ヨーゼフ・フランツ・フォン・エスターライヒ

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ヨーゼフ・フランツ・フォン・エスターライヒ
Josef Franz von Österreich
ハプスブルク=ロートリンゲン家
Jozsef Ferenc főherceg.jpg
称号 オーストリア大公
全名 ヨーゼフ・フランツ・レオポルト・アントン・イグナティウス・マリア
Josef Franz Leopold Anton Ignatius Maria
出生 (1895-03-28) 1895年3月28日
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国ブルノ
死去 (1957-09-25) 1957年9月25日(62歳没)
配偶者 アンナ・フォン・ザクセン
父親 ヨーゼフ・アウグスト
母親 アウグステ・フォン・バイエルン
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ヨーゼフ・フランツ(一番奥)と弟妹、アルチュート城、1911年

ヨーゼフ・フランツ・フォン・エスターライヒ(Erzherzog Josef Franz von Österreich, 1895年3月28日 ブルノ - 1957年9月25日 カルカヴェロス英語版カスカイス)は、オーストリア=ハンガリー(二重帝国)の皇族・軍人、戦間期ハンガリー王国の政治家・文筆家。ハプスブルク家のハンガリー分家出身。

生涯[編集]

オーストリア大公ヨーゼフ・アウグストと妻のバイエルン王女アウグステの間の長男。洗礼名はヨーゼフ・フランツ・レオポルト・アントン・イグナティウス・マリア(Josef Franz Leopold Anton Ignatius Maria)。ハンガリー宮中伯ヨーゼフ・アントン大公の曽孫であり、母方の祖母ギーゼラを通じてオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の曽孫でもある。先祖伝来の所領アルチュート英語版で少年時代を送った。成長するとブダペストのカトリック系中等教育学校に通い、ブダペスト大学に入学し法律学を専攻した。最終的にはハンガリー軍のエリート制服組士官養成校ルドヴィカ軍事アカデミー英語版で学んだ。

1915年、20歳で志願兵となり二重帝国陸軍第7驃騎兵連隊「ヴィルヘルム2世」ドイツ語版所属の士官候補生英語版ドイツ語版として従軍。第一次世界大戦中の数々の戦いに参加し、アルトゥール・アルツ・フォン・シュトラウセンブルク英語版スヴェトザル・ボロイェヴィッチ両元帥の司令部付き将校を務めた。その勇敢さを認められて騎兵大尉に昇進する。終戦時はハンガリー国内に駐屯しており、そのまま故郷アルチュートに戻る。

1919年、ハンガリー革命の結果ソヴィエト革命政権が誕生すると、政権によって保守派勢力に対する人質として拘束された。そして捕虜収容所に抑留され、ソヴィエト政府から「人民の敵英語版」の罪名を着せられ死刑を宣告された。しかし、革命政権に対するイギリス王ジョージ5世の働きかけにより、1919年7月に釈放される。ソヴィエト政権崩壊後、再びブダペスト大学に通って法律の勉強を続け、1923年に法学博士号を取得する。1927年から1930年にかけ、ブダペスト工科経済大学で経済学を学び、1930年6月16日、経済学博士号をも取得している。

1924年10月4日、ジビレノルト英語版で、元ザクセン王フリードリヒ・アウグスト3世の末娘アンナと結婚した。1927年から1945年まで、ハンガリー議会上院議員を務めたほか、戦間期のハンガリーにおける数多くの要職を提供され、高い尊敬を集めた。1927年からハンガリー・ペテーフィ文学協会の名誉会員にも名を連ねた。高い教養を積んだ人物として、文化活動にも関心が強く、いくつかの歴史書・詩集を執筆し、画家としても優れた才能を見せた。

1944年末、ナチス・ドイツに追従する矢十字党が政権を握ると、家族とともに国外に亡命。はじめ叔母の嫁ぎ先トゥルン・ウント・タクシス英語版侯爵家の客としてレーゲンスブルクに滞在し、1948年ポルトガルに移ってポルトに居を構えた。ハンガリーは再び共産主義者の支配下に入って人民共和国政府が成立し、旧皇族たちが帰国できる政情ではなくなった。ヨーゼフ・フランツは1957年にポルトガルで死去した。遺体はドイツに移送され、シュタルンベルク湖の畔の町フェルダーフィンク英語版の墓地に埋葬された。冷戦終結後の1992年、彼の遺体は故国ハンガリーにある一族の墓所・宮中伯家納骨堂(Palatinsgruft)に改葬された。

子女[編集]

ヨーゼフ・フランツと妻アンナ・フォン・ザクセン

妻との間に8人の子女をもうけた。

  • マルギト(1925年 - 1979年) - 1944年、モンテレオーネ公アレクサンダー・エルバ=オデスカルキスウェーデン語版[1]と結婚(1974年離婚)
  • イロナ英語版(1927年 - 2007年) - 1946年、メクレンブルク公ゲオルク・アレクサンダーと結婚(1974年離婚)
  • アンナ・テレシア(1928年 - 1984年)
  • ヨーゼフ・アールパード(1933年 - 2017年) - 1956年、レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク侯女マリアと結婚
  • イシュトヴァーン(1934年 - 2011年) - 1971年、マリア・アンダールと結婚
  • マリア・キンガ(1938年 - ) - 1959年キシュ・エルネーと結婚(1974年離婚)、1988年ヨアヒム・クリーストと再婚
  • ゲーザ(1940年 - ) - 1965年モニカ・デッカーと結婚(1991年離婚)、1992年エリザベス・J・カンスタッターと再婚
  • ミヒャエルイタリア語版(1942年 - ) - 1966年、レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク侯女クリスティアーネと結婚[2]

著書[編集]

  • Magyarföld dalai (『ハンガリー語の歌』[歴史書])、ブダペスト 1930年
  • A költő és a halál (『詩人とその死』[歴史書])、ブダペスト 1932年
  • Mysterienspiel Kolumbus (『コロンブス』[伝記]) 1935年 (ハンガリーの数都市とアメリカ合衆国で出版)
  • Szavak a tó fölött Versek (『湖に関する言葉』[歴史書])、ブダペスト 1940年
  • Anyák himnusza (『母への賛歌』[詩集])、ブダペスト 1942年

脚注[編集]

  1. ^ ツェフ・シャーンドル(1914年 - 2008年)として生まれ、エルバ=オデスカルキ家最後の当主だった外祖父の養子となり、イタリアの公爵位を継いだ。スウェーデンで法律家として活動した。
  2. ^ 長兄ヨーゼフ・アールパードの妻の実妹。夫妻の長男エドゥアルト・ハプスブルク=ロートリンゲン(1967年 - )は、2015年よりハンガリーの聖座大使を務めている。

参考文献[編集]

  • Die Habsburger - Ein biographisches Lexikon (Brigitte Hamann), Wien 1988, ISBN 3-492-03163-3, S. 196.
  • Magyar katolikus Lexikon ("Ungariches katholisches Lexikon"), ungarisch, online: abgerufen am 20. Oktober 2017.

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