フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)

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フェルディナント1世
Ferdinand I.
オーストリア皇帝
Ferdinand I; Keizer van Oostenrijk.jpg
金羊毛騎士団ローブに身を包んだフェルディナント1世(レオポルト・クペルヴィーザー画、1847年)
在位 1830年9月28日 - 1848年12月2日(ハンガリー国王、クロアチア国王)
1835年3月2日1848年12月2日(オーストリア皇帝、ボヘミア国王)

全名 Ferdinand Karl Leopold Joseph Franz Marcellin von Habsburg-Lothringen
フェルディナント・カール・レオポルト・ヨーゼフ・フランツ・マルツェリン・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
出生 (1793-04-19) 1793年4月19日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリア帝国の旗 オーストリア大公国ウィーン
死去 (1875-06-29) 1875年6月29日(82歳没)
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国プラハ
埋葬 Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンカプツィーナー納骨堂
配偶者 マリア・アンナ・フォン・ザヴォイエン
王家 ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親 フランツ1世
母親 マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン
宗教 キリスト教カトリック教会
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フェルディナント1世ドイツ語: Ferdinand I.1793年4月19日 - 1875年6月29日)は、オーストリア皇帝(在位:1835年3月2日 - 1848年12月2日)。ハンガリー国王としてはフェルディナーンド5世ハンガリー語: V. Ferdinánd1830年9月28日 - 1848年12月2日)。「善良帝(ドイツ語: der Gütigeチェコ語: Dobrotivý)」と呼ばれる。

生涯[ソースを編集]

1793年4月19日、最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世とその皇后で両シチリア国王フェルディナンド1世の長女であるマリア・テレジアの長男として誕生した。姉にフランス皇帝ナポレオン1世の皇后マリア・ルイーザがいる。

1804年オーストリア帝国が成立すると、ハプスブルク家史ならびにオーストリア史上初の皇太子となった。帝位は選帝侯によって選出される非世襲のものとする選挙君主制の建前から、神聖ローマ帝国には皇子や皇太子という身位は存在せず、したがってフェルディナント以前のハプスブルク一族は皇帝の息子であってもローマ王オーストリア大公でしかなかった。

病弱な皇太子[ソースを編集]

ハンガリー国王「フェルディナーンド5世」として聖イシュトヴァーンの王冠を戴くフェルディナント皇太子(1830年9月28日)

生来フェルディナントは蒲柳の質で、普通の身体でないことは外見からもはっきりと見てとれたといわれている[1]

一人では階段を昇ることができない[1]、滅多に口を利かず[2]、話すときには口許が引きつり[2]、ひどい吃音である[2]、ときおり身体全体が激しく痙攣し[2]、昏睡状態に陥る[2]……宮廷人はフェルディナントのことをそのように噂した。健康問題から、フェルディナントは結婚も不可能だと考えられた。

皇太子殿下は不能症というわけではございませんが、殿下のお身体は婚姻生活により、お命を危うくされるやも知れぬ状態でございます[1] — 皇帝の侍医ヨーゼフ・アンドレアス・フォン・シュティフト博士が提出した診断書

皇太子とはいえ帝位継承の実現が危ぶまれたが、保守的なフランツ1世が相続順位法を遵守しようとしたことと[3]、次代に病弱な皇帝を戴くことで引き続き実権を握ろうとした宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒの差配によって[3]、次期皇帝となることが確実となった。

1830年9月28日、ハンガリー国王ならびにクロアチア国王として戴冠した。これは神聖ローマ帝国においてローマ王が事実上の皇太子とされていたように、新生のオーストリア帝国において皇太子が兼ねる称号としてハンガリー王位(とそれに付随するクロアチア王位)を再定義しようとする試みであったが、結果的にはフェルディナント一代限りのものとなり、英国のプリンス・オブ・ウェールズのように慣習として定着することはなかった。

1831年サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世の三女マリア・アンナを妃に迎えたが、この結婚はもとより世継ぎの誕生を期待してのものではなく、次期皇帝としての体裁を整えるためのものであった。

即位、宰相会議のもとでの治世[ソースを編集]

ボヘミア国王フェルディナンド5世としての戴冠(1836年)
ロンバルド=ヴェネト国王フェルディナンド1世としての戴冠(1838年)

1835年3月2日、父帝の崩御によってオーストリア帝位に即いた。1836年9月7日プラハにおいてボヘミア国王として、1838年9月6日にはミラノにおいてロンバルド=ヴェネト国王としての戴冠式を挙行した。

メッテルニヒは病弱なフェルディナント1世を補佐する機関として、新帝の叔父ルートヴィヒ大公ドイツ語版フランツ・アントン・フォン・コロヴラート=リープシュタインスキードイツ語版伯爵、新帝の弟フランツ・カール大公と自身の4人からなる宰相会議を設置した[4]。宰相会議を牛耳る宰相メッテルニヒが次々と差し出す書類に署名することが、フェルディナント1世の統治の全てだった[5]

1848年革命と譲位[ソースを編集]

馬車でウィーンを回り、民衆に歓呼の声で迎えられるフェルディナント1世
1848年革命下の帝都から逃れる宮廷

1848年に3月革命が勃発すると、メッテルニヒを罷免し、馬車に乗って検閲の廃止や出版の自由を約束して回り、ウィーンの民衆から歓呼の声で迎えられたが[6]、他国で進展する革命の影響もあってウィーンの革命運動も次第に先鋭化していき、最終的には退位を余儀なくされた。

オーストリア帝位継承順位に従えば、すぐ下の弟フランツ・カール大公が子女のないフェルディナントの後継者になるはずだったが、すでに宰相会議のメンバーとして旧体制の垢がしみついていたこともあって彼は帝位継承を辞退し、代わってその長男フランツ大公が「フランツ・ヨーゼフ1世」として帝位に即いた。

もしこの君主一族がこれまでに築きあげてきた揺るぎない高い地位がなかったとしたならば、フェルディナント帝の13年に及ぶ治世は考えられたであろうか。1年でさえも継続できなかったであろう[7] — 当時のハプスブルク一族の代表的保守派、アルブレヒト大公


譲位後[ソースを編集]

退位後のフェルディナント1世(1860年代)
カプツィーナー納骨堂のフェルディナント1世の霊柩

退位後はプラハ城を居城とした。立場から解放されたためか、蒲柳の質にもかかわらず長命を保った。退位後も27年間生き続けて、1875年に82歳の高齢で崩御した。遺骸はウィーンに運ばれてカプツィーナー納骨堂に葬られた。

出典[ソースを編集]

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  1. ^ a b c 菊池(1990), p. 138.
  2. ^ a b c d e 菊池(1990), p. 139.
  3. ^ a b 菊池(1990), p. 142.
  4. ^ 菊池(1991), p. 108.
  5. ^ 菊池(1991), p. 112.
  6. ^ 江村(2013), p. 32.
  7. ^ 菊池(1990), p. 143.

参考文献[ソースを編集]

関連項目[ソースを編集]

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