マハティール・ビン・モハマド
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マハティール・ビン・モハマド Mahathir bin Mohamad | |
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![]() マハティール・ビン・モハマド(2018年8月) | |
生年月日 | 1925年7月10日(95歳) |
出生地 |
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所属政党 |
バリサン・ナショナル 統一マレー国民組織 |
称号 |
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配偶者 | Siti Hasmah Mohd Ali |
サイン |
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在任期間 |
2018年5月10日 - 2020年2月24日 (2月24日から3月1日まで暫定首相) |
国王 |
ムハンマド5世 アブドゥラ |
在任期間 | 1981年7月16日 - 2003年10月31日 |
国王 |
アフマド・シャー イスカンダル・イブニ アズラン・シャー ジャーファル・アブドゥル・ラーマン サラフディン・アブドゥル・アジズ・シャー サイド・シラジュディン |
マハティール・ビン・モハマド(Mahathir bin Mohamad、1925年7月10日/12月20日 - )は、マレーシアの政治家、医師。同国首相(第4代:1981 - 2003、第7代:2018 - 2020)、暫定首相(2020年2月24日 - 3月1日)などを歴任した。
来歴[編集]
生い立ち[編集]
1925年7月10日[1]、英領マラヤ時代のマレー半島北部クダ州の州都アロースターに、9人兄弟の末っ子[2] の マレー人として生まれた。父はインドのケララ州から移住してきたイスラム教徒の家系の出身で、アロースターに出来た最初の英語学校の校長だった[3]。
当時のクダ州はイギリス支配下であった。ただし、「植民地」ではなく、スルターンにある程度の権限が残されている「保護領」であり、マハティールによれば、住民は概ねイギリス統治下の生活に満足していたとされる。1941年12月に日本軍により行われたマレー駐留のイギリス軍に対する攻撃が起こった時は高校生であった。日本軍はイギリス軍を短期間で一掃し、以後、マハティールは日本軍統治下のマレー半島で過ごす。
独立運動および政治活動開始[編集]
日本の降伏の後、マハティールは当初、マレー半島がイギリス領に戻ることを望んでいたが、イギリスはクダ州を戦前までの保護領ではなく、スルターンの権限を完全撤廃し、政治活動の禁止も含む完全な植民地化を進めるとの案を突きつけた。このイギリスの案は後に撤回され、現地人の政治活動も認められるが、このイギリスの態度は、マハティールがイギリスの植民地からの独立運動および政治活動に進む切っ掛けとなった[4]。
1946年 統一マレー国民組織 (UMNO) 発足に関与、独立運動および政治活動を開始。1953年、シンガポールのエドワード7世医科大学を卒業し、医師の資格を取得。
1957年、アロースターの総合病院を辞職した後に、同地でマレー人初の医院を開業し、貧困層への診療に取り組む。医師業と並行して、UMNOの政治活動に従事した。
国会議員[編集]
1963年 マレーシア成立。翌1964年4月25日に実施された総選挙において、クダー州から選出され、下院国会議員となった[5]。1965年には統一マレー国民組織の最高評議会の委員に選出されている。
5月13日事件とラーマン批判[編集]
1969年総選挙において、全マレーシア・イスラーム党(PAS)のユースフ・ラーワーと争い議席を失った[6][5]。この時の総選挙におけるマハティールは、華人層から「ウルトラ」という批判を浴びていた。また、トゥンク・アブドゥル・ラーマン首相に対しては、マレー人の生活向上のために積極的ではないという批判を展開していた[5]。
