フランチェスコ5世 (モデナ公)

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フランチェスコ5世

フランチェスコ5世イタリア語: Francesco V1819年6月1日 - 1875年11月20日)は、モデナ公(在位:1846年 - 1860年)。オーストリア=エステ大公ハンガリー王子およびベーメン王子。フランチェスコ4世の長男。全名はドイツ語フランツ・フェルディナント・ゲミニアンFranz Ferdinand Geminian)、イタリア語フランチェスコ・フェルディナンド・ジェミニアーノFrancesco Ferdinando Geminiano)。

概要[編集]

1819年6月1日、フランチェスコ4世とその妃であったサルデーニャヴィットーリオ・エマヌエーレ1世の王女マリーア・ベアトリーチェの間に第二子としてモデナで生まれた。1846年にモデナ公位を継承した[1]。当時のモデナでは争乱が頻発しており、フランチェスコ5世は身を守るためにオーストリア帝国に駐留軍を求めたが、1848年革命で争乱がさらに大きくなり、3月20日に家族とともにマントヴァに逃亡した[1]。父と同じく政治に介入、自由主義と疑われた者を全員訴えた[1]。1859年にオーストリアがマジェンタの戦いで敗れると、フランチェスコ5世は軍を率いてサルデーニャ王国と戦おうとしたが、逆に公国を併合され、フランチェスコ5世はオーストリアに移住した[1]

晩年のフランチェスコ5世、1870年撮影。

1875年、フランチェスコ5世はウィーンで死去した[1]。遺骨はウィーンのカプツィーナー教会にある皇帝納骨所カイザーグルフト)に収められている。

子女[編集]

フランチェスコ5世は1823年3月19日ミュンヘンバイエルンルートヴィヒ1世の王女アーデルグンデと結婚した。彼女との間には以下の一女をもうけた。

  • アンナ・ベアトリス・テレジア・マリー (1848年 - 1849年)

唯一の実子が早世したため、エステ家ハプスブルク=ロートリンゲン家の血を引く家系はフランチェスコ5世で絶え、オーストリア=エステ大公の称号と名目上のモデナ公位は遠縁のフランツ・フェルディナント大公に継承された。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e Wikisource-logo.svg Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Francis V. of Modena". Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press. 
フランチェスコ5世

1819年6月1日 - 1875年11月20日

爵位・家督
先代:
フランチェスコ4世
モデナ=レッジョ公
1846年 - 1859年
リソルジメント
王室の称号
先代:
フランチェスコ4世
オーストリア=エステ大公
1846年 - 1875年
次代:
フランツ・フェルディナント
請求称号
追放 — 称号 —
モデナ=レッジョ公
1859年 - 1875年
次代:
フランツ・フェルディナント
先代:
メアリ3世/2世
ジャコバイトの王
1840年 - 1875年
次代:
メアリ4世/3世