ポートランド (重巡洋艦)

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USS Portland (CA-33) 30 July 1944.jpg
艦歴
発注 1929年2月13日
起工 1930年2月17日
進水 1932年5月21日
就役 1933年2月23日
退役 1946年7月12日
その後 スクラップとして売却
除籍 1959年3月1日
性能諸元
排水量 9,950トン
全長 610 ft 3 in (186 m)
全幅 66 ft 1 in (20.1 m)
吃水 17 ft 1 in (5.2 m)
機関 パーソンズ式タービン、4軸推進、107,000 shp
最大速力 32.7ノット (61 km/h)
航続距離 10,000 海里/15 ノット
乗員 士官、兵員848名
兵装 55口径8インチ三連装砲 3基
25口径5インチ単装砲 8門
12.7mm機銃 8丁
艦載機 水上機 4機
射出機 2基

ポートランド (USS Portland, CA-33) は、アメリカ海軍重巡洋艦ポートランド級重巡洋艦の1番艦。艦名はメイン州ポートランドに因む。姉妹艦はインディアナポリス[注 1]

艦歴[編集]

ポートランドの建造は1929年2月13日に認可された。1930年2月17日にマサチューセッツ州クインシーベスレヘム・スチールで起工し、1932年5月21日にラルフ・D・ブルックス夫人によって進水、1933年2月23日に艦長H・F・リアリー大佐の指揮下就役した。

1933年4月1日にボストンを出港しポートランドは4月3日にニューヨーク州グレーヴズエンド湾英語版に到着する。翌晩、飛行船アクロン (USS Akron, ZRS-4) が海上に墜落したとの知らせを受け、ポートランドはその36分後に出航した。ポートランドは現場に到着した最初の艦艇となり、救助および探索を開始した。この事故で航空局長であるウィリアム・A・モフェット提督を含む73名が死亡した。

ポートランドは1935年10月2日にカリフォルニア州サンディエゴを出航し、フランクリン・ルーズベルト大統領が乗艦したヒューストン (USS Houston, CA-30) に続いた。翌日大統領とその一行は魚釣りを楽しむ。パナマといくつかの港を訪問した後、2隻の巡洋艦はサウスカロライナ州チャールストンへ向かい、大統領はここで下艦した。

太平洋艦隊の演習中に、ポートランドは1936年5月20日に初めて赤道を越えた。その後戦争が始まるまでポートランドは第5巡洋戦隊の一部として平時訓練と親善訪問を続けた。

1942[編集]

日本軍による真珠湾攻撃当日、ポートランドは空母部隊と共にミッドウェー島に向かう途中にあった。その後1942年5月まで西海岸ハワイフィジーで作戦活動を行う。

ポートランドはトーマス・C・キンケイド少将率いる攻撃部隊に所属し、日本軍が5月4日から8日にかけて行ったポートモレスビー攻略に伴う珊瑚海海戦に参加した。この戦いで空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) が失われ、ポートランドはレキシントンの生存者722名を救出した。続くミッドウェー海戦ではフランク・J・フレッチャー少将率いる第17任務部隊に所属し空母の護衛任務を担当した。8月7日から9日にはソロモン諸島ガダルカナル島ツラギ島に上陸する海兵隊の支援を行う。その後同海域に留まり連合軍の補給線の防衛任務に従事した。

ミッドウェー海戦で撃沈されたヨークタウンの生存者をフルトンに移乗させるポートランド、1942年6月7日

8月23日から25日にかけて行われた第二次ソロモン海戦(連合軍呼称、東ソロモン海戦)では[2]、連合軍は空母龍驤[3]と輸送船金龍丸および駆逐艦睦月を撃沈し[4]、日本軍のガダルカナル島への増援を阻止することに成功した[5]。空母エンタープライズが中破し、同艦所属機はヘンダーソン基地に配備された[6]