華僑系とマレー系との対立が激化し、マレーシア史上最悪の民族衝突事件である5月13日事件が発生すると、マハティールはラーマン批判のキャンペーンを展開した。6月17日は4枚の私信をラーマンに送り、1969年総選挙の敗北と5月13日事件の責任を取るために退陣を迫った[5]。この私信が新聞に公開されたことにより、アブドゥル・ラザク副首相は、UMNOの最高評議会を招集し、マハティールはUMNOから除名された[5][6]。
除名後、マハティールは、『マレー・ジレンマ』("The Malay Dilemma")を1970年に著し、マレー人が華人に対して経済的に劣っている理由とこの状況を克服するための方法を論じた。マレー・ジレンマは、マレーシア国内では発禁処分となったが、シンガポールでは読むことが可能であったことから、多くのマレーシア人が読んだとされる[7]。
UMNO復帰[編集]
1972年、アブドゥル・ラザクと和解、UMNO復帰を果たす。1973年、マレーシア食品工業公社会長に就任すると同時に、上院議員に任命された。1974年には、1974年総選挙に立候補するために、上院議員を辞職、その際の総選挙でクダ州から立候補し当選、下院議員復帰を果たした。9月5日の組閣人事で、新内閣の教育相に任命された。マハティールの教育相就任は、UMNO内の序列順位で首相兼外相のラザク、フセイン・オン副首相兼蔵相兼公社調整相に次ぐナンバー3になったことを示唆した[8]。
1976年1月、ラザクが病気療養先のロンドンで急死すると、副首相であるフセイン・オンが第3代首相に就任し、マハティールは副首相に就任した。副首相時代のマハティールは、PASとUMNOの対立の収拾に対処することとなる。クランタン州において発生したナシル(Mohamad Nasir)・クランタン州首相(UMNO)が、アスリ・イスラーム党党首とロフティ州連絡委員長がクランタン州首相であった時代(1964年-1974年)にシンガポール籍の企業を含む内外の企業に貸与していた土地を回収したことにより、両者の対立が激化した。最終的には、非常事態を宣言し、同州の連邦政府直轄化を行うことで事態の収拾にあたった[9]。
1978年6月に実施された総選挙において、UMNOとアライアンス関係を組む国民戦線は勝利し、7月27日に発表された組閣人事で、マハティールは副首相兼通産相に就任した。この頃、ラザク以来のブミプトラ政策がマレーシアに浸透する中で、ダーワと呼ばれるイスラーム復興運動が勃興した[10]。その代表格がマレーシア・イスラーム青年運動 (ABIM) やダールル・アルカムである。
第一次マハティール政権 1981-1983[編集]
1980年末、フセイン・オン首相の健康問題が持ち上がると政権交代が問題となった。1981年5月15日、フセイン・オンが健康問題を理由に辞職を発表すると、6月に開催されたUMNO全国大会でマハティールが無投票でUMNOの総裁に選出された。
7月16日、第4代首相に就任した。以降、2003年まで首相を任じた。7月19日には、組閣人事を発表した。自らは国防相を兼任するとともに、5月13日事件以前からの盟友であるムサ・ヒタム(en)を副首相兼内相に任命したため、「2M内閣」と呼ばれた[11]。
ルックイースト政策[編集]
マハティールは就任第一声で「迅速・清潔・効率的な行政」を掲げ[11]、経済面では、ブミプトラ政策の推進に邁進することとなった。それが、1981年12月15日に表明された「ルックイースト政策」の発言である。
第二次マハティール政権 1983-1986[編集]
1983年4月に実施された総選挙に先駆け、ABIMの指導者であるアンワル・イブラヒムのUMNO参加が決定した。UMNOはマレーシアにおけるイスラーム復興運動で大きな影響力をもつアンワルを党内に引き込むことで、最終的にはABIMの弱体化に成功した[11]。
選挙後、発足した第二次マハティール政権は、1983年には、政治介入を行い、加えて、免訴特権を持つスルタンたちとの対立の過程で、憲法改正を推進し、スルタンの発言力をそぐことに成功した[11]。一方で、ブミプトラ銀行の子会社であるブミプトラ・マレーシア・ファイナンス(BMF)の不良債権問題を収拾するに当たり、マレー人経営層の腐敗と25億リンギの公的資金注入を余儀なくされ、マハティールの権威が損なわれかねない情勢に陥った[11]。
