フェートノーザン

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フェートノーザン
品種 サラブレッド
性別
毛色 青鹿毛
生誕 1983年4月23日
死没 1989年12月12日
フェートメーカー
アメリカンノーザン
生国 日本北海道静内町
生産 武田牧場
馬主 高橋義和
調教師 吉田三郎(栗東
→吉田秋好(笠松
競走成績
生涯成績 中央競馬11戦5勝
地方競馬18戦14勝
獲得賞金 2億4400万5000円
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フェートノーザンは、日本競走馬帝王賞ブリーダーズゴールドカップなど、まだ数が少なかった中央競馬地方競馬の交流競走を次々と制した1980年代を代表するダートの強豪馬の一頭。主戦騎手安藤勝己

フェートメーカーアメリカ合衆国の名馬スワップスハイペリオン系)の仔で、当時としてはめずらしい外国産馬として南関東公営競馬で出走したが大成はしなかった。種牡馬として本馬のほかにカウンテスアップ、リバーストンキング、カズノタンポポなど地方競馬の活躍馬を出した。

馬齢は、旧表記(数え年)で統一する。

戦績[編集]

中央競馬所属時代[編集]

1986年3月30日阪神競馬場のダート1700メートルの未出走戦でデビュー。2着に7馬身差をつけ初戦を飾った。 次走こそ初の芝レースで11着と大敗するも、3戦目はダートに戻って2勝目を挙げた。 この後、芝競走を2戦使われたがいいところ無く敗れ、笹針を打って休養に入った。

秋以降は、ダート戦に絞ってレースを使われるようになる。 復帰戦でいきなりの勝利を挙げると、連闘で挑んだ準オープン戦は5着と、ダートで初の敗戦を喫したが、次走は2着に2馬身半差をつける危なげない勝ち方でオープン入りを果たした。 重賞初挑戦となったウインターステークスでは、この年の最優秀ダートホースとなるライフタテヤマに歯が立たず、2着を確保するまでだったが、 年明け初戦の平安ステークス(オープン)を確実に勝利し、古馬となっての飛躍が期待された。 しかし、続く仁川ステークスをフレグモーネのため出走取り消しを余儀なくされると、2週間後の帝王賞でも調子が戻りきらず、テツノカチドキの11着と大敗を喫した。

この後持病の裂蹄が悪化し、笠松競馬場の外厩で休養に入った。 この時に笠松側からフェートノーザンの移籍を打診。 当時の中央では、目標となるダート競走が限られていたため、活躍の場を求めてこれに応じることとなった[1]

笠松競馬所属時代[編集]

笠松に来た時点では、患部が化膿して歩くことも困難なほどであったが、関係者の治療の甲斐あって半年後には走れるまでに回復した。 笠松に転入してから2連勝を飾り、鞍上に安藤勝己を迎えて名古屋大賞典に出走。 当時東海地区で無敵を誇ったワカオライデン相手に競り掛けていく積極的なレースを見せたが、同馬の前に3着と敗れた[2]。 暮れの東海ゴールドカップでは、ワカオライデンに雪辱を果たすが、7.5キロの斤量差に助けられた部分が大きかった。

明けて6歳となり、実力の違いから着実に勝ち星を重ねたが、先頭に立つと内にモタれるという悪癖があり、取りこぼしたレースも2度あった。 転機となったのは、10月のオパール特別。このレースから道中で抑える作戦がとられ、直線で爆発的な瞬発力をみせるようになった。 脚質が変わったことでレースぶりが安定し、これ以降のフェートノーザンは、まさに無敵を誇った[3]東海菊花賞を制して臨んだ第1回全日本サラブレッドカップでは、翌年のJRA年度代表馬イナリワンを一蹴。 続く東海ゴールドカップは、61キロの斤量を背負いながら連覇を飾った。

年が明け7歳初戦の名古屋大賞典も61キロをものともせず快勝。東海地区の主要競走を総なめにして、大井競馬場の帝王賞に遠征することとなる。 この時のフェートノーザンは、蹄の状態が良く、比較的強い調教が可能で、調子は過去最高と言えるほどだった。 道中は後方につけ、4コーナーで好位に取り付けると、直線では早めに先頭に立ち、2着に2馬身半差をつけ危なげなく勝利[4]を飾り、日本のダート界の頂点に立った。