その後ポートランドは一旦引き返し、部隊に再合流するためアトランタ型軽巡洋艦サンフアン (USS San Juan, CL-54)を伴って南太平洋に向かった[注 2]。 その途中の10月15日、マーロン・S・ティスデール英語版少将指揮下のポートランドとサンファンはタラワ南方を通過中、砲撃訓練を兼ねてタラワ近海の日本軍艦艇を襲撃する[8][9]。日本軍タラワ守備隊は接近するポートランドを日本軍輸送船と勘違いしており、砲撃開始直前にようやく異変に気付いた[10]測量艦筑紫に至っては、発砲されるまでポートランドを最新鋭の大和型戦艦武蔵と思っていたという[11]。 ポートランドは、まずタラワ在泊の測量艦筑紫に対して艦砲射撃を行い、次いでタラワに入港しつつあった特設巡洋艦浮島丸大阪商船、4,730トン)、特設給糧艦日立丸(日産汽船、6,540トン)、駆逐艦夕凪(第29駆逐隊)に対して砲撃を行った[12][13]。さらにSOCシーガル水上観測機を発進させ、着弾観測や小型爆弾による空襲を実施させた[14]。ポートランドの砲撃や空襲により、筑紫の内火艇が沈没した他、日立丸の便乗者に死傷者が出た[15]。約30分間の艦砲射撃後、ポートランドはタラワ島環礁の目前で水上偵察機を回収し、同島から離れていった[16]。タラワでは艦砲射撃がはじまると共に、同島守備隊の横須賀鎮守府第六特別陸戦隊が民間人抑留者を含む捕虜22名を処刑してしまった[17]。『戦史叢書62巻』では「横六特司令は、この米巡洋艦の来襲を、当時各島掃蕩の際、捕えた捕虜の奪還の前兆と判断していた。」と記述している[15]

ポートランドはタラワのほかアベママ英語版マイアナの両環礁に対しても砲撃を行い、サンフアンも赤道以南のギルバート諸島内を遊弋[18]。日本軍の特設監視艇2隻が配備点で「敵巡洋艦と交戦」を報告したあと行方不明となった[15]。この巡洋艦がサンフアンであった[18]。日本側は反撃のため九七式大艇一式陸攻を繰り出したが、アメリカ巡洋艦2隻はすでに去った後だった[14]

10月26日、27日の南太平洋海戦においてポートランドは空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) の護衛を担当した。この戦闘で連合軍側は空母ホーネットと駆逐艦ポーターを喪失する[19]。空母エンタープライズ、戦艦サウスダコタ、軽巡サンフアン等が若干の被害をうけた[19]

2週間後、ポートランドは第三次ソロモン海戦に参加する。11月12日、ダニエル・J・キャラハン少将とノーマン・スコット少将の巡洋艦と駆逐艦戦隊が護衛するアメリカ軍高速輸送船団はガダルカナル島に到着、ルンガ岬沖合で揚陸作業を開始した[20]。連合軍艦隊は一式陸上攻撃機による空襲を撃退したが、サンフランシスコが小破した[21]。 この時、日本軍はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃のため、第十一戦隊司令官阿部弘毅少将が指揮する金剛型戦艦2隻(比叡霧島)を中核とした挺身攻撃隊を送り込んでいた[22][注 3]。 アメリカ軍は高速輸送船団を避退させると共に、同部隊を護衛していた巡洋艦戦隊を金剛型戦艦にぶつけた[25]キャラハン少将の指揮する重巡洋艦2隻(サンフランシスコ、ポートランド)、軽巡洋艦3隻(アトランタ、ヘレナ、ジュノー)、駆逐艦8隻から成るアメリカ艦隊は[26][27]、不満を抱きながら金剛型戦艦に立ち向かった[25]。11月13日午前0時頃よりはじまった夜戦は「停電した酒場の乱闘」と化した[28]。1時58分、ポートランドは右舷に魚雷の直撃を受ける。スクリュー2本を損傷しは5度右に傾いた。また3番砲塔の揚弾筒が損傷し砲塔は旋回不能となった。舵の損傷はバラスト調整による角度修正で補われたが、航行要員の補充は行えず、艦は右方向への旋回を余儀なくされた。

1度目の旋回が終わろうとするとき、比叡が炎上する他の艦の炎によって照らされ[注 4]、ポートランドは前方の砲塔で射撃を行った。比叡も応射したものの命中することはなく、ポートランドは8インチ砲4門による一斉射撃で比叡に直撃弾を与えた[注 5]。 6時30分、依然旋回中であったポートランドは、サボ島の南で損傷した時雨級駆逐艦1隻を発見した[30]。ポートランドは放棄された駆逐艦夕立(第2駆逐隊)[31]の船体に対して6マイルの距離から砲撃を行う。駆逐艦五月雨(第2駆逐隊)は夕立乗組員を収容したあと同艦自沈処分のため現場に留まっていたが、敵重巡洋艦(ポートランド)の接近を見て戦場を離脱していった[32][33]。ポートランドの6度目の一斉射撃の後、夕立は爆発、転覆し5分以内に沈没した。 サボ島周辺で舵復旧につとめていた比叡は、ルンガ方面距離約24Kmに損傷巡洋艦を発見した[34]。後部主砲でポートランドを砲撃したが[35]、命中しなかった[注 6][注 7]。ポートランドはアイアンボトムサウンドからの離脱に成功し、比叡はB-17型重爆やエンタープライズ所属機の空襲により損傷が拡大、自沈した[37][38]