翌1984年、マハティールは第四次マレーシア計画の中間報告を行い、政策と目標を明らかにしていく中で、UMNO内部では、マハティールの政治手法に対しての不満、独断専行という批判が持ち上がった。7月14日には内閣を改造し、UMNO長老層の引退を迫った。さらに、1986年になると、盟友であるムサ・ヒタムとの対立が顕在化し出した時期でもあった。ムサ・ヒタムは副首相を辞職し、ガファール・ババが国家農村開発相と副首相を兼任する体制へと変わった。
第三次マハティール政権 1986-1990[編集]
1986年7月に実施された総選挙において、国民戦線は、憲法改正問題、BMFのスキャンダル、UMNOの内部対立、これに加えて、1984年以降のマレーシア経済は不況の真っ只中であり、マハティール政権にとって不利な情勢であったが[11]、8月には、第三次マハティール政権が発足する。マハティールは内務相を兼任する。アンワルが教育相に就任し、実質的にもマハティールの後継者としての地盤を固めていったと目されていった[11]。
1987年、マハティールとムサ・ヒタムの対立が明確となった。4月2日のムサ・ヒタムのマハティール批判(BMFのスキャンダル、新規資金不足にもかかわらず推進される大型プロジェクトの推進への批判、ルックイースト政策と民営化政策の批判[11])に対して、4月10日、マハティールはムサ・ヒタムへの批判を展開し、そのまま4月22日のUMNO役員選挙に突入した。UMNO役員選挙において、マハティール総裁-ガファール・ババ副総裁が僅差ながら勝利を収めた。この対立は翌年のムサ・ヒタム、ラザレイ・ハムザといった反マハティール派の46年精神党結党につながった[11]。
1989年、心臓バイパス手術を受けた後、4月には公務に復帰。5月半ばからはアメリカ合衆国、イギリスを訪問するなど、精力的な活動を続けた。
第四次マハティール政権 1990-1995[編集]
1990年10月の総選挙で勝利を収めたマハティールは、引き続き政権を担当することとなり、第四次マハティール政権が発足した。
ワワサン2020構想[編集]
1991年2月28日、新経済計画(NEP)が終了するのに伴い、マレーシアを2020年までに先進国の仲間入りを達成させる野心的な長期開発構想プロジェクト「ワワサン2020(ヴィジョン2020)」が策定され、マレーシアの経済発展の新しい指針となった。9つの戦略的課題[12]を提示することで、30年間でのマレーシアの国内総生産を8倍(1990年時点で1150億リンギから2030年時点で9200億リンギへ)に伸ばすことを目標に据え、内閣改造の目玉として、アンワルを教育相から蔵相に配置転換することでそのプロジェクトの実務を担当させた[12]。
長期政権になったマハティール政権内部では世代交代の声が高まったのもこの時期である。1993年のUMNO役員選挙において、アンワルがUMNO副総裁に選出される公算が大きくなるにしたがい、ガファール・ババ副総裁は、10月末には内閣のポスト全てを辞した。翌月、マハティール総裁-アンワル副総裁が無投票で決定したことで、世代交代の機運が明確となった。
1994年には、再度の憲法改正が実施され、マレーシア憲法66条において、立法過程での最高元首の裁可権限が強化され、40条第1A項新設に伴う「最高元首が助言に基づく行動をとる」と定められたことにより、首相府の強化が実施された[13]。
第五次マハティール政権 1995-1999[編集]
アジア通貨危機[編集]
1997年7月、タイバーツの通貨危機を皮切りに、アジア通貨危機が発生した。マレーシアの国内総生産は、通貨危機発生前は、1USドル=2.5リンギットであったものが、98年2月には、4.2リンギットまで暴落した[14]。