レース後、新冠町の優駿スタリオンステーションでの種牡馬入りが早くも決定。 以降は、札幌のブリーダーズゴールドカップ、笠松の全日本サラブレッドカップ、さらに状態次第では翌年の川崎川崎記念と、全国の交流重賞を使って引退するというプランが発表された。 帝王賞の次走は、全日本サラブレッドカップの優先出走権がかかったローレル争覇。 68キロという酷量を背負いながら勝利したが、連戦の疲れが出たのかレース後夏負けにかかり、調子を崩した。 ブリーダーズゴールドカップの1か月前に札幌競馬場に入厩し、安藤も一緒に付き添うという熱の入れようだったが、一向に状態は回復せず、本番に不安を残すこととなる。 レースでも、鞍上の安藤が負けを覚悟するほど行きっぷりが悪かったが、ゴール寸前で地元の雄ホロトウルフをクビ差だけ差し切った。

そして迎えた11月23日の全日本サラブレッドカップ。 地元笠松での最終戦であり、単勝支持率は9割を越えるという圧倒的な人気を集めた。 例によって後方待機策をとったが、1周目の3コーナー過ぎで左前種子骨骨折を発症。安藤が下馬し、競走を中止した。 当初は、命に別状は無いと考えられたが、感染症を併発したことで、39度を越える高熱[5]が出るなど危険な状態となり、500キロを越える雄大な馬体が3分の2程になるまでに衰弱した。 関係者の懸命な治療が続けられたがその甲斐無く、12月12日に安楽死処分がとられる事となった。

年度別競走成績[編集]

  • 1986年 (9戦4勝)
    • 2着 - ウインターステークス (GIII)
  • 1987年 (6戦4勝〈うち中央で2戦1勝〉)
    • 1着 - 平安ステークス (オープン) 、東海ゴールドカップ
  • 1988年 (9戦7勝)
    • 1着 - 東海大賞典、東海菊花賞、全日本サラブレッドカップ、東海ゴールドカップ
  • 1989年 (5戦4勝)
    • 1着 - 名古屋大賞典、帝王賞、ブリーダーズゴールドカップ

血統表[編集]

フェートノーザン血統ハイペリオン系 / Khaled3×3=25.00%) (血統表の出典)

*フェートメーカー
Fate Maker
1972 栗毛
父の父
Swaps
1952 栗毛
Khaled Hyperion
Eclair
Iron Reward Beau Pere
Iron Maiden
父の母
A-bee Ba-bee
1964 栗毛
*ナディア Nasrullah
Gallita
Stay Smoochie Alquest
Paigle

アメリカンノーザン
1972 鹿毛
*ドレスアップ
Dress Up
1957 鹿毛
Khaled Hyperion
Eclair
Blue Cloth Blue Larkspur
War Cloth
母の母
*ネイティヴディーラー
Native Dealer
1971 鹿毛
Fiftieth State Polynesian
Providence
Gaming Act Supreme Court
Game of Chance F-No.14-c
  • 全弟フエートキングは、東海公営の秋の鞍の勝ち馬。
  • 母系はプリティーポリーに遡れる。

脚注[編集]

  1. ^ 1987年当時、中央競馬のダート重賞の内、古馬のサラブレッドが出走できたのは、フェブラリーハンデ札幌記念根岸ステークス、ウインターステークスの4レースのみ。全てGIII。
  2. ^ これ以後主戦騎手となる安藤は「まだ馬の良さが分かっていなかった」と後年反省している。
  3. ^ この時期のフェートノーザンについて安藤は、「馬が年をとってレースを覚え、非常にうまいレースをするようになった」と述懐している。
  4. ^ 笠松所属馬による帝王賞勝利は、これが初めてのこと。
  5. ^ サラブレッドの平熱は、約37度8分から38度。これから5分以上熱が上がると熱発とみなされる。