マヌエル・アルーダ・ダ・カマラ

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マヌエル・アルーダ・ダ・カマラ

マヌエル・アルーダ・ダ・カマラ(Manuel Arruda da Câmara、1752年1810年10月2日)は、ブラジル聖職者医師科学者である.[1][2]

略歴[編集]

ブラジル、パライバ州のPombalで生まれた。父親は農夫で、ポルトガル王国キリスト教に改宗すること強いられたユダヤ人の家系である。パライバ州の奥地で生まれ、1783年にペルナンブーコ州のゴイアナで学び、ゴイアナのカルメル会のCalçados修道院叙階された。その後、弟とさらに学ぶためにヨーロッパに渡り、1786年にコインブラ大学に入学し、自然科学を学び、卒業後フランス王国モンペリエ大学で医学を学び博士号を得た。フランス滞在中にヴォルテールルソーの思想や、フランス革命の精神に触れ、1793年にブラジルに帰国後、ブラジルも社会的不公正を強く意識するようになった。ブラジル最初のフリーメイソンの個人ロッジであるアレオパゴス・ロッジ(Areópago de Itambé)を設立し、多くの地元の知識人を集め、結社、Conspiracy of Suaçunasを結成した。これはブラジルのポルトガル植民地統治からブラジルを解放する初期の運動の一つである。1802年に当局によってロッジは閉鎖され、ダ・カマラの一生のうちに独立の達成をみることはできなかった。

ブラジルではゴイアナで暮らし、1794年から1900年の間にかけてブラジル北東部の鉱物、植物、動物の一連の調査を行った。ペルナンブーコ州やピアウイ州、パライバ州とセアラー州マラニョン州を調査し、サン・フランシスコ川の流域も探検した。

1810年に大麻の栽培に代わるブラジルに適した作物に関するDissertação sobre as plantas do Brazilとブラジルに適した庭園に関するDiscurso sobre a vitalidade da instituição de jardinsの2つの短文を発表した。ペルナンブーコの植物図鑑"Centúrias"のの出版を企てたが、生前には完成しなかった。植物の分野で31の新種を発見した。イギリス人の富豪でのブラジルの旅行記を書いたヘンリー・コースター(Henry Koster)の訪問を受け、1816年にコースターの旅行記、"Travels in Brazil"のアペンディクスに、Centúriasのタイトルで紹介された。

フクギ科の属名 ArrudeaClusiaシノニム)に献名された。パライバ州の動植物園、Parque Zoobotânico Arruda Câmaraに名前がつけられた。

著作[編集]

参考文献[編集]

伝記[編集]

その他[編集]