マッハ隼人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マッハ隼人
プロフィール
リングネーム マッハ隼人(初代)
本名 肥後 繁久
ニックネーム 和製ルチャドール
身長 176cm
体重 98kg
誕生日 (1951-03-05) 1951年3月5日(68歳)
出身地 日本の旗 日本 鹿児島県揖宿郡山川町(現:指宿市
トレーナー ヒロ・マツダ
ラファエル・サラマンカ
デビュー 1976年3月5日
引退 1985年4月26日
テンプレートを表示

マッハ隼人(マッハ はやと、1951年3月5日 - )は、鹿児島県揖宿郡山川町(現:指宿市)出身の元プロレスラー。本名:肥後 繁久

来歴[編集]

高校卒業後、広島の東洋工業(現:マツダ)に入社し、社会人野球で活躍。柔道空手では2段を習得していた。

1973年6月、新日本プロレスの道場を訪ね入門テストメニューをこなしたが、身長が小さいということで断られる。そこで詰め寄ってグラン浜田とスパーリングした際、四つん這いになった浜田に、コーナー最上段からニードロップを落とした、というエピソードがある。

1975年に単身メキシコに渡り、アレナ・メヒコのラファエル・サラマンカのレスリングスクールに入門。ルチャリブレの修行を行った。

1976年3月、テキサス州に隣接する国境の町、シウダー・フアレスで、タッグ戦でデビュー。当時のリングネームはカラテ・ハヤト。2年後にはアレナ・メヒコに初登場する。その後、グァテマラでエル・カミカセ2号というマスクマンになる。以降マスクマンとしてプエルトリコフヒカワ・ハヤトの名で、パナマではクレナイ・ハヤトの名で活躍し、同地にて1978年3月31日サンドカンを破り世界ミドル級のベルトを奪取。コロンビアベネズエラエルサルバドル、など中南米各地を転戦し、1978年7月19日ロサンゼルストーキョー・ジョーに変身し約1年間活躍した。

メキシコで知りあった鶴見五郎に誘われ、1979年10月に帰国。国際プロレスに入団し、吉原社長の命名でマッハ隼人に改名。11月1日に鶴見を相手に日本デビューするも、13分16秒、背骨折りで敗退した。その後、ルチャ殺法を駆使して活躍。1981年8月の国際プロレスの倒産前に離脱してフリーとなる。

9月20日から海外遠征。ロサンゼルス経由でメキシコに移動し、11月13日にアレナ・メヒコに登場してメキシコマット再デビューを果たし、アルフォンソ・ダンテスと組んでシエン・カラスマスカラ・アニョ・ドスミル組に反則勝ち。1982年にはロサンゼルス地区に登場、その後カナダ・カルガリーに転戦。1984年1月には全日本プロレスの新春ジャイアントシリーズに登場する。リスマルクの初来日と同時だった。

1984年4月にUWFに入団。UWF無限大記念日二日目、7月24日にはザ・タイガーこと初代タイガーマスクと対戦、空中戦を展開したが、タイガースープレックスで敗戦。その後もシューティングスタイルを全面に押し出したUWFの中で、トペ・スイシーダなどのルチャのテクニックを駆使した異色のファイトスタイルで活躍。また30歳を超えていたのに、シューティングスタイルに対応しようと貪欲に練習、ずっと年下の高田延彦を「高田さん」と敬語で呼んで指導を仰ぐなどの行動が雑誌に紹介され、ファンや関係者達から高評価を受ける。 またシリーズの合間に、「居酒屋」と書かれた半被を着て赤提灯を持ち「カブキ」を名乗ってメキシコマットにスポット参戦した事がある。

1985年4月26日、後楽園ホールで「あと10年若かったら(UWFスタイルに対応できるのに)」「練習についていけなくなったので引退する」などの名ゼリフを残し、引退。6月1日にロサンゼルスに渡り、市民権を取得。現在、ロサンゼルス郊外に住んで造園業を営む。

関連項目[編集]

  • 桜井速人 - マッハ隼人をもじってリングネームを「桜井"マッハ"速人」としている。
  • サングレ・チカナ - マッハ隼人が初期のころ被っていた赤を基調に目の部分が金色の覆面はサングレ・チカナの覆面を継承している。
  • ザ・グレート・サスケ - マッハ隼人が被っていた歌舞伎の隈取をモチーフにした覆面を継承している。