フリードリッヒ・クリスチャンセン

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フリードリッヒ・クリスチャンセン
Friedrich Christiansen
Friedrich Christiansen Anefo.jpg
1937年
生誕 1879年12月12日
ドイツの旗 ドイツ帝国
 プロイセン王国 ヴィーク・アウフ・フェール英語版
死没 (1972-12-03) 1972年12月3日(92歳没)
西ドイツの旗 西ドイツ
Flag of Schleswig-Holstein.svg シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州 アウクルク英語版
所属組織 Flag of German Empire (jack 1903).svg ドイツ帝国海軍
War Ensign of Germany (1921-1933).svg ヴァイマル共和国軍
Balkenkreuz.svg ドイツ国防軍空軍
軍歴 1914年 - 1945年
最終階級 大将
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フリードリッヒ・クリスチャンセン(Friedrich Christiansen、1879年12月12日 - 1972年12月3日)は、ドイツの軍人。第一次世界大戦では20機の敵航空機と1隻の飛行船を撃墜したエース・パイロットとして、第二次世界大戦ではオランダにおけるドイツ国防軍の司令官として活躍した。最終階級は空軍航空兵大将

生涯[編集]

生い立ち[編集]

クリスチャンセンはシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州ヴィーク・アウフ・フェール英語版で古くからの海で暮らす1族の中で船長の息子に生まれた。その家名で判るように、デンマーク系の家系である。幾代も続く海で暮らす1族の中で彼の将来は早々に決まっていた。1895年 クリスチャンセンは商船隊に入り7年間勤務し、1901年にはMTBに志願した。1年後に彼は商船隊に戻り、2等航海士として数年間5本マストのプロイセン号英語版(当時、世界最大の帆船)に乗船した。1913年にクリスチャンセンはこの経歴から離れることを決意し、飛行術を学んだ。卒業しパイロット免許No.707を手にすると、彼は民間の飛行学校で教官となった。

第一次世界大戦の軍歴[編集]

1914年8月クリスチャンセンは召集され海軍の飛行士としてジーブリュッケ英語版に配属された。彼はハンザ・ブランデンブルク W.12水上機に搭乗し、北海、英国海峡や英国上空を飛んだ。ドーバーラムズゲート爆撃の戦功により彼は2級鉄十字勲章を受勲した。1915年 - 1916年にクリスチャンセンは、ジーブリュッケの自分の戦隊をドイツ海軍の最も成功した飛行隊の1つに育成するのに寄与しながら、数多くの偵察、爆撃任務に出撃し続けた。1916年4月27日クリスチャンセンは、海軍砲兵少尉として1級鉄十字勲章とホーエンツォレルン騎士十字勲章英語版を受勲した。

クリスチャンセンは、自身の空戦での最初の勝利は1917年5月15日のドーバー上空でのソッピース パップ撃墜であると主張している。1917年9月1日彼はジーブリュッケの海軍航空基地の指揮官になると同時に中尉に昇進した。同日、クリスチャンセンはフェリックスストウ英語版上空でポルテ F2B ベイビー英語版を撃墜した。

クリスチャンセンは、1917年12月まで偵察、救難、爆撃任務に出撃し続け、飛行船C27撃墜を含める計440回の出撃をした。この時点で彼は、海軍の飛行士に授けられた僅か3つのうちの最初で水上機の飛行士では唯一のプール・ル・メリット勲章(「ブルーマックス」)も受勲していた。[1]クリスチャンセンは1918年に大尉に昇進した。

1918年2月15日クリスチャンセンはフェリックスストウ上空でカーティス H12B フライングボート英語版を、4月24日4月25日には更に2機を、6月には3機以上のフェリックスストウ F2A英語版を撃墜したと主張した。7月6日に彼はテームズ河口で英国の潜水艦HMS C25に奇襲をかけ、艦長と兵員5名の損害を負わせた。ドイツ海軍当局はこれを敵機撃墜に等しいと認定し、彼のスコアに1機追加された。航空機でない物にスコアが認定された極めて珍しい例である[2]1918年11月11日までにクリスチャンセン個人の撃墜数は総計13機にのぼり、何機かの共同撃墜数を加えると累計21機にもなった。

戦中間の活動[編集]

左からミルヒ、ネーゲル、オーネゾルゲ、クリスチャンセン(1937年)

1918年暮れのドイツ革命の後、クリスチャンセンはヴィルフェルト・フォン・ローヴェンフェルト率いる第3海兵旅団に参加した。1922年に彼は船長として再び商船隊の勤務に就いた。クリスチャンセンは1929年クラウディウス・ドルニエの会社にパイロットとして雇われるまで商船隊での仕事を続けた。ドルニエで勤務する間の1930年、彼は当時世界で最大の飛行艇ドルニエ Do Xニューヨークまでの大西洋横断初飛行を行った。自身の華々しい経歴により結局クリスチャンセンは航空省によばれ、1933年から1937年までそこでの役職に就いた。1936年には少将に昇進した。

1937年国家社会主義ドイツ労働者党に入党(党員番号800,471)。同時に国家社会主義航空軍団(NSFK)の軍団長に任命され、中将に昇進した。軍団長の地位は1943年にアルフレート・ケラー英語版と交代するまで保持している。1938年に彼は航空兵大将に任ぜられた。

第二次世界大戦の軍歴[編集]

左からザイス=インクヴァルトミュッセルト、クリスチャンセン、ヒムラー(1942年)

1940年5月29日から1945年4月7日までクリスチャンセンはオランダ駐留ドイツ国防軍総司令官を務め、1944年1月28日から1945年1月までは第25軍の司令官を兼務した。

戦後、クリスチャンセンは戦争犯罪の罪で逮捕された。彼は1944年10月2日にオランダのヘルダーラント州プテンの村の一斉検挙の命令を出していた。これはその地でドイツ軍のゾマース中尉がオランダのレジスタンスにより殺害されたことへの報復であった。プテン近郊のレジスタンス活動の報告を聞いたときクリスチャンセンがこう言ったと記録されている。「やつら全員を壁に向けて立たせて、そこを焼き払え!」この報復感情に従って何名かの民間人が射殺され、村は焼き払われ、街の661名の男達は労働キャンプに強制移送された。彼らの大多数は帰ってこなかった。

クリスチャンセンは1948年アーネムで12年の禁固刑を宣告されたが1951年12月に釈放された。アウクルク英語版で死去した。

参考文献[編集]

  • T. C. Treadwell & A. C Wood, German Knights of the Air, 1914-1918; The Holders of the Orden Pour Le Merite, Barnes & Nobel Books (UK)Ltd, 1997.
  • K. Munson, Fighters- Attack and Training Aircraft, 1914-1919, The MacMillian Company, 1969, (first published Blandford Press, Ltd, 1968)
  • O'Connor, M. Airfields & Airmen of the Channel Coast. Pen & Sword Military, 2005 ISBN 1-84415-258-8

出典[編集]

  1. ^ O'Connor, M. p.50
  2. ^ 「TACTICS」No11、P80-81。
軍職
先代:
創設
Balkenkreuz.svg 第25軍司令官
1944年 - 1945年
次代:
ギュンター・ブルーメントリット
先代:
創設
Balkenkreuz.svg オランダ駐留軍総司令官
1940年 - 1945年
次代:
解体
党職
先代:
創設
NSFK Wimpel Fördernde Mitglieder.svg 国家社会主義航空軍団軍団長
1937年 - 1943年
次代:
アルフレート・ケラー英語版