フォードGTマーク4

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フォード・GT マーク4
1967 GT40 Mk IV at 2010 Canadian International AutoShow.JPG
カテゴリー  
コンストラクター フォード
主要諸元
シャシー アルミハニカム モノコック
サスペンション(前) ダブルウィッシュボーン コイルスプリング
サスペンション(後) アッパー:Iアーム / ロワー:逆Aアーム ツインラジアスアーム コイルスプリング
全長 4,341 mm
全幅 1,791 mm
全高 980 mm
トレッド 前:1,361mm / 後:1,392 mm
ホイールベース 2,413 mm
エンジン フォード 6,997 cc V8 NA ミッドシップ
トランスミッション カークラフト 4速+リバース MT
重量 1.000 kg
タイヤ グッドイヤー
主要成績
テンプレートを表示

フォードGTマーク4(FORD GT MarkIV)はアメリカで開発、製造されたレース専用車両。 開発の前段階としてフォードGT40という車両があったが、フォードGTマーク2が1966年のル・マン24時間レースでの総合優勝をなしえた後、翌年のル・マンの連覇だけを前提に開発されたという特殊な経緯をもつ。

フォードGTプロジェクト[編集]

フォードGTは、当時最強だったフェラーリチームの買収に失敗したフォードが、1963年イギリスに設立した開発拠点(その後「Ford Advanced Vehicles」〔フォード・アドバンスド・ヴィークルズ〕として独立する)において開発、製造された。尚、フォードGTは当時の記者会見で制作期間が11ヶ月と発表されたが、そのベースにはミッドシップレイアウトを採用したローラ・カーズのローラMark6という車両があったため極めて短期間で製作できた。

シャーシはスチール製のモノコック構造で両脇に角型フレームが通ったツインチューブ構造を採用していた。この構造自体はローラMark6から取り入れられたものだが、ローラGTはジュラルミンとスチールのパネルが組み合わせられていたのに対し、フォードGTはルーフまで全てスチールパネルで作られているためライバルたちより大幅に重くなったが、これは量産車の製作技術が応用できるためだった。

エンジンは63年当初は量産車のフォード・フェアレーン用4.26リットルをインディ500マイルレース用に4.2リットルへ縮小し、シリンダーブロックを鋳鉄からアルミの砂型鋳物へ置き換え軽量化した”255”エンジンを採用していた。エンジン自体は完全なレースチューンがなされており、圧縮比は12.5:1、ドライサンプやウェーバー48IDAキャブレターなどの採用で350bhp/7200rpmと発表されていた。

サスペンションは当時F-1などで一般的になりつつあった後輪にツインラジアスアームの付く4輪ダブルウィッシュボーンで、コイルスプリング/ダンパーの組み合わせにアンチロールバーが付く。ブレーキは前後ともソリッドディスクの4輪ディスクブレーキで、ガーリングのキャリパーを採用していた。ステアリングはラック&ピニオン、ホイールはボラーニのワイヤータイプで、径は前後とも15インチ、リム幅は前6.5インチ、後8インチ。当時普及し始めた軽量・高耐久なディスクタイプではなくあえてブレーキ冷却を優先させた結果ワイヤーホイールが採用された。

トランスミッション/アクスルはミッドシップのためトランスアクスルが必要だったが、63年当時は高出力に対応した市販ユニットはイタリア製のコロッティのタイプ37しかなく、選択の余地はなかった(ローラMark6もコロッティを採用していた)

マークI[編集]

1964年3月末に1号車のシャーシNo,101が完成、イギリスで行われたプレス発表後、アメリカへ空輸されアメリカでのプレス発表に展示された後、4月18~19日に開催されるル・マン24時間レースのテストデイへ参加準備のため再度イギリスへ空輸された。4月中旬に2号車の"102"が完成したが、シェイクダウンテストもそこそこにル・マンへと送り出された。

