリア 2004/10/25 - 2005/1/24
ディノ・ゾフ イタリアの旗 イタリア 2005/1/24 - 2005/6/7
チェーザレ・プランデッリ イタリアの旗 イタリア 2005/6/7 - 現在まで

近年の歴代キャプテン


  1. ^ クラブは2002年に倒産を経験しており、厳密に言えば1926年に創設されたクラブと現在のクラブは別組織であるが、現在のクラブが前身となったクラブの商標権を継承していること、2002年に倒産したクラブの最後の主将だった人物が2002年に創設されたクラブの最初の主将でもあったことなどから、本項ではこの二つのクラブをまとめて解説する。
  2. ^ a b "La Storia della Fiorentina". ACF Fiorentina - Official Site (2006年1月23日). 2008年5月25日閲覧。
  3. ^ a b ラフガイド社『欧州サッカー60都市現地観戦ハンドブック2000 ヨーロピアンフットボール』(ダイナゲイト、2000年)
  4. ^ http://www.rsssf.com/tablesi/ital31.html
  5. ^ http://www.rsssf.com/tablesi/ital32.html
  6. ^ http://www.rsssf.com/tablesi/ital56.html
  7. ^ http://www.rsssf.com/tablesi/ital93.html
  8. ^ http://www.rsssf.com/tablesi/ital99.html
  9. ^ "中田英寿とヴィオラの再出発 - 悲劇、そして王国復興へ - 思わぬセリエB昇格 巨額の投資でチーム強化". CALCIO 2002. 2008年5月25日閲覧。
  10. ^ 二人はいずれもアタランタ育ちで同じ年にフィオレンティーナに移籍したこと、背丈や顔立ちも似ていることから、ティフォージの間ではまとめて「パッツォリーヴォPazzolivo」との愛称で呼ばれる存在である。[1]
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