韓国、インドネシア、タイが国際通貨基金(IMF)に対して、財政支援を求め、財政赤字を縮小するための緊縮財政と通貨安定のための高金利政策を採用する中で、マレーシアの政策は、独特なものであった。1USドル=3.8リンギットに固定することで通貨の安定を図る一方、財政支出の拡大、金利の引き下げの断行を行うことで、景気刺激策に打って出た。同時に、資本の海外流出を防ぐために、非居住者のリンギット取引を中央銀行の許可制へ移行、また、1998年9月から1年間は、非居住者がマレーシア株式及びリンギット建資産の売却で得た外貨の持ち出しの禁止を行った[14]。
アジア通貨危機は、タイをはじめとする各国の経常赤字と国内不動産のバブル化とそれに見合わない形で現地通貨が割高に放置されていたこと、対外債務と外貨準備高の不均衡(タイの場合、1997年時点で対外債務は1060億ドルであり外貨準備高は380億ドルしかなかった)が原因であるが、マハティールは、アジア通貨危機の原因をジョージ・ソロスをはじめとする欧米諸国の投機筋による実需を伴わない投機的取引が原因であると論陣を張った[14]。1997年11月29日付の『エコノミスト』において、マハティールの主張は批判の対象とされた[14]が、1998年、マレーシア経済がマイナス成長から脱すると、韓国、インドネシア、タイがいずれも経済的に浮揚するきっかけを掴み損ねていただけに、マハティールの政策運営に対して、評価の声が上がった。
政治的混乱[編集]
一方、この時期、UMNO内部において、権力闘争が本格化する。マハティールの後継者と目されていた財務相アンワルを1998年9月に解任した。アンワルは、マハティールの強権発動に対して、マハティール批判を展開した。ペナン、マラッカ、クアラルンプールとマレーシア各地で開催された集会で動員された人数は、マハティール政権を動揺させるに十分であった[15]。9月21日、治安維持法違反でアンワルは逮捕され、政治闘争には終止符が打たれたが、アンワル支持派は、アンワルの妻ワン・アジサを党首に立て、国民正義党の結党に動いた。
第六次マハティール政権 1999-2003[編集]
1999年に実施された総選挙は、UMNOの退潮を裏付ける結果となった。アンワルが治安維持法違反、後に、同性愛疑惑で逮捕され、政治の表舞台から去る中で、アンワルに代わる後継者として浮上したのが、1996年に、46年精神党からUMNOに復党したアブドラ・バダウィであった[16]。
2002年3月に、貿易通貨として金貨ディナール(gold dinar)を使用することを提唱。その後、マレーシア経済が回復基調となると、再び政治的に安定を迎え、2003年10月31日、22年間務めた首相の地位から退いた。同年、サイドシラジュディン国王から、最高位勲章「SMN勲章」及び「トゥン」(Tun) の称号を下賜された。これに先立って1997年にはキング・ファイサル国際賞イスラーム奉仕部門を受賞している。2004年には中華人民共和国の清華大学より名誉博士号が授与され、2008年には立命館大学より第36号名誉博士号が授与される。
UMNO離党 と新党結成[編集]
2016年2月、UMNOを離党。2016年8月、マレーシア統一プリブミ党 (PPBM) を新党として結成する[17]。2016年12月、PPBMは、人民正義党、民主行動党、国民信任党の3党が結成している野党連合のパカタン・ハラパンと選挙協力の覚書を交わす[18]。
2017年7月、野党連合のパカタン・ハラパンの議長になる[19]。2017年12月、第14回総選挙への出馬を表明し[20]、2018年1月にはパカタン・ハラパンがマハティールを首相候補として次の総選挙に臨むことを決めた[21]。
第七次マハティール政権 2018-2020[編集]
2018年5月9日に2018年マレーシア下院議員選挙が投開票され、野党連合が過半数を獲得しマハティールが勝利宣言。建国以来初の政権交代となった[22]。自身もクダ州から立候補し当選、下院議員復帰を果たした。同月10日、国王ムハンマド5世から新政権の首相に任命され、15年ぶりに政府首班の地位に返り咲いた。年齢90代の人物が選挙で勝利し国家指導者に就任した例は世界でもほとんどないという[23]。