ル・マンのテストデイでは、"101""102"共にクラッシュ、特に"101"はユノディエールのストレートを飛び出し、早々とスクラップになってしまった。原因のひとつとなった空力面の不安定さを改善するため"102"は修理と並行してボディ後部にスポイラーを追加、フロントノーズ下部にあったドライビングランプをヘッドライト下へと移動させるなどボディワークを大幅に改善するなどし、次戦ニュルブルクリング1000Kmへと挑んだ。"102"は予選2位という好タイムを出しながらも、本戦はサスペンショントラブルでリタイアとなった。

1964年6月にル・マン24時間レースの本番を迎えたが、"102"に加え"103""104"と3台のエントリーとなった。予選は"103"が2位、"102"が4位、"104"が9位と好ポジションを獲得したが、本番では一時"103"が1位を走行するもギヤボックストラブルでリタイア、"104"は燃料漏れからユノディエールで後部が炎上しリタイア、残った"102"もギヤボックスが壊れリタイアとなった。 その後64年7月にフランスのランス12時間レースに"102""103"に加え"105"が投入された。この"105"にはそれまでの255から289(4.7リッター)へエンジンが変更され、重量は増したが出力の向上が図られていた。同時に改良されたギヤボックスも投入されたが、こちらはテストすらしていない状態だったため耐久性に疑問を残したままのレースとなった。予選は"103"が2位、"102"が3位、"105"が6位のポジションを得たが、本戦は"102""105"がミッショントラブルでリタイヤ、"103"はエンジンブローでリタイヤと結果を残せなかった。

64年末まで、世界各地のサーキットでテストを繰り返したフォードGTだったが、10月末にイタリアのモンツァで行われたテストで"102"がコースアウトし大破、スクラップになってしまった。

シェルビー・アメリカンへの移管[編集]

64年のシーズンオフにフォードの首脳陣は、レースチーム運営と開発をフォード・アドバンスド・ヴィークルズから、エンジン供給でつながりの有ったシェルビー・アメリカンへ移管する決定を下した。そしてそれまで1つのプロジェクトだったものを3つに分割した。1つはシェルビーへのレース部門の移管、2つ目はホモロゲーションモデルの製作をフォード・アドバンスド・ヴィークルズが行う、3つ目はアメリカにおいて65年のル・マン用新型マシンの製作を行う、というものだった。

シェルビー・アメリカンへ移管された"103""104"は65年の開幕戦であるデイトナ2000Kmレースに向けて短期間の間に改良が加えられた。エンジンはコブラ用の289へ変更、ギヤボックスは対策部品が組み込まれた強化型となり、ホイールはワイヤーからハリブランドのマグネシウムホイールへ変更され大幅に強度が上がった。 そして迎えたデイトナのレース本番で"103"は1位でフィニッシュ、"104"も3位に入賞しフォードGTにとっては初完走で優勝を勝ち取った。

ホモロゲーションモデルの製作[編集]

一方のF・A・V(フォード・アドバンスド・ヴィークルズ)はグループ4規定を満たすため50台の量産型フォードGT(一般にフォードGT40またはマークⅢと呼ばれる)を製作、さらに量産プロトタイプの開発中に発展、製作された軽量なロードスター仕様が4台製造されシェルビー他に引き渡された。さらにF・A・Vではギヤボックスをそれまでのコロッティ製4速からドイツのZF製5速へ変更し、量産型と共にその後のフォードGTのスタンダードとなる、通称ルマンノーズとよばれるフロントカウルも製作した。

アメリカフォードの決定:マークII[編集]

アメリカのフォード本社でも65年のル・マンへ向けて新型マシンプロジェクトは動いていた。新型マシンは更なる高出力を目指し427(7リッター)エンジンを搭載することが決定された。64年夏、新型マシンを製作するためにアメリカに「カー・クラフト」という新会社が設立され、7リッターエンジンを搭載するための改良が新たに作られた"106"に加えられ、新しいフロントノーズも開発された。同時に高出力に対応した新型の4段ギヤボックスも開発され、65年5月にはフォード本社のテストコースで走行テストが繰り返された。テスト中に記録された210M/h(336Km/h)という最高速度に気を良くしたフォード首脳陣は、6月のル・マンにこのマシンを投入することを決定、そのための新車"107"はほぼ突貫作業でル・マンの直前に完成した。この仕様が後にマークIIと呼ばれる事になった。

