ラスール朝

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ラスール朝時代の貨幣(アデン、1335年)

ラスール朝(ラスールちょう)は1229年から1454年まで イエメンハドラマウトを支配したイスラーム王朝のひとつ。ラスール朝は、 アラビア半島の南西部のから エジプト人の アイユーブ朝が去った後に勢力を持った。 ラスール朝は、ラスール(彼の本名はMuhammad ibn Harun)という名祖を持つ先祖の子孫で、ラスールはテュルク人のオグズ族の族長だった。後年彼らはアラブの家系を収集し、古代アラブ人部族の子孫だと主張した。ラスールは アッバース朝 カリフの使者として1180年頃イエメンに来た。彼の息子のアリーは一時メッカの知事となった。ラスールの孫のUmar bin Aliはラスール朝の最初の スルタンとなった。

Rasūlアラビア語で、伝令を意味する (この語の場合の”伝令”とは、イスラム教の預言者という意味合いは薄い)。王朝の支配の間、ラスール王朝の人々は伝説的な 総主教 Qahtanの子孫を名乗った。

アッバース朝崩壊とエジプトのファーティマ朝の勃興により、地中海とインドの間の貿易ルートは、イラク経由から紅海経由に比重が移っていった。ラスール王朝の時代(1229-1454年)は、紅海・アラビア海を通じた地中海とインド、東アフリカ間の貿易が活発となり、イエメンは地中海-インド間の貿易網の中心部のひとつに位置していたため、アラビア半島南部や紅海沿岸の港湾都市は繁栄していたが、権益争いの場ともなった。同王朝の時代は、エジプトではマムルーク朝、イランではイル汗国ティムール朝が勃興し、これらの大国と貿易路の確保を巡り激しく争った。

歴史[編集]

初代スルタン、マンスール・ウマル一世は、アイユーブ朝が十字軍に忙殺されている情勢を背景に、イエメン地方で起こった内乱に乗じて独立した(1229年)、ヒジャーズ地方(アラビア半島南西の紅海沿岸地方。メッカメディナがある)に軍隊を派遣し、1241年にはアイユーブ朝をメッカから放逐し、ラスール朝の勢力圏とした。第二代スルタン、ムザッファルは1279年ハドラマウト地方(アラビア半島南岸。イエメンとオマーン地方の間の地域)に遠征し、アラビア海と紅海間の中継貿易路の支配を確立した。

1323年以降ラスール朝はスルタン位を巡る内紛が国内部族間の抗争に発展した。第五代スルタン、ムジャーヒドはマムルーク朝に救援を求め、1325年にマムルーク朝から