2020年2月に連立与党内はマハティール続投を求める勢力とアンワルへの早期禅譲を求める勢力の対立が激化し、混乱の責任を取る形で2月24日、国王アブドゥラに辞表を提出した[24]。反アンワル派のムヒディン・ヤシンが首相に就任する3月1日まで暫定首相を務めた。
その後も敗北を認めず5月開会予定の下院議会でムヒディンに不信任を突きつけることを目指したが、3月11日に公表された地元紙のインタビュー内で、自身がもはや議会過半数の支持を得られないことを認めた[25]。
経済政策[編集]
従来の農作物や鉱産物の輸出、観光業に依存した体質から脱却し2020年に先進国入りするとの目標「ワワサン(マレー語で vision の意)2020」を掲げ、特に近年は、アジアにおけるIT先進国となるべく様々な経済政策を推進した。代表的なものとして、首都クアラルンプール周辺地域に建設された最新のITインフラが整備された総合開発地域マルチメディア・スーパーコリドーの建設が上げられる。このマルチメディア・スーパーコリドーには、中核となるハイテク工業団地サイバージャヤと、首相官邸や各省庁舎が立ち並ぶ行政都市プトラジャヤ、クアラルンプールの新しい空の玄関となるクアラルンプール国際空港 (KLIA)、空港に隣接するセパン (Sepang) サーキットなどが建設された。
また、国民車構想を提唱し、日本の三菱自動車の技術を導入した国産車メーカー「プロトン」の設立や港湾の整備、空港や鉄道などの各種交通インフラの充実など、主にインフラ整備と重工業の充実を中心とした経済政策を積極的に行い、一定の成果を上げた。
マレーシアも交渉に参加している環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)については批判的であり、2013年8月26日、「TPPに署名すれば、外国の干渉なしでは国家としての決定ができなくなり、再び植民地化を招くようなものだ」との考えを語っており[26]、交渉を透明化して中国を協議に加えるべきとしている[27]。2018年6月12日、「TPP11を含めて原則的に自由貿易には賛成だ」と述べるとともに、「貧しい国と富める国との自由貿易はどうあるべきか。正しい自由貿易とは何か」と発言している[28]。
財政政策[編集]
消費税は安定財源という面だけではなく名目GDPの一部門である個人消費に確実に悪影響を及ぼす側面も有しているので、もし消費増税が不況を呼ぶならその増税は中期的には国益に反する。よって減税が国家の税収増には効果的である。実際マレーシアで、電気製品や時計などについて消費税を完全に廃止したところ、マレーシアで買い物目当てで外国人の入国が増え、マレーシア国内で消費増となり企業収益の増加とそれによる法人税の税収増によってマレーシア政府の税収が増加した。また減税は企業活動の促進を助成し国を富ませることに貢献した。一方増税はそれとは逆の方向に国家経済をもっていきかねないので、税率制定には慎重であるべきだとし、経済のあらゆる部門へどのような影響を与えるか考慮する必要があるとする[29]。
政府による投資はGDPの重要な要素であり、放漫財政を問題視し、東海岸鉄道計画のような巨額の債務をもたらすインフラストラクチャーの整備は財政再建から中止させて費用を削減させている[30]。
外交政策[編集]
隣国シンガポールのリー・クアンユーとともにアジア的価値観を唱道し[31]、当時のアメリカの人権外交と衝突し、『「NO」と言える日本』で有名な日本の石原慎太郎とは『「NO」と言えるアジア』を共著した。反米的な言動やユダヤ人や外国人投資家に対する挑発的な発言は国際的にも波紋を呼んだが、これらの過激な言行は欧米諸国からの反感を買い、在職中を通じ、旧宗主国のイギリス、アメリカやオーストラリアなどの白人国家との関係は良好ではなかった。対外的にも1990年に後の東アジア共同体構想に繋がる東アジア経済グループ (EAEG) 構想やその発展版の東アジア経済協議体 (EAEC) 構想を打ち上げるなど、積極的に行動している。
