ボボ・ブラジル
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ボボ・ブラジル | |
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![]() 1972年 | |
プロフィール | |
リングネーム |
ボボ・ブラジル ブーブー・ブラジル |
本名 | ヒューストン・ハリス |
ニックネーム | 黒い魔神 |
身長 | 195cm |
体重 | 127kg(全盛時) |
誕生日 | 1924年7月10日 |
死亡日 | 1998年1月20日(73歳没) |
出身地 |
![]() ミシガン州ベントンハーバー |
スポーツ歴 | 野球 |
トレーナー | Joe Savoldi |
デビュー | 1951年 |
引退 | 1990年代 |
ボボ・ブラジル(Bobo Brazil)のリングネームで知られるヒューストン・ハリス(Houston Harris、1924年7月10日 - 1998年1月20日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミシガン州ベントンハーバー出身のアフリカ系アメリカ人。20世紀を代表する黒人プロレスラーの1人。日本では「黒い魔神」と呼ばれて人気を博し、日本プロレスと全日本プロレスに通算15回来日した。リングネームの「ブラジル」は「人種差別の無いブラジルに行きたい」という子供の頃の夢から。
来歴[編集]
プロ野球(ニグロリーグ)選手を経て(事実ではないという説もある)、1951年にプロレスラーとしてデビュー。2メートル近い強靭な肉体と、「ココバット」、またはアイアンヘッドバットと称された頭突きを必殺技にトップスターとなった。1957年8月に日本プロレスに初来日。ココバットで力道山を苦しめた。
アメリカではNWA、WWWF、WWA(ロサンゼルス版)、WWA(インディアナポリス版)、NWFなど主要各団体を縦断し、絶対的なベビーフェイスとして各地で活躍した。特にザ・シークとは東部マットで十数年にわたって繰り広げられた抗争で知られる。1966年には西海岸のロサンゼルスでバディ・キラー・オースチンを破りWWA世界ヘビー王座を獲得、1968年に2度目の戴冠を果たした。
同年6月、WWA王者として11年ぶり2度目の来日が実現。力道山亡き後の日本プロレスのエースとして強豪相手に防衛記録を積み重ねていたジャイアント馬場を破りインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した。直後に行われた再戦で、馬場の必殺技「32文ロケット砲」三連発に沈みタイトルを奪回されたが、その後も日本プロレスの常連となって度々来日した。馬場のインター王座の他、馬場とアントニオ猪木が保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦、1969年には第11回ワールド大リーグ戦に参加した。1972年12月に馬場の返上で空位となっていたインター王座を「頭突き世界一決定戦」と呼ばれた大木金太郎戦で勝利し、再び獲得した。しかし、また直後に行われた再戦で大木に敗れている。
1973年2月に全日本プロレスに参戦し、以降同団体の常連となる。すでに50歳近くになっており、往時の強さは薄れつつあったが、それでもエース格として再三来日し、馬場のPWFヘビー級王座に度々挑戦、ジャンボ鶴田の試練の十番勝負の相手を務め、インタータッグにもパートナーを変えつつ挑戦、ジャック・ブリスコのNWA世界ヘビー級王座に挑戦したこともあったが、全日本マットでは1度も王座奪取を果たせなかった。1978年と1979年には日本でアブドーラ・ザ・ブッチャーとの黒人大型コンビが実現したが、衰えは隠せず戦績も悪化し、79年が最後の来日となった。この時は大木との石頭コンビも実現した。
その後もアメリカではレジェンドとして全米各地のマットに上がり、1990年代初頭まで活躍した。後にWWWFでの功績が認められ1994年にWWF殿堂入り。インダクターは黒人レスラーの後輩で、かつてのパートナーであり、抗争相手でもあったアーニー・ラッドが務めた。1998年1月20日、脳梗塞により死去。73歳没。2013年にはNWA殿堂に迎えられた。
プロレス界でのボボ・ブラジル[編集]
黎明期のプロレス界においてボボ・ブラジルは代表的な黒人レスラーであり、その地位の向上に貢献した。アメリカでは「プロレス界のジャッキー・ロビンソン」と評されることもある。人種差別が色濃い時代に、好奇な目線の中で日米のリングで圧倒的な強さを見せ付けた。全盛期のボボ・ブラジルは大柄な体型にもかかわらず動きにキレがあり、長身から繰り出される必殺技「ココバット」は単純な技ながら破壊力は抜群で、大木金太郎との「頭突き世界一決定戦」では石頭で知られる大木でさえ何度もよろめいた。