上陸用舟艇および港内哨戒艇、タグボートの支援を受け、ポートランドは11月14日にツラギ島に停泊した。続いてオーストラリアシドニーに曳航され応急修理が施される。サモアおよび真珠湾を経由して、1943年3月3日にメア・アイランド海軍造船所に到着した。

1943 - 1944[編集]

レイテ島を砲撃するポートランド

南部カリフォルニア水域で運用訓練を行った後、ポートランドは5月後半にアリューシャン列島に向けて出航し、6月11日に到着、7月26日にキスカ島に向けて砲撃を開始する。8月17日に小キスカ島への偵察上陸部隊に対する支援射撃を行った後戦場を離脱し、9月23日に真珠湾に到着、10月初めにサンフランシスコに帰還する。その後10月半ばに再び真珠湾に到着した。

1943年11月から1944年2月までポートランドはギルバート・マーシャル諸島の戦いに参加した。その後3月30日、4月1日にパラオヤップウルシー環礁ウォレアイ環礁に対する空母攻撃部隊の護衛を行った。

ポートランドは続いて空母部隊と共にホーランディアタナメラへの上陸支援を4月21日から24日にかけて行う。その後トラック島攻撃部隊の一部として、他の5隻の巡洋艦、駆逐艦と共に北方に向かい、ポートランドはサタワン環礁への砲撃を行った。

一連の任務が完了するとポートランドはオーバーホールのためメア・アイランド海軍造船所へ向かう。オーバーホール後戦線復帰すると9月12日から14日にかけてペリリュー島への上陸前艦砲射撃を行った。上陸作戦は9月15日に始まり、ポートランドは5日間にわたって支援射撃を行い、日本軍の拠点を破壊した。ポートランドは9月29日までペリリューで艦砲射撃を行い、その後マヌス島ゼーアドラー湾に向かった。

続いてフィリピンへの攻撃部隊に加わったポートランドは、10月17日にレイテ島に到着、翌日レイテ湾入りした。ポートランドは上陸前艦砲射撃を行い、日本軍の抵抗を撃退した。

10月24日から25日にかけて行われたレイテ沖海戦太平洋戦争における最大規模の海戦となった。10月25日未明のスリガオ海峡海戦では第二戦隊司令官西村祥治中将率いる日本艦隊(第一遊撃部隊第三部隊、通称「西村部隊」または「西村艦隊」)とジェシー・B・オルデンドルフ少将率いるアメリカ艦隊の砲雷撃戦となる。西村部隊は海峡を交差したがアメリカ艦隊による丁字戦法で砲撃と魚雷の集中砲火を浴び、夜戦と追撃戦で5隻(山城扶桑満潮山雲朝雲)が沈没、西村中将も戦死し、海峡を離脱できたのは航空巡洋艦最上と駆逐艦時雨だけだった[注 8]

1945[編集]

戦艦ペンシルベニアと、後続のコロラドルイビル、ポートランド、軽巡洋艦コロンビア。1945年1月

1945年1月3日から3月1日まで、ポートランドはリンガエン湾、コレヒドールでの戦いに参加した。1月5日にリンガエン湾沖に到着、ボリナオ岬へ砲撃を行い、同日湾内に入ると東岸部への砲撃を開始した。しかし日本軍による激しい特攻が始まり、砲撃は直ちに中止された。

ポートランドは2月15日にマニラ湾に入り、コレヒドール島南岸に対して上陸前の砲撃を始める。その後3月1日にレイテ湾に帰還し、5ヶ月ぶりの修理および補給に入る。

3月26日から4月20日まで沖縄戦での支援作戦に従事したポートランドは、24回の敵の攻撃を受け、敵機4機を撃墜、2機の破壊を支援した。5月8日から沖縄に対する砲撃および占領支援を行い、6月17日に維持作業のためレイテ島に向かう。8月6日に中城湾に到着すると維持作業および訓練を開始する。

8月15日に日本は降伏し、ポートランドはジョージ・D・マレー中将の旗艦となる。ポートランドはトラック島に向かい、ここでニミッツ提督の代理となるマレー中将が日本軍の降伏調印文書を受理した。