東アジア経済協議体構想やルックイースト政策に見られるように、アジア諸国との連帯をその政策の中心に置いた。中国脅威論を否定して[32][33]、中国との関係を損なうとしてTPPに反対姿勢も表明[34][26]、南シナ海問題でも米軍の航行の自由作戦は中国を挑発してると批判し[35]、アジアインフラ投資銀行(AIIB)に加盟しない日本に苦言[36][37][38]を呈するなど親中派ともされた。首相退任後に中国国家主席の習近平と会見した際も「中国の古い友人」と歓迎されている[39]。
しかし、首相返り咲きを目指して総選挙に出馬した2018年からはかつての政敵であったアンワルとタッグを組み[40]、中国に過度に依存するナジブ・ラザク政権を「中国に親密になり過ぎて、中立性を失った」と批判し、中国のほか日本や韓国などとの等距離外交に復帰すべきだとの考えを表明している[41]。2018年の選挙勝利後の記者会見で中国の一帯一路は支持するもマレーシアには一部の中国との協定を再交渉する権利もあると述べており[42]、東海岸鉄道計画も中国との再交渉で債務が持続可能な形に修正した[30]。同年6月に初外遊で訪日した際は「中国とは好き嫌いかを問わず友好関係を維持する」と述べて東アジアを重視するルックイースト政策も続けるとした[43][44]。2019年4月には中国の北京で開催された第2回一帯一路国際協力サミットフォーラムに出席してあくまで一帯一路を支持する姿勢を演説で表明し[45]、同年5月にはアメリカが同盟各国に排除を呼びかけている中国ファーウェイの製品はアメリカより先端的で可能な限り使うとして安全保障上の懸念を一蹴しており[46][47]、同年12月には米中貿易戦争の責任があるアメリカは高い代償を支払うと述べた[48]。
日本について[編集]
マハティールは、英領マラヤに生まれており、日本軍のマレー半島侵攻が始まった時、高校生であった。少年マハティールはイギリスの圧倒的な国力を知り、長年のイギリス支配により「白人は無敵」との白人に対する劣等感があったため、日本は負けると思っていたが、その予想に反して日本軍は快進撃を続け、短期間でマレー半島からイギリス勢力を一掃した。この時、マハティールは初めて「白人が敗北することもある」と学んだ。日本軍占領時代のマレー半島は、イギリス支配下の時よりも食糧事情が悪化しており、マハティールも学校を退校するなどの不幸に見舞われており、日本の侵略は不幸なこととしている。しかし戦後、日本を訪問し、様々な企業を視察するうちに日本人の勤勉さに打たれ、日本に学ぶべきとの思いを抱くようになった[4]。
息子や娘を日本の大学に留学させたり日本に関する著書を出したり、あるいは政治の舞台から離れていた時は日本人と共同でベーカリーを経営するなど熱烈な親日家である。
太平洋戦争の評価についても、「もしも過去のことを問題にするなら、マレーシアはイギリスやオランダやポルトガルと話をすることが出来ない。…我々は彼らと戦争をしたことがあるからだ。勿論、そういう出来事が過去にあったことを忘れたわけではないが、今は現在に基づいて関係を築いていくべきだ。マレーシアは、日本に謝罪を求めたりはしない。謝罪するよりも、もっと社会と市場を開放してもらいたいのだ。」と発言している。
1970年代初頭、国営の食品会社の社長の頃、そこで作るパイナップルの缶詰がおいしくないという悩みを聞きつけた三井物産が、おいしい缶詰の作り方を研究し、技術提供した。後のルック・イースト政策につながったと言われている[49]。
2018年秋の叙勲では桐花大綬章を受章した。
日本の外交政策については批判的であり、「アメリカの衛星国だとみなされて影響力を弱めている」「日本に学ぶことはまだあるとすれば、特に日本の失敗からだ」と述べている[48]。
著書[編集]
- 『マレー・ジレンマ』(The Malay Dilemma)高多理吉 訳、井村文化事業社、後、勁草書房に移管、1983年12月
- マハティール、石原慎太郎 共著『「NO」と言えるアジア-対欧米への方策』光文社〈カッパハード〉、1994年10月。ISBN 978-4334052171。
- 『マハティール 日本再生・アジア新生』福島範昌 訳、たちばな出版〈未来ブックシリーズ〉、1999年4月。ISBN 978-4886929754。
- 『アジアから日本への伝言』加藤暁子 訳、毎日新聞社、2000年12月。ISBN 978-4620314891。
- 『立ち上がれ日本人』加藤暁子 訳、新潮社〈新潮新書〉、2003年12月。ISBN 978-4-10-610045-1。
- 『日本人よ。成功の原点に戻れ』橋本光平 訳、PHP研究所、2004年1月。ISBN 978-4569631455。
- 『ルック・イースト政策から30年 マハティールの履歴書』日本経済新聞出版社、2014年5月。ISBN 978-4-532-16869-8。
脚注[編集]
- ^ 公的書類上は12月20日だが、後に本人が実際の生誕日は7月10日と発言
- ^ “The Untold Story of Malayalees in Penang”. Suresh Narayanan, Universiti Sains Malaysia 2008年10月9日閲覧。
- ^ John Victor Morais (translated by Abdul Razak bin Haji Abdul Rahman) (1982). Mahathir: Riwayat Gagah Berani. Arenabuku. pp. 1–Kuasa Yang Merjudikan Seorang Budak Itu Bewasa, Bab 1
- ^ a b “崩れた「白人は無敵」…マハティール・元マレーシア首相”. 読売新聞. (2015年8月6日) 2015年8月8日閲覧。
- ^ a b c d e 萩原 1996, p. 107-110.
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- ^ a b c d 林田 2001, p. 76-105.
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- ^ アブドラ・ウォッチ, アジアの声HP. “アブドラ・ウォッチ”. 2008年12月20日閲覧。
- ^ マハティール元首相が創設:新党「統一プリブミ党」申請マレーシアマガジン
- ^ マハティール氏創設のプリブミ党、野党連合と選挙協力AsiaX
- ^ 野党連合が役員人事発表、アンワル氏を指導者にマレーシアナビ! マレーシア発、生活お役立ち情報
- ^ マハティール元首相、次期選挙出馬を表明アジア経済ニュース
- ^ “マハティール氏、野党連合の首相候補に選出”. 日本経済新聞. (2018年1月7日) 2018年1月7日閲覧。
- ^ “マハティール元首相勝利=史上初の政権交代へ-マレーシア総選挙”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2018年5月10日) 2018年5月10日閲覧。
- ^ “マレーシア下院選92歳マハティール氏、首相に就任”. 毎日新聞. 毎日新聞社. (2018年5月10日) 2018年5月11日閲覧。
- ^ “マハティール首相、国王に辞表提出 マレーシア”. 日本経済新聞. (2020年2月24日) 2020年2月24日閲覧。
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参考文献[編集]
- 坪内隆彦『アジア復権の希望マハティール』亜紀書房、1994年。ISBN 4750594229。
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- 林田裕章『マハティールのジレンマ』中央公論新社、2001年。ISBN 4-12-003202-7。
- 鳥居高「終章 マハティール政権の成果と位置づけ」『マハティール政権下のマレーシア』鳥居高編、JETRO-アジア経済研究所、2006年、pp.351-369。ISBN 4-258-04557-8。
- Tan, Chee Khoon & Vasil, Raj (1984). Without Fear or Favour. Eastern Universities Press. ISBN 967-908-051-X
外部リンク[編集]
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