モンケ・チャガン

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モンケ・チャガン(モンゴル語: Möngke Čaγan中国語: 察罕達魯花、? - ?)とはチンギス・カンの弟カチウンの末裔で、15世紀初頭に活躍したモンゴル人諸侯の一人。

『明実録』などの漢文史料では察罕達魯花(チャガン・ダルガ)と記され、モンゴル語史料にはMöngke Čaγan noyan(モンケ・チャガン・ノヤン)と記載される。

概要[編集]

モンケ・チャガンが初めて史料上に登場するのは永楽3年(1405年)のことで、この時モンケ・チャガンは使者を派遣して明朝に帰順し、オルク・テムル・ハーンの動向を伝えてきた[1]。これに対し永楽帝はモンケ・チャガンを都督、その弟カダ(哈達)を千戸に任じ、モンケ・チャガンと朝貢関係を結んだ[2]

また、明朝の記録では「察罕達魯花兀良哈等処[3]」や「兀良哈察罕達魯花処[4]」といった表現が見られ、モンケ・チャガンの勢力はウリヤンハイ三衛と隣接する地域にあったと考えられている[5][6]

モンケ・チャガンの出自[編集]

『アルタン・クルドゥン(金輪千福)』には「チンギス・カンの弟カチウンの後裔にモンケ・チャガン(Möngke Čaγan)がいる。彼の息子はバヤンタイ・ホンゴル(Byantai Qongγur)、バタイ・セチェン(Batai Sečen)である……」とある。

また、『王公表伝』卷三十一『翁牛特部総伝』には「元太祖弟諤楚因、称為烏真諾顔... ... 其裔蒙克察罕諾顔有子二。長巴延岱洪果爾諾顔 號所部曰翁牛特。次巴泰車臣諾顔、別號喀剌車里克。皆称阿魯蒙古」と記されている。『王公表伝』では誤ってモンケ・チャガンの始祖をテムゲ・オッチギンとしているが、これらの記述からオンリュート部(後のオンニュド旗)の始祖がカチウン、モンケ・チャガンであったことがわかる[7]

チャガン・トゥメン[編集]

『蒙古源流』などのモンゴル年代記にはチャガン・トゥメン(Čaγan tümen)という集団が十五世紀頃活躍したことが記されている。このチャガン・トゥメンとは、漢文史料に記載される「察罕達魯花処」、すなわちモンケ・チャガン率いる勢力であり、「チャガン・トゥメン」の名はモンケ・チャガンに由来するものではないかと推測されている[8]

『蒙古源流』や『アルタン・トブチ』にはチャガン・トゥメン(カチウン・ウルスの後身)のエセクイ(Eseküi)やホルチン・トゥメン(カサル・ウルスの後身)のシューシテイ王がオイラトとの戦いで活躍したことが記されている。

脚注[編集]

  1. ^ 『明太宗実録』永楽三年五月庚辰「韃靼頭目察罕達魯花遣人帰附、貢馬。勅迤北巡哨武城侯王聡同安侯火真曰、察罕達魯花使人来言、鬼力赤見在卜魯屯之地、則前者山西報雲内及天城小尖山有火。此必鬼力赤遣人覘我辺也。爾等可遣精騎、密偵其動静、若来寇開平、即設伏出奇撃之」
  2. ^ 『明太宗実録』永楽三年六月戊辰「命察罕達魯花為都督、其弟哈達為千戸。先是、遣使臣趙哈剌往漠北撫諭為鬼力赤部属所要。至是、察罕達魯花遣人貢馬、具言。其故遂遣使賜之綵幣命為都督、以寵異之使之安居本土善撫其衆。仍命礼部、以綵幣頒賜果你来忽都禿失奴干阿卜都剌馬木乞、蓋以察罕言其同心帰附云」
  3. ^ 『明太宗実録』永楽三年六月丁卯「賜察罕達魯花兀良哈等処所遣帰附頭目宴」
  4. ^ 『明太宗実録』永楽四年十月乙卯「百戸趙賢等自兀良哈察罕達魯花処還言……」
  5. ^ Buyandelger1998,7-10頁
  6. ^ 『明英宗実録』正統七年十月甲辰「福餘衛都指揮安出・朶顔衛都指揮完者帖木児遣指揮卜台等貢馬、賜綵幣。卜台言、与察罕貢使忽南不花等偕至関、以無印信文字、為守関者所止。彼云久不朝貢、不知禁例、今尚留関外、以俟進止。上勅総兵官王彧等曰、察罕遠在千里之外、非附辺諸部之比。其使臣忽南不花等如尚在関、即審実発遣赴京。今後凡朝貢人使、係衛所属而無印信文字者照例止之。其遠方初至及往来希闊者不在此限、不可槩行阻遏、以失遠人帰向之心」
  7. ^ Buyandelger1998,7-10頁
  8. ^ Buyandelger1998,7-10頁

参考文献[編集]

  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
  • Buyandelger「往流・阿巴噶・阿魯蒙古 — 元代東道諸王後裔部衆的統称・万戸名・王号」『内蒙古大学学報』第4期、1998年