ポートランドは9月21日に真珠湾を訪れ、24日まで停泊した。真珠湾では600名の帰還兵を乗艦させた。10月8日にパナマ運河を通過、10月27日にメイン州ポートランドで海軍記念日の記念式典に参加する。1946年3月11日にフィラデルフィア海軍造船所に入り、不活性化および予備役艦隊への配属が行われた。ポートランドは1946年7月12日にフィラデルフィアで退役し、1959年3月1日に除籍された。1959年10月6日にニューヨークのユニオン・ミネラルズ・アンド・アロイ社に売却され、1961年から62年にかけてフロリダ州パナマシティのウェインライト造船所で解体された。

ポートランドは第二次世界大戦の戦功で16個の従軍星章を受章した。

出典[編集]

[編集]

  1. ^ 一等巡洋艦 ポートランド Portland 全要目{排水量9,800噸 速力32.7節 備砲20糎砲9門 12.7糎高角砲8門 起工1930年2月 竣工1933年2月 建造所ベスレヘム造船會社}これは米國一等巡洋艦第二次計畫に属する7隻中の第一艦で、全長177.99米、幅22.36米、平均喫水5.33米。高角機銃8門 魚雷發射管はこの艦から廢止してしまった。特に前檣の基本部を強固にして各部を廣くし外後部煙突附近を改善し格納庫、其他の區劃をもうけこゝに8門よりなる高角砲臺(白く包んであるもの)を形成して防空設備の完璧を期してゐるのは注目すべきであらう。前檣はやゝ高くなった。なほ定員は551名に減少している。
    同型艦インディアナポリス Indianapolis 排水量9,950噸の外ポートランドとすべて同一。1930年3月起工、1932年11月竣工、ニューヨーク造船會社の産。[1]
  2. ^ 『戦史叢書62巻』185ページなど、複数の二次資料で同行艦を軽巡洋艦ジュノー (USS Juneau, CL-52) と記述するが[7]、実際は同型艦のサンファンであった。
  3. ^ 挺身攻撃隊(指揮官阿部弘毅少将)は[23]、第十一戦隊(比叡、霧島)、第十戦隊(司令官木村進少将:旗艦長良、第6駆逐隊〈〉、第16駆逐隊1小隊〈雪風天津風〉、第61駆逐隊〈照月〉)、第四水雷戦隊(司令官高間完少将:旗艦朝雲、第2駆逐隊〈村雨五月雨夕立春雨〉、後方警戒/第27駆逐隊〈時雨白露夕暮〉)[24]
  4. ^ 旗艦比叡は戦闘開始と共に探照灯を照射したため集中射撃を浴びて炎上、通信機能を失っていた[29]
  5. ^ なお比叡の舵機室上方(右舷水線付近)に命中した20㎝砲弾は不発だったが、直径約2.5の破孔から浸水がはじまり舵が故障、行動不能となった[29]
  6. ^ 比叡では主砲数斉射をはなったあと敵巡洋艦の姿が見えなくなったので、士気をあげるため撃沈と報じた[34]
  7. ^ 未曾有の大激戰 あの第三次ソロモン海戰で、わが戰艦が一隻沈没したのですが、その最期は戰史に殘る壮烈なものでした。十二日夜、わが戰艦が核心となつて、補助部隊とともに敵艦隊を攻撃、巡洋艦七隻、驅逐艦三隻を撃沈、巡洋艦二隻大破、驅逐艦十隻を大中破したのですが、明けて十三日朝、ガダルカナル島方面の敵飛行機百餘機がわが戰艦めがけて來襲しました。/ これを一身に引受けたわが戰艦は、百餘機の敵機に對し猛烈な攻撃を行ひ、敵機多數を撃墜したのですが、つひに戰艦も満身創痍の損害を受けたこの時、サボ島の島かげから一隻の敵大型巡洋艦がわれに止めを刺さんとして出撃して來たのです。/ わが戰艦は莞爾としてこれを邀へ撃ち、戰艦は敵巡洋艦に最後の巨彈を酬い、忽ちこれを撃沈したのですが、その後、わが戰艦は長時間の奮戰の後、つひに沈没したのです。/ その凄烈な奮戰ぶりがまるで眼に見えるやうで、私どもの感奮を促してやみません。/ これこそ、正しく敵にわが皮を切らせて、敵の肉を切り、わが肉を切らして骨を切らんとする眞劍勝負であり、決戰であつたのです。/ そしてまたガダルカナル島をめぐつて、彼我陸兵の死闘も執拗につゞけられてゐます。[36]
  8. ^ 重巡最上は日中の空襲で航行不能となり、志摩艦隊の駆逐艦によって雷撃処分された。

