マニー・サンギーエン

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マニー・サンギーエン
Manny Sanguillén
基本情報
国籍 パナマの旗 パナマ
出身地 コロン県コロン
生年月日 (1944-03-21) 1944年3月21日(73歳)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
193 lb =約87.5 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手外野手
プロ入り 1964年 ピッツバーグ・パイレーツと契約
初出場 1967年7月23日
最終出場 1980年10月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

マニュエル・デヘスース・サンギーエン・メイガンManuel De Jesus Sanguillén Magan, 1944年3月21日 - )は、パナマコロン県コロン出身の元プロ野球選手捕手外野手)。右投右打。

経歴[編集]

現役時代[編集]

1964年10月にピッツバーグ・パイレーツと契約してプロ入り。1967年にメジャーデビューすると、1969年より正捕手に定着し、この年は打率.303を記録した。翌1970年は.325(ナショナルリーグ3位)という高打率と9三塁打(同5位)、1971年も3年連続打率3割となる.319と自己最多の81打点、ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズでも29打数11安打とよく打った[1]

1973年は事故死したロベルト・クレメンテの後を受け、右翼手として開幕戦に出場したが、シーズン途中で捕手に戻った。1975年には自己最高の打率.328(リーグ3位)を記録した。

1977年にはチャック・タナー英語版監督とのトレードにより、1年だけオークランド・アスレチックスでプレーしたが、1978年からはパイレーツに復帰した。1979年には2度目のワールドシリーズ優勝を経験し、翌1980年に引退した。

引退後[編集]

現在は、パイレーツの本拠地であるPNCパークでバーベキュー屋を営んでいる。

プレースタイル[編集]

打撃では悪球打ちで有名だったが、レギュラーを務めた1969年から1977年の間は打率3割を4度記録するなどコンタクト能力は高かった。

守備でも素早いスローイングを売りとしており、通算盗塁阻止率は38.5%とこちらも高率を誇った[1]

人物[編集]

陽気な性格でチーム1の人気者であり、真面目な性格であるクレメンテを冗談で笑わせることのできる唯一のチームメイトと言われていた。

クレメンテが亡くなった1972年12月31日、サンギーエンはクレメンテとともにニカラグアに来るよう誘われていたが、車のキーが見つからずに空港に行けず同乗しなかったという。そしてクレメンテの乗っていた飛行機が墜落して彼の死が知らされると、サンギーエンは葬儀には参列せず、サンフアンの海に潜って最後まで遺体の捜索にあたっていた。

迎えた翌1973年4月6日セントルイス・カージナルスとの開幕戦、クレメンテの追悼試合となったこの試合でサンギーエンはクレメンテがずっと守っていた右翼の守備につき、2安打を放って逆転勝ちにも貢献した[2]

なお、サンギーエンはメジャー通算13年で1500本の安打を記録しているが、これは奇しくも親友であるクレメンテ(3000本)の丁度半分の安打数である[3]

詳細情報[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 35(1967年、1969年 - 1980年)

脚注[編集]

  1. ^ a b 出野哲也 『改訂新版 メジャー・リーグ人名事典』 言視舎、2013年、216頁。ISBN 978-4-905369-67-7。
  2. ^ https://www.baseball-reference.com/boxes/PIT/PIT197304060.shtml
  3. ^ 伊藤茂樹 『「アメリカ野球雑学概論 Lesson203 ロベルト・クレメンテとその親友」 『週刊ベースボール』2006年11月6日号』、2006年、74頁。2018年1月21日閲覧。

関連項目[編集]