当初は、「Boo-Boo Brazil (または Bubu Brazil):ブーブー・ブラジル」というリングネームだったが、プロモーターのミスで「BoBo Brazil:ボボ・ブラジル」と印刷してしまい[1]、それ以来ボボ・ブラジルをリングネームにしてしまった。ボボリンクという鳥の名に由来するという説もある。なおブラジルポルトガル語で、「Bôbo」とは「馬鹿な、愚かな」という意味があるので、彼をブラジル人だと誤解する人も少なくなく、そのように誤解される向きもあるが、命名の由来からこれは正しくない。
全日本プロレスに参戦していたレスラー晩年期は、リング上で手渡された花束にムシャムシャかぶりつくパフォーマンスで異様な雰囲気を演出しようとしていた。理由には諸説あり、ザ・デストロイヤーの自伝『マスクを脱いだデストロイヤー』(ベースボール・マガジン社刊)によれば、リング上でヒールとして振舞う方法をボボ・ブラジルから尋ねられた際、黄色い花の花束を食いちぎるようにデストロイヤーがアドバイスしたためである。ブラジル本人によると、正統派としてデビューした弟を表に出すためわざと奇行をとったとのこと(ただし、最初にこのパフォーマンスを行ったのは、弟とタッグを組んだ日よりも前の試合である)。
得意技[編集]
- ココバット
- ジャンプして上から叩きつけるような形のヘッドバット(「アイアンヘッドバット」と呼ぶ場合もある)。彼の必殺技であり、代名詞的な技。長身の彼がジャンプして放つ躍動感のあるヘッドバットは、単なる頭突きと言うより彼しか出来ないオリジナル技といえる。
- ブルドッギング・ヘッドロック
- パイルドライバー
- ドロップキック
- この技1発を当てただけで勝利するという、わずか5秒の試合をしたことがある。
獲得タイトル[編集]
- WWA世界ヘビー級王座(ロサンゼルス版):2回
- WWAインターナショナルTVタッグ王座:4回(w / ウイルバー・スナイダー×2、サンダー・ザボー、プリモ・カルネラ)
- WWA世界ヘビー級王座(インディアナポリス版):2回
- WWA世界タッグ王座(インディアナポリス版):1回(w / クリス・カーター)
- ESA北米ヘビー級王座:1回
- NWAアメリカス・ヘビー級王座:3回
- NWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座:1回
- NWAビート・ザ・チャンプTV王座:1回
- NWA USヘビー級王座(サンフランシスコ版):1回
- NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):2回(w / エンリケ・トーレス)
- NWA USヘビー級王座(デトロイト版):9回
- NWA世界タッグ王座(デトロイト版):8回(w / アート・トーマス、ビル・ミラー、Athol Layton、ザ・ストンパー、トニー・マリノ×3、フレッド・カリー)
- NWA USヘビー級王座(トロント版):1回
- NWAカナディアン・オープン・タッグ王座:1回(w / ホイッパー・ビリー・ワトソン)
- NWA USヘビー級王座(ミッドアトランティック版):1回
- NWA殿堂:2013年度
逸話[編集]
- 巡業で九州に入ると、観客が「ボーボ!ボーボ!」と熱狂的に声援を送った。因みに九州弁では女陰を「ボボ」と呼ぶためプロレス中継では「ブラジル」と実況された。
- 漫画およびテレビアニメ『タイガーマスク』にも登場。アニメ版では「ポポ・アフリカ」というレスラーに差し替えられた。なお、『タイガーマスク』ではルー・クライン(レッド・バスチェンの異父兄に当たる実在のプロレスラー)とタッグを組み、タイガーマスクとジャイアント馬場とのタッグマッチに挑んで敗北を喫した後、「ブラックV」という弟子のプロレスラーをタイガーマスクの刺客として送り込んでいる。
- 弟のハンク・ジェームスもプロレスラーで、兄弟コンビでも来日している。しかし、ジェームスはブラジルのパートナーとしては実力が伴わず、1970年1月に日本初の兄弟コンビでジャイアント馬場&アントニオ猪木のインターナショナル・タッグ王座に挑戦した時にはジェームスがねらい打ちにされストレート負けを喫した。あまりのふがいなさに試合後ブラジルは、控室でジェームスに鉄拳制裁を加えたという[2]。ブラジルは1975年6月にも全日本プロレスにジェームスを帯同し、馬場&ジャンボ鶴田の同王座に兄弟コンビで再挑戦したが、このときも敗退している[2]。
- ロックバンド "cocobat" の名前の由来は、彼の技からである。
脚注[編集]
- ^ “bobo brazil”. www.wwe.com. 2019年1月19日閲覧。
- ^ a b 『THE WRESTLER BEST 1000』P14(1996年、日本スポーツ出版社)
外部リンク[編集]
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