ポプラレス

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ポプラレス: Populares)は、共和政ローマ末期の政治一派とされてきた用語。日本語では民衆派平民派と呼ばれる。現在専門家の間ではそのような単純な対立構造はなかったと考えられている[1]。詳しくはオプティマテス参照。

従来、共和政末期に戦争によって中小農民が土地を手放し、支配階層であるノビレスによる大土地所有が進んだため、支配層に対抗して没落農民の救済のために改革が行われてきたと説明されてきたが、近年の発掘調査からはそのような傾向は確実には読み取れないことが明らかとなった。また、史料から中小農民の没落を読み取ろうとする動きもあったが、限られた情報から確定するには至っていない[2]。同じ文脈で解説されるマリウスの軍制改革による職業軍人化という見方にも、否定的な研究が出てきている[3]。無理な二極化によって、例えばグナエウス・ポンペイウスは閨閥派→民衆派→閨閥派とまるで宗旨替えを繰り返したかのような印象を与えるなど、時代背景の理解に支障をきたしているという指摘があり、状況に応じて「マリウス・キンナ派」「カエサル派」といった具合に区別すべきだとしている[4]

従来の説明[編集]

共和政ローマの政治を主導してきた元老院に対し、平民の支持を基盤に政治を行おうとした一派をポプラレスという(これに対し、従来通り元老院主導による政治を行おうとする者たちを総じてオプティマテス、閥族派、元老院派と呼ぶ)。

当時のローマは、ラティフンディウムの発展により、広大な土地や奴隷を多数所有し大規模農場を経営する貴族や富豪が勃興し、これに対抗できない自作農が没落した。自作農の多くが農地を失い、財産を持たないプロレータリ(無産市民)となった。これは一定以上の財産を持つローマ市民を徴兵して軍事を維持していた共和政ローマにとっては、軍事力の低下という大きな問題ともなった。

ポプラレスは、そのような当時のローマ社会を是正するため、没落した平民らに農地の分配、その他の救済処置を行おうとした。しかしそうした改革は、既存の権力機構である元老院からは快く思われず、両者は対立関係にあった。

歴史[編集]

ポプラレスと考えられる最初の政治家はグラックス兄弟である。彼らは市民集会を政治基盤とし、護民官に就任して改革を試み、貴族の土地所有を制限し平民に農地を分配しようとしたが、元老院の抵抗に遭い改革は失敗に終わる。しかしこのときから、ポプラレスとオプティマテスの争い、ひいては内乱の一世紀の幕が開ける。

ポプラレスはガイウス・マリウス執政官に就任していた頃に大きく勢力を伸ばした(マリウス派)。マリウスは軍制改革によって軍を従来の徴兵制から志願兵制に切り替え、貧民出身の志願兵を雇用することで、グラックス兄弟とは別の形で没落した平民を救済すると同時に、ローマの軍事を建て直した。だが、伸長したポプラレスはマリウスの死後、オプティマテスのルキウス・コルネリウス・スッラ独裁官に就任すると、その多くが粛清された(最後のマリウス派、クィントゥス・セルトリウス反乱英語版、3次の奴隷戦争)。

紀元前78年のスッラ死去後、ポプラレスからガイウス・ユリウス・カエサルらが台頭し、第一回三頭政治を行う。三頭政治はかつてグラックス兄弟が頓挫した農地改革を実行し、オプティマテスを一時封じ込めた。しかしオプティマテスはポンペイウスを寝返らせてカエサルと軍事衝突に及び(ローマ内戦)、カエサルが勝利して独裁権力を握り、ポプラレスは最盛期を迎える。

その後、オプティマテスによってカエサルは暗殺されるが、彼の後継者であるガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス、カエサルの部下であるマルクス・アントニウスマルクス・アエミリウス・レピドゥスによって第二回三頭政治が結成されると、オプティマテスが多数粛清された。その後、ポプラレス同士であるオクタウィアヌスとアントニウスの権力闘争となり、政治一派としてのポプラレスの意義は薄れていった。

出典[編集]

  1. ^ 鷲田, p.75.
  2. ^ 砂田(2008), pp.2-8.
  3. ^ 砂田(2018), p.16.
  4. ^ 鷲田, pp.82-83.

参考文献[編集]

  • 砂田徹『「グラックス改革」再考』北海道大学文学部西洋史研究室、2008年。
  • 砂田徹『共和政ローマの内乱とイタリア統合 退役兵植民への地方都市の対応』北海道大学出版会、2018年。
  • 鷲田睦朗『「民衆派」と「閥族派」は滅ぼさねばならない:ローマ共和政後期における政治状況の理解に向けて』大阪大学西洋史学会、2020年。

関連項目[編集]