65年のル・マンには2台のマークII、4台の289エンジンのGT(内1台はロードスター仕様)が参加したが、F・A・Vから参加した1台を除いて全てシェルビー・アメリカンがメンテナンスを行うことになった結果、シェルビーは4台のコブラクーペも含めると実に9台ものメンテナンスを行うことになってしまい、この体制が勝利を大きく左右することになった。レース本番はすべてのフォードGTはことごとくマシントラブルでリタイアとなってしまったが、ユノディエールで記録された213M/h(340Km/h)は他のライバルチームを震撼させるのに十分なインパクトがあった。

66年型マークII[編集]

66年1月から追加改定されるレース車両規定で、特に空力面においてフォードチームは新たなマシンの開発の要に迫られたが、前年のル・マンでみせた圧倒的な速さに自信を深めたフォード陣営は、66年もこの改良版で戦うことを決めた。65年8月からシェルビー・アメリカンで66年仕様の開発が進められ、新たにマークII用として8台の改良型モノコックシャーシがF・A・Vからシェルビー・アメリカンへ搬入された。66年型の1号車"1011"は65年末からデイトナ、キングズマンといったアメリカの名だたるサーキットでテストが行われたが、新しいショートノーズと前年のル・マンノーズの比較テストを行った結果、ショートノーズのほうが最高速度もアップする上、高速安定性も高いことが判明し以後ショートノーズが採用されることになった。 66年からはチーム体制も変えられ、それまでシェルビー・アメリカンがほとんどのマシンメンテナンスを行っていた事が勝てなかったひとつの要因と判断され、フォードのストックカーレースで実績のあったホルマン-ムーディと、イギリスのアラン・マンがフォードのレース陣営に参加することになった。

Jcarの開発[編集]

フォードGTは1966年で実戦投入から3年目を迎えるが、66年1月から発効されるFIAの新レギュレーションに合致させるためのマシン開発が、65年9月からカー・クラフトで始められた。新レギュレーションの中の”J項”に合致したマシンということで、新型マシンは「Jcar」と呼ばれる事になった。Jカーは基本的にフォードGTマークIIの主要部品を流用することが決まっていたため、主に空力面と軽量化に力が注がれた。さらに65~66年に大幅に実力を伸ばしたシャパラル2の影響もあり、オートマチックミッションの採用も開発条項に入っていた。

軽量化を担う部分として、Jカーはシャーシをアルミハニカムで製作された。これによりフォードGTより(計算上)135Kgの軽量化が可能とされた。実際のシャーシ製作は航空機産業のブランズウィック・コーポレーションが製作した。もうひとつの命題であった空力面は66年の新レギュレーションに合致させるべく、ウインドシールドをフォードGTよりも幅を狭く、さらに湾曲の強い形状とされた。こちらはシャーシ完成より一足早くクレイモデルにカラーリングを施し65年末にプレス発表された。そのボディスタイルは特徴的なノーズとボディ後部がフラットな形状だったため「マンタ」と揶揄されるほど奇抜な形状であった。66年3月に1号車の"J-1"が完成、フォード本社のディアボーンのテストコースでシェイクダウンテストが行われた後、シェルビー・アメリカンへ送られ、本格的なテストが始められた。1ヶ月のテストの後、66年4月に行われたル・マンのテストデイに"J-1"はその姿を現した。主に走行データ採取が優先されたテストではあったが、65年にマークIIが出した予選タイムに及ばなかったばかりか、同じテストデイに参加していたマークIIよりラップタイムが遅かったため、新型車としての面目が立たなかった。その後のテストでもマーク2より優位性を証明できなかったため、ル・マンまでのレースにはそれまでどおりマークIIが使われることになり、Jカーの開発は一時中断されてしまった。