脚注[編集]

  1. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 113(原本208-20頁)一等巡洋艦 ポートランド
  2. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 137東ソロモン海戦(日本側呼称、第2次ソロモン海戦)
  3. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, pp. 135-136.
  4. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 142.
  5. ^ 戦史叢書83 1975, p. 68.
  6. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, pp. 140-142.
  7. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 184a-185米巡洋艦に撃沈された海形丸、久榮丸
  8. ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 296-298浮島丸、米巡洋艦に襲わる(十月)
  9. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 183a-184来襲した米巡洋艦を逸す
  10. ^ 戦史叢書62 1973, p. 183b.
  11. ^ 変わりダネ軍艦奮闘記 2017, pp. 31-33武蔵と思いきや敵巡!
  12. ^ #S17.04二海護(3) p.10(昭和17年10月)〔 参考(一)麾下艦船部隊ノ行動 〕、同部隊戦時日誌 pp.22-23(経過概要、10月15日~16日参照)
  13. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
  14. ^ a b 日本軽巡戦史 1989, p. 297.
  15. ^ a b c 戦史叢書62 1973, p. 184b.
  16. ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 298.
  17. ^ 谷浦英男 2000, pp. 220-222.
  18. ^ a b 戦史叢書62 1973, p. 185.
  19. ^ a b 戦史叢書83 1975, pp. 310-311戦果の判定
  20. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 252.
  21. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, pp. 253-254.
  22. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 359-360挺身攻撃隊の進撃
  23. ^ #十一戦隊日誌(5) pp.4-5〔 (イ)軍隊区分各隊ノ主要任務 〕
  24. ^ 戦史叢書83 1975, p. 356.
  25. ^ a b トール、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 254.
  26. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 364-365.
  27. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 257ガダルカナル海戦第1段階(日本側呼称、第3次ソロモン海戦)1942年11月13日
  28. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 255.
  29. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 366.
  30. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 258.
  31. ^ #南方部隊作戦史料(第3次ソロモン海戦) p.2〔 敵味方不明駆逐艦四アル中一隻ハ味方駆逐艦ニシテ敵米甲巡之ヲ撃沈セリ 〕
  32. ^ 戦史叢書83 1975, p. 371.
  33. ^ 五月雨出撃す 2010, pp. 145-147.
  34. ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 372.
  35. ^ #十一戦隊日誌(5) p.14〔 〇四〇七ルンガ方向巨離二四粁ニ敵損傷巡洋艦(ホノルル型)一隻ヲ認メ後部主砲群ニ依リ射撃数斉射ニ依リ命中彈アリ之ヲ撃沈ス 〕
  36. ^ #週報第322号 pp.4-5
  37. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 374-375.
  38. ^ トール、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 261.

参考文献[編集]

  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。
  • 塩山策一ほか『変わりダネ軍艦奮闘記 裏方に徹し任務に命懸けた異形軍艦たちの航跡』潮書房光人社、2017年7月。ISBN 978-4-7698-1647-8。
    • (29-36頁)当時「筑紫」機関科員・海軍上等機関兵曹五島順『測量艦「筑紫」南方七〇〇日の航跡 測量艦として建造された唯一の艦も護衛や輸送に投じられ遂に触雷
  • 須藤幸助『駆逐艦「五月雨」出撃す ソロモン海の火柱』光人社〈光人社NF文庫〉、2010年1月(原著1956年)。ISBN 978-4-7698-2630-9。
  • 谷浦英男「第十章 横須賀鎮守府第六特別陸戦隊、タラワ進駐」『タラワ、マキンの戦い 海軍陸戦隊ギルバート戦記』草思社、2000年3月。ISBN 4-7942-0953-3。
  • イアン・トール(著)、村上和久(訳)『太平洋の試練 ガダルカナルからサイパン陥落まで 〈上〉』株式会社文藝春秋、2016年3月。ISBN 978-4-16-390423-8。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで』第83巻、朝雲新聞社、1975年8月。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『週報 第322号」(昭和17年12月9日)「征戦第二年をかく戦はう」』。Ref.A06031048400。
    • 『昭和17年4月10日~昭和19年4月24日 第2海上護衛隊司令部戦時日誌(3)』。Ref.C08030142700。
    • 『4.第3次ソロモン海戦 南方部隊作戦史料 昭和17年(防衛省防衛研究所)』。Ref.C13120088500。
    • 『昭和17年7月14日~昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030051800。

関連項目[編集]