ヤーノシュ・ジグモンド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年9月) |
ヤーノシュ2世 II. János | |
---|---|
ハンガリー王(対立王) | |
![]() | |
在位 | 1540年 - 1570年 |
別号 | 初代トランシルヴァニア公(1570年 - 1571年) |
出生 |
1540年7月18日 |
死去 |
1571年3月14日(30歳没) |
王家 | サポヤイ家 |
父親 | サポヤイ・ヤーノシュ(ヤーノシュ1世) |
母親 | イザベラ・ヤギェロンカ |
サポヤイ・ヤーノシュ・ジグモンド(Szapolyai János Zsigmond, 1540年7月18日 - 1571年3月14日)は、ハンガリーの対立王(在位:1540年 - 1570年)、トランシルヴァニア公(在位:1570年 - 1571年)。サポヤイ・ヤーノシュの一人息子、母はポーランド王ジグムント1世の娘イザベラ。ヤーノシュ2世とも呼ばれる。
生涯[編集]
生後2週間で父を失い、1540年から1570年まで「東ハンガリー王国」を統治した。ただし、王国を長期にわたって統治していたのは、オスマン帝国のスルタン・スレイマン1世の支援を受けていたフラーテル・ジェルジ枢機卿(1551年没)と、母イザベラ(1559年没)であった。
ヤーノシュは1568年に、近世ヨーロッパにおいて初めて広範な宗教の自由を保障した「トゥルダの勅令」を公布し、トランシルヴァニアにおけるユニテリアン教会の確立を支援した。また、全ての宗教・宗派の間での開かれた討論を行うことを奨励し、カトリック、ルター派、カルヴァン派、ユニテリアンの四者の間での公開討論を主宰していた。1570年にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世をハンガリー王と認めて自らの王位を放棄し、その補償という形で初代のトランシルヴァニア公となった。
翌1571年にヤーノシュが死んだ時、遺言によって財務長官ベーケーシ・ガーシュパールが後継者に指名されたが、トランシルヴァニアの貴族達は遺言を尊重せず、バートリ・イシュトヴァーンを自分達の新たな君主に選んだ。このため両者の間で内戦が勃発したが、バートリが勝利、トランシルヴァニア公に即位した。
脚註[編集]
参考文献[編集]
関連項目[編集]
爵位 | ||
---|---|---|
先代: 新設 |
トランシルヴァニア公 1570年 - 1571年 |
次代: バートリ・イシュトヴァーン |
|