66年のル・マン24時間レースは、フォードの3チームからGTマークIIが8台、市販バージョンのGT40が5台、さらに2台のスペアカーも用意されるなど、大量のエントリーがなされた。そしてその物量作戦が功を奏して決勝で1~3位をマークIIが独占、フォードチームは3度目の挑戦でル・マンの栄光を勝ち取った。

ル・マンのレース後、フォードはこのル・マンでの優勝がフロックでないことを証明するべく、67年のル・マンに再度挑戦することを発表し、66年8月からJカーの開発を再開した。66年でマークIIは実質3シーズンを超え、性能低下が懸念された。ライバルチーム(特にスクーデリア・フェラーリ)が投入してくるであろう67年用のニューマシンに対しマークIIの改良では間に合わないと考えたフォード首脳陣は、Jカーの開発を急がせた。 アップデートプログラムの一環で、66年から北米大陸各地で行われることになったグループ7(2座席レーシングカー)によるカナディアン-アメリカン-チャレンジカップ(通称Can-Amシリーズ)へ参加する計画を立てた。 耐久レースではないCan-Amでは夜間走行用の装備は必要ないため、ヘッドライトの撤去、ボディ周りの変更などを施した"J-2"を開発、リーバーサイドサーキットでテストに入ったが、8月17日にシェルビー・アメリカンのケン・マイルズがテスト走行中にクラッシュし炎上、ケン・マイルズが死亡するという惨事になった(事故の原因は不明、突然コントロールを失いコースアウトした)。この事故で、Jカーは再び開発の中断を余儀なくされ、マークIIを改良し67年シーズンを迎えることになった(この仕様が67年型のマークIIBとなる)。 67年の初戦はデイトナ24時間レースだったが、前年と違いテストに時間をかけ挑んできたフェラーリ330P4の前にマークIIは参加車両が全てリタイヤと惨敗(ギヤボックスのメインシャフトの熱処理を誤り強度不足の不良品がすべてのマークIIに組み込まれていたため)、66年のル・マンの雪辱を果たされてしまうことになった。

Jカー自体は66年11月から開発を再開、最も課題とされた空力面の改善に全力が注がれた。前面投影面積が大きかった形状は改められ、車体は前後に大きく伸ばされ、ノーズは低く長く、リヤセクションは滑らかに後端につながる形状とされた。この新しいボディはまず"J-4"に架装されテストが繰り返された。その過程でこの新型マシンはマークIIより速い215.8M/h(347.2Km/h)を記録、高速安定性も大幅に向上していることが明らかとなったため、フォード首脳部は67年の第2戦、セブリング12時間レースへ投入することを決定。この時点からこの新型マシンは「フォードGTマークIV」と呼ばれることになった。

マークIVの実戦レース[編集]

マークIVは67年3月末に開催されたセブリング12時間レースで実戦デビュー、直接のライバルであったフェラーリ330P4はレースに不参加だったため、ライバルは同じく地元のシャパラルと、このレースでデビューを果たしたアルファロメオのティーポ33だった。予選でマークIV"J-4"はポールポジションを獲得、本戦ではシャパラルが前半をリードするもオートマチックミッションを壊しリタイヤ、マークIVはデビューウィンを飾った。

セブリングの一週間後、当時恒例だったル・マンのテストデイが開催された。フォードからはマークIV(マークIVは"J-3"がセブリング戦と同じカラーリングで参加)、マークIIがそれぞれ1台ずつテストに臨んだ。"J-3"には計測機器を搭載されタイムより走行データの収集を優先された。ル・マンのテストデイ以後、マークIVはレースに出場することなくル・マンの本番に向けてテストが繰り返された。尚、セブリングで優勝した"J-4"とテストデイで使用された"J-3"はテストデイ以降にお役御免となり放出(コレクターなどへ売却)され、ル・マン用には新たに製造された"J-5"から"J-8"までの4台が投入されることになった。新造された4台はJカーベースのマークIVよりシャーシ剛性を強化されるなど改良が加えられていた。

