マーガレット・ブランデージ

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  • マーガレット・ブランダージ
マーガレット・ブランデージ
Margaret Brundage
Weird Tales May 1934.jpg
『ウィアード・テイルズ』1934年5月号
生誕 1900年12月9日
アメリカ合衆国の旗シカゴ
死没 (1976-04-09) 1976年4月9日(75歳没)
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
教育 シカゴ美術館附属美術大学
出身校 McKinley High School
著名な実績 イラストレーター
代表作 ウィアード・テイルズ
配偶者 スリム・ブランデージ

マーガレット・ブランデージMargaret Brundage1900年12月9日 - 1976年4月9日[1][2][3]アメリカ合衆国イラストレーター画家パルプ・マガジンウィアード・テイルズ』のイラストで知られる。イラストボードにパステルで描くやり方で、1933年から1938年にかけて『ウィアード・テイルズ』誌の表紙のほとんどを描いた。

経歴[編集]

1900年、シカゴにスウェーデン系とアイルランド系の両親の間に生まれる。父はジョナサン・E・ルティート、母はマーガレット・ジェーン・ルティート・ジョンソン、ともにスコットランドオークニー諸島の出身だった。8歳の時、父親が亡くなり、母親と祖母(マーガレット・ルティート。マーガレットという名前は祖母から取られた)に育てられる。母親は生涯再婚することなく、クリスチャン・サイエンスの信仰に生涯を捧げ、信者への指導を収入の足しとした[4]

マーガレット(ブランデージ、旧姓ヘッダ・ジョンソン)はジラード・グラマ−・スクールからマッキンリー・ハイ・スクールに進学。クラスメートにウォルト・ディズニーがいた。1919年、ハイ・スクールを卒業。「私は卒業したけど、彼(ディズニー)はしなかった」と後にブランデージは語っている。

1921年から1923年の間、シカゴ美術館附属美術大学に通いながら、シカゴの新聞社のためにイラストを描き出す。代理店が持ってくる案に応えて、カラー・白黒どちらでもファッション・デザインを描くことができた[4]。大学は卒業できなかった。その理由についてマーガレットは副業のせいではなく、レタリングの適性がなかったせいだと述べている。

この時代、アメリカは禁酒法が施行中であった。しかし、マーガレットはシカゴで人気の紳士社交倶楽部「Dil Pickle Club」で働く。そこで彼女は悪名高い女たらしの室内装飾家・ペンキ屋と出会う。スリムことマイロン・リード・ブランデージ(1903年 - 1990年)である[4]

1927年、二人は結婚する。夫は元ホーボーで、過激な政治志向を持ち、また酒浸りだった。二人は一子を設ける(カリン・バード・ブランデージ、通称バード、1927年 - 1972年)[4]。(しかし、1939年に離婚)

1932年、マーガレットはファーンズワース・ライトのオフィスで仕事を得る。ライトは『ウィアード・テイルズ』の編集長で、『オリエンタル・ストーリーズ』(後に『マジック・カーペット』に改題)の表紙を数枚描いた後、『ウィアード・テイルズ』の表紙を任せられるようになる。

『ウィアード・テイルズ』1937年9月号

最初の表紙は1932年9月号で、以後、1933年6月号から1936年8月号まで連続39号の表紙を担当した。1933年から1938年にかけては他の画家と交代で担当した。最大のライバルはヴァージル・フィンレイだった。最終的に、1945年1月号まで計66冊の表紙を描いた。(67冊とする資料もあるが、1953年11月号は1945年1月号の再掲である)。表紙1枚ごとに90ドルが支払われた。その額は(何もしない夫を除く)彼女、息子、母(1940年に死去)が食っていくのに充分な額だった。

マーガレットはさまざまなシチュエーションで苦しむ、全裸または半裸の捕らわれの姫君を描くことが多かった。鞭打たれる場面はとくに注目され、また物議を醸した。表紙に官能的なシーンを選ぶのは編集長のライトだった。マーガレットの絵は読者に人気で、シーベリイ・クインなど作家陣もマーガレットがそういった絵を描けるように、小説の中に官能的な場面を入れるようになる。小説が表紙に使われると報酬が高くなるからだった。

パルプ・マガジンの表紙は露骨な描写から悪評が高かった。マーガレットも例外ではなかった。彼女は絵に「M ・ブランデージ」とサインをしていたので、読者の多くは画家が女性だということを知らなかった。(編集長ライトが「M」はマーガレットの略であると明かした1934年以降、苦情は増加した)。編集部がシカゴからニューヨークに移転した1938年以降、ニューヨーク市長フィオレロ・ラガーディアにより、新聞雑誌類売店で売られるパルプ・マガジンの表紙に対して新しい「品位」の基準が課せられた。さらに、マーガレットがシカゴで描いたパステル画(破損しやすい)をニューヨークに送る技術的問題もあった。そして、1940年の編集長ライトの死である。

マーガレットはパルプ・マガジンとの関係が終わった後も絵を描き続け、SF大会展覧会に作品を出品した。そこでオリジナルの絵が盗まれたこともあった。『ウィアード・テイルズ』にレギュラーで描いていた時のような財政状態に戻ることはなく、晩年は窮迫した。それでもマーガレットは亡くなるまで絵を描き続けた。

反応[編集]

クラーク・アシュトン・スミスはマーガレットのイラストに対して批判的だった。1933年12月、スミスはH・P・ラヴクラフトにこう伝えている。「最近のW.T(ウィアード・テイルズ)のデザイン、色彩が豊かなのはいいんだが、奇妙なクリスマス・カードみたいだ!(中略)ブランデージ夫人は(中略) ジャージー牛が取り憑いているんじゃないかと思うほど、変なものに力を注いでいる。この絵の中国人の手、ダーレス&スコラ―の『潜伏するもの』のウトパテル(フランク・ウトパテル、ウィアード・テイルズのイラストレーター)の挿絵から衝撃を受けたみたいに変な角度に曲がってる」。1937年の9月9日にはR・H・バーロウ英語版には、「質問。どうしてブランデージは描く女性描く女性、乳飲み子に乳を与える乳母みたいに描こうとするんだろう? うんざりとも複雑とも言えないまでも、滑稽だ」

脚注[編集]

  1. ^ Catalog”. www.pulpartists.com. 2017年10月21日閲覧。
  2. ^ Margaret Brundage” (英語). chicagology.com. 2017年10月21日閲覧。
  3. ^ Authors : Brundage, Margaret : SFE : Science Fiction Encyclopedia” (英語). www.sf-encyclopedia.com. 2017年10月21日閲覧。
  4. ^ a b c d R. Alain Everts, "Margaret Brundage", Etching & Odysseys 2 (53-61), 1983.

関連書籍[編集]

  • Stephen D. Korshak and J. David Spurlock, "The Alluring Art of Margaret Brundage: Queen of Pulp Pin-Up Art" Foreword by Rowena (Vanguard / Shasta-Phoenix, 2013) 1-93433-151-1
  • L. Sprague de Camp. Lovecraft: a Biography (Doubleday, 1975) 0-385-00578-4
  • R. Alain Everts, "Margaret Brundage", Etching & Odysseys 2 (53-61), 1983.
  • Ray Russell, "Of Human Brundage". Playboy, Feb 1991 (vol 38, no. 2) pp. 106–109
  • Selected Letters of Clark Ashton Smith. Ed. Scott Connors and David E. Schulz, (Arkham House, 2003) 0-87054-182-X