ポーランド継承戦争 (1587年-1588年)

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ポーランド継承戦争
Byczyna battle.jpg
マクシミリアン3世の降伏
1587年秋 – 1588年1月24日
場所ポーランド・リトアニア共和国
結果 「ポーランド派」(ジグムント3世派)の勝利
衝突した勢力
ジグムント3世派
(大多数がポーランド人)
マクシミリアン3世派
(ドイツ人中心、多数のポーランド人・ハンガリー人含む)
指揮官
ヤン・ザモイスキ マクシミリアン3世・フォン・エスターライヒ

ポーランド継承戦争 (ポーランド語: Wojna domowa w Rzeczypospolitej, Wojna o koronę)またはハプスブルク・ポーランド戦争[1]は、1587年から1588年にかけて、ポーランド王リトアニア大公位をめぐってスウェーデン王ジグムント3世ヴァーサを推す派閥とハプスブルク家マクシミリアン3世・フォン・エスターライヒが争った戦争。マクシミリアン3世はポーランド・リトアニア共和国の首都クラクフ攻略に失敗した後、ビチナの戦いで敗れて降伏、ジグムント3世が王位を獲得した。この戦争では、ジグムント3世派のヤン・ザモイスキが宰相・王冠領大ヘトマンとして政軍両方で多大な功績を上げた。 

背景[編集]

1586年、ポーランド王ステファン・バートリが死去したことに伴い国王自由選挙が行われ、ヴァーサ家のスウェーデン王子(後にスウェーデン王にも即位)ジグムント3世ハプスブルク家のフォーダーエスターライヒ大公マクシミリアン3世が候補となった[2][3]。両陣営ともポーランド内に大きな支持基盤を持っており、前者は宰相・王冠領大ヘトマンヤン・ザモイスキやポーランド首座主教グニェズノ大司教)スタニスワフ・カルンコフスキが、後者は大貴族ザボロウスキ家が支援していた[2][3]。以前からザモイスキとザボロウスキ家の間には確執があり、両陣営の対立は日増しに深まっていった[4]

ジグムント3世は、叔母であり先王ステファン・バートリの妃だった女王アンナの支持も受けて、1587年8月19日に国王に選出され、空位期間中にインテルレクスとして王権を代行していたスタニスワフ・カルンコフスキの承認も受けた[3]。しかしマクシミリアン3世とその支持者たちは選挙結果を受け入れず、3日後の8月22日にマクシミリアン3世こそ正統な王であると宣言した[3][5]。ザボロウスキ家は強訴を仕掛け、数人の死者と多数の負傷者を出す混乱の中で選挙が終わった。ここで退けば、領土没収や威信の失墜、さらには反逆罪による死など大きな代償を支払うことになるとわかっていた両陣営は、互いの主張を取り下げなかった[4]

この時点で、ジグムント3世もマクシミリアン3世もポーランド・リトアニア共和国外にいた[3]が、自分が王に選出された(という宣言があった)ことを知り相前後してポーランドに向かった[3]。スウェーデンを発って9月28日にグダニスクに上陸したジグムント3世は約2週間の滞留ののちクラコフへ向かい、12月9日に到着して27日に戴冠式を挙げた[3]

戦争[編集]

マクシミリアン3世は武力に訴えることを選択してオーストリアから軍を率いて侵攻し、ポーランドやハンガリーの支持者を吸収しながらクラコフへ向かった。ここにポーランド継承戦争が勃発した[5]。彼はリュボフニャを占領し、1587年後半にクラクフを包囲した(クラクフ包囲戦)が、ザモイスキに跳ね返された。マクシミリアン3世は一旦後退して兵を集めなおそうとしたが、ジグムント3世派の軍の妨害を受けた[3][5]。そうしているうちに彼はザモイスキの追撃を受けてビチナの戦いで敗北を喫し、降伏した[4]。継承戦争はジグムント3世派の勝利に終わった[4]

その後[編集]

マクシミリアン3世はザモイスキの「客」として13か月拘束されたのち、教皇シクストゥス5世が派遣した使節の仲介により釈放された[4]。1589年3月9日にビトム・ベンジン条約が調印され、マクシミリアン3世はポーランド王位を正式に放棄し、彼の兄の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世ロシアやスウェーデンとの間で対ポーランド同盟を結ばないことを約束させられた[4]。戦争初期にマクシミリアン3世に占領されていたリュボフニャもポーランドに返還された[4]。1598年にマクシミリアン3世は自身にポーランド王位請求権があると言い出した[4][5]が、ハプスブルク側は宗教改革進展による情勢不安、ポーランド側はスウェーデン継承問題というそれぞれの国内問題を抱えており、両国の間の軍事的緊張が再び高まることはなかった。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Tony Jaques (2007). Dictionary of Battles and Sieges: A-E. Greenwood Publishing Group. p. 178. ISBN 978-0-313-33537-2. https://books.google.com/books?id=3amnMPTPP5MC&pg=PA178. 
  2. ^ a b Norman Davies (30 March 2005). God's Playground: The origins to 1795. Columbia University Press. p. 328. ISBN 978-0-231-12817-9. https://books.google.com/books?id=07vm4vmWPqsC&pg=PA328. 
  3. ^ a b c d e f g h Oskar Halecki; W: F. Reddaway; J. H. Penson. The Cambridge History of Poland. CUP Archive. pp. 452–453. ISBN 978-1-00-128802-4. https://books.google.com/books?id=N883AAAAIAAJ&pg=PA452. 
  4. ^ a b c d e f g h Sławomir Leśniewski (2010年3月26日). “Człowiek, który upokorzył Habsburgów: Zamoyski pod Byczyną” (Polish). Polityka. 2011年5月20日閲覧。
  5. ^ a b c d Daniel Stone (1 September 2001). The Polish-Lithuanian state, 1386-1795. University of Washington Press. pp. 131–132. ISBN 978-0-295-98093-5. https://books.google.com/books?id=LFgB_l4SdHAC&pg=PA131.