67年のル・マン24時間レース[編集]

1967 Ford GT40 Mk IV at 2004 Sportscar Vintage Racing Association meeting in Watkins Glen.jpg

ル・マン24時間レースには、シェルビー・アメリカンから2台のマークIVと1台のマークIIB、ホルマン・ムーディからも2台のマークIVと1台のマークIIB、フォード・フランスからマークIIBが1台の合計7台がエントリーしていた。対するライバルのフェラーリからは330P4が4台、412Pが3台エントリーされ、準備不足で3台しか揃わなかった前年とは比べ物にならない体制で挑んできた。 予選前の練習走行中、マークIVのフロントウインドにクラックが入るトラブルが続出、ガラス自体の強度不良が判明したためすぐさまアメリカから対策部品が輸送され事なきを得た。予選では"J-6"に乗るブルース・マクラーレンとシャパラルのフィル・ヒルがポールポジション争いを繰り広げ、マクラーレンがポールポジションを獲得した。2位のシャパラル以外3~6位までをフォード勢が占め、1位のマークIVはフェラーリ勢よりラップタイムで4秒ほど上回っていた。

フォード勢のエントリー

以上シェルビー・アメリカンからのエントリー

以上ホルマン・ムーディ

以上フォード・フランス

本戦では“ラビット”を命じられていたマークIIBの"1031"が飛び出し、午後4時のスタートから約1時間ハイペースで周回を重ねたがその後トラブルで後退、以後"J-5"が首位をキープし周回を重ねた。日付が変わり午前3時過ぎにアンドレッティの"J-7"がマシントラブルでコースアウト(リヤのブレーキパッドを直前に交換しており、組み付け不良が原因と言われている)後土手で跳ね返りコースを塞いだ。この事故を避けるためにマークII"1047"もコースアウトしクラッシュ、さらにコースを塞いだ2台を避けようとしたマークII"1015"がよけきれずクラッシュ、一度に3台のフォード勢が消えるアクシデントとなった。午前10時過ぎ、マークII"1031"がエンジントラブルのためリタイヤ、さらにその直後マークIV"J-6"が走行中にリヤカウルが吹き飛んでしまうトラブルが発生、こちらは次の周回にドライバーがカウルを回収しピットで修理の結果4位のままレースに復帰した。終盤に入り、じりじりと順位を上げてきたフェラーリ勢だったが、首位のマークIV"J-5"は大きなトラブルもなく終始安定した走りで1位のまま24時間を走り切り優勝を飾った。2位のフェラーリ330P4とは5周差をつけての圧倒的な勝利であった。またル・マン史上はじめて5000Kmを超える距離を24時間で走行、さらに低燃費を競う熱効率指数部門でも1位を獲得するなど、大排気量にものを言わせた大出力エンジンによる勝利ではないことを示した。また、ユノディエールのストレートで記録した340.05Km/hという最高速度は空力性能の良さを(フェラーリ勢よりも)アピールした。

マークIVはル・マン以後のチャンピオンシップに参戦することなくシーズンを終えたため、67年のチャンピオンシップはフェラーリとポルシェの間で争われ、最終戦のBOAC500マイルレースで2位に入賞したフェラーリチームが制した。

翌68年からチャンピオンシップは、生産義務のないプロトタイプカーは3リッターまで、生産義務のあるグループ4(スポーツカー)は5リッターまでとレギュレーションを変更したため、マークIVやマークII、フェラーリ330P4などはその活躍の場を失い、ヨーロッパのサーキットから姿を消したが、フォードGTの量産型であるGT40は生産義務をクリアし、68年から69年にかけチャンピオンシップで活躍、特にGT40"1075"は68年と69年ル・マン24時間レースを2年連続で制覇した栄光のGT40として世に知られている。

関連項目[編集]