マンザナール強制収容所

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マンザナール収容所、1942年7月3日 (ドロシー・ロンギによる写真)
マンザナール収容所、1942年7月3日 (ドロシー・ロンギによる写真)
ウィリアムソン山を背景に農作業を行う収容者。(アンセル・アダムズによる写真)
ウィリアムソン山を背景に農作業を行う収容者。(アンセル・アダムズによる写真)

マンザナール強制収容所(まんざなーるきょうせいしゅうようじょ、マンザナーとも、Manzanar concentration camp)は、第二次世界大戦中に日系アメリカ人が収容された収容所の一つ。正式名称は「Manzanar War Relocation Center(当時の訳語はマンザナール戦時轉住所)」、現在はマンザナール国定歴史史跡(Manzanar National Historic Site)。マッキンリー山を除く北米大陸の最高峰であるホイットニー山(マンザナール収容所の敷地からも、かろうじて見ることが出来る)、ならびに、ウィリアムソン山を含むシエラネヴァダ山脈のふもと、カリフォルニア州オーエンズヴァレーモハベ砂漠デスヴァレーに連なる)に位置し、南はローンパイン、北はインディペンデンスに接する。日系アメリカ人が収容された10の収容所の中で最もよく知られている。「マンザナール」とはスペイン語で「リンゴ園」を意味する。

歴史

収容所は最も多くて10,046名を収容した。合計では11,070名が収容された。アメリカ全土で日系人110,000名以上が大統領令9066号によって強制的に抑留され、多くはその財産全てを失った(詳細は日系人の強制収容を参照のこと)。

1942年12月6日に暴動が発生する。歩哨は二名の拘留者を銃撃した。1943年2月にレジストレーション法は、宣誓を行わない収容者をツールレイク強制収容所へ転送することを要求した。このために生じた混乱の後、収容者達はキャンプを著しく改善し始めた。

大戦末期には収容所駐留軍は縮小された。また、多くの収容者が散策を許可され、狩りや魚釣りも許可された。収容所は1945年11月に閉鎖されたが、収容者の大部分は財産を失い帰る家もなかったため、同所への在留を希望した。収容所では135名が死亡し、15名が同所に埋葬され、残りは故郷の墓地に埋葬された。

マンザナール収容所のほとんどの写真は宮武東洋(東洋は家族とともに収容された)とアンセル・アダムズによって撮影された。アダムズはその息をのむようなヨセミテの写真で知られているが、彼は収容所を訪れる内に宮武と親しくなり、彼を手助けした。宮武はロサンゼルスを中心に活躍した写真家であるが、レンズ、フィルム、フィルムホルダーを隠して持ち込み、後で収容所内の職人に扉のついた木箱を作らせ、その中にレンズを隠した。宮武の持ち込んだカメラは結局見つかり没収されたが、収容所長は宮武を所内の公式カメラマンに指定した。宮武は収容所内で自由に写真を撮ることができるようになった。当初宮武はシャッター・ボタンを押すことを許されず、彼はこの単純な作業を収容所の職員に行ってもらった。最終的に所長はこの専門的作業に問題を発見せず、宮武が一人で写真を撮ることを許可した。テレビ映画『Farewell to Mazanar』ではパット・モリタがZenahiro(宮武に基づく登場人物)を演じた。

収容所の現在

収容所跡地に建てられた慰霊塔
収容所跡地に建てられた慰霊塔

建造物のほとんど全てが1940年代に売却され、土地はロサンゼルス市水道電力局(Los Angeles Department of Water and Power, LADWP)に返却された(1942年に同局から賃貸されていた)。しかしながら人々の関心は国立公園局に同地区を史跡として保存させることとなる。現在国立公園局はバラックとトイレの複製を構築している。

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