メンリ・テムル

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メンリ・テムル(モンゴル語: Mengli Temür,中国語: 免力帖木児,? - 1391年)とは、チンギス・カンの第二子チャガタイの子孫で、哈密衛(ハミル)の統治者。先々代のハミル王エンケ・テムルの息子。『明実録』などの漢字表記は免力帖木児

同時代のペルシア語史料ではメンリ・テムル・バイリ(Manglī tīmūr bāīrī/منگلی تیمور بایری)と記される。

概要[編集]

永楽9年(1411年)、哈密忠順王トクトが亡くなると、トクトの従兄弟に当たるエンケ・テムルの息子メンリ・テムルが後を継ぎ、永楽帝より新たに哈密忠義王に封ぜられた。この際の永楽帝の発言によると、暴虐な人柄であった先代哈密王のトクトに比べメンリ・テムルは誠実な人柄で、周囲に推戴されてハミル君主になったという。「忠義王位」とはメンリ・テムルのため新たに増設された王位で、これ以後ハミルではトクトに始まる「忠順王位」とメンリ・テムルに始まる「忠義王位」が並存することとなる[1]

翌永楽10年(1412年)にはアドル・ホージャ(阿都児火者)を明朝に派遣して朝貢を行った[2]。この時僧綱司を設置することを永楽帝に請願し、許されている[3]。永楽11年(1413年)にも朝貢を行い、年末にはメンリ・テムル及び先代君主トクトの母親に下賜品が与えられている[4]。これ以後、永楽18年(1420年)まで定期的に明朝への朝貢が続く。

永楽19年(1421年)に入ると、ハミルはドルベン・オイラト(オイラト部族連合)の攻撃を受けるようになる[5]。この頃、ドルベン・オイラトではチョロース部の順寧王マフムードダルバク・ハーンが相継いで亡くなり、彼等に代わってケレヌート部の賢義王タイピンオイラダイ・ハーンらが実権を握るようになっており、ハミル侵攻も賢義王タイピンが主導して行われたものであった。これに対しメンリ・テムルは永楽帝に救援を要請し[6]、永楽帝の仲裁を受けて賢義王タイピンは謝罪の使者を派遣した[7]

永楽22年(1424年)、永楽帝が死去して洪熙帝が即位して以後もメンリ・テムルは朝貢を続けた[8][9]が、宣徳元年(1426年)に入って亡くなった。即位したばかりの宣徳帝は先代君主トクトが元々「忠順王」であったこと、またトクトの息子ブダシリが成長していることを考慮し、ブダシリを哈密忠順王に封じることを通達した[10]

ティムール朝遣明使節の記録[編集]

1419年ティムール朝君主シャー・ルフは明朝へと使者を派遣し、この一行に参加していたギヤースッディーン・ナッカーシュは明朝(ヒタイ)への記録を日誌として書き記した。

ラジャブ月21日(新暦1420年8月1日)、一行はコムル(ハミル)の町に着いた……メンリ・テムル・バイリ(Manglī tīmūr bāīrī)という大変美しい若者がコムルを取り仕切っていた。 — ギヤースッディーン・ナッカーシュ『ヒタイ遣使記』[11]

この記録に登場するメンリ・テムル・バイリこそが、明朝の記録する「忠義王免力帖木児」に相当する人物であると見られている[12]

哈密衛君主[編集]

  1. 哈梅里王グナシリ(Unaširi,兀納失里/Kūnāshīrīکوناشیری):在位1380年-1393年
  2. 忠順王エンケ・テムル(Engke Temür,安克帖木児/Anka tīmūrانکه تیمور):在位1393年-1405年
  3. 忠順王トクト(Toqto,脱脱):1405年3月-1411年3月
  4. 忠義王メンリ・テムル(Mengli Temür,免力帖木児/Manglī tīmūr bāīrīمنگلی تیمور بایری):在位1411年3月—1425年12月
  5. 忠順王ブダシリ(Budaširi,卜答失里):1425年12月—1439年12月
  6. 忠義王トゴン・テムル(Toγon Temür,脱歓帖木児):1427年9月—1437年11月
  7. 忠義王トクトア・テムル(Toqto Temür,脱脱塔木児):1437年11月—1439年
  8. 忠順王ハリール・スルタン(Khalīl sulṭān,哈力鎖魯檀):1439年12月—1457年8月
  9. 忠順王ブレゲ(Bürege,卜列革):1457年9月—1460年3月
  10. 忠順王バグ・テムル(Baγ Temür,把塔木児):1466年—1472年11月
  11. 忠順王ハンシン(Qanšin,罕慎):1472年11月—1488年
  12. 忠順王エンケ・ボラト(Engke Bolad,奄克孛剌):1488年—1497年12月
  13. 忠順王シャンバ(Šamba,陝巴):1492年2月—1493年4月、1497年12月—1505年10月
  14. 忠順王バヤジット(Beyazıt,拝牙即):1505年10月—1513年8月

脚注[編集]

  1. ^ 『明太宗実録』永楽九年十月癸卯「封哈密免力帖木児為忠義王。遣指揮程忠等齎勅諭曰、哈密近在西境、曩命脱脱為忠順王、俾撫治軍民。乃肆為兇驁、暴虐下人、慢悔朝使、天地鬼神不容、致其遽没。爾免力帖木児忠謹誠恪、衆所推服、特封為哈密忠義王、賜印誥及綵幣二十疋玉帯一、世守本土、撫其部属、恭脩臣節、毋替朕命。免力帖木児脱脱従父之子也」
  2. ^ 『明太宗実録』永楽十年三月丁未「都指揮程忠等使哈密還、忠義王免力帖木児遣陪臣阿都児火者貢馬謝恩、賜鈔千錠文綺二十疋」
  3. ^ 『明太宗実録』永楽十年五月辛卯「哈密忠義王免力帖木児所遣阿都児火者請於其地設僧綱司、且請以僧速都剌失為都綱、皆従之。給賜勅命及印」
  4. ^ 『明太宗実録』永楽十一年十一月辛丑「哈密忠義王免力帖木児遣人貢馬。賜免力帖木児及其母并故忠順王脱脱母綵幣、有差」
  5. ^ 『明太宗実録』永楽十九年六月庚戌「哈密忠義王免力帖木児言、瓦剌比遣人侵掠其境。遣使齎勅責賢義王太平等、令還所侵掠」
  6. ^ 『明太宗実録』永楽二十年三月甲戌「哈密忠義王免力帖木児遣使赤丹卜花・土魯番等処遣使阿児禄等貢馬、賜鈔幣、有差」『明太宗実録』永楽二十年十二月戊子「哈密忠義王免力帖木児遣使舍黒馬哈麻及土魯番都督尹吉児察貢馬千三百匹、柳城打剌罕者馬児丁及哈密大師虎都卜丁等貢羊二千餘隻、賜賚有差」
  7. ^ 『明太宗実録』永楽二十年十二月己亥「瓦剌賢義王太平等遣使貢馬、謝侵掠哈密之罪。哈密忠義王免力帖木児等亦遣使献馬、各賜綵幣表裏」
  8. ^ 『明仁宗実録』永楽二十二年十一月癸酉「遣中官魯安等以即位詔往諭哈密忠義王免力帖木児、并賜之綵幣表裏」
  9. ^ 『明仁宗実録』洪熙元年二月乙巳「哈密忠義王免力帖木児遣打剌罕馬哈木沙等奏事、賜衣服鈔幣表裏、有差」『明宣宗実録』洪熙元年七月丁亥「哈密忠義王免力帖木児遣都指揮脱脱不花……来朝貢馬」
  10. ^ 『明宣宗実録』宣德元年正月庚戌「遣使祭遣使祭故哈密忠義王免力帖木児、仍命其姪卜答失里嗣封忠順王。先是、上諭行在礼部臣曰、哈密受皇祖厚恩、封為王、而能恭修臣職。今既死、宜有継承。然免力帖木児初承其兄忠順王脱脱、今脱脱子卜答失里亦長。宜仍立為忠順王、守其地。賜以綺帛、其諸臣亦皆賜賚。復賜詔諭之曰……」
  11. ^ 小野2010,300-301頁
  12. ^ 小野2010,332頁

参考文献[編集]

  • 赤坂恒明「バイダル裔系譜情報とカラホト漢文文書」『西南アジア研究』66号、2007年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 小野浩「ギヤースッディーン・ナッカーシュのティムール朝遣明使節行記録 全訳・註解」『ユーラシア中央域の歴史構図』総合地球環境学研究所、2010年
  • 永元壽典「明初の哈密王家について : 成祖のコムル経営」 『東洋史研究』第22巻、1963年
  • 松村潤「明代哈密王家の起原」『東洋学報』39巻4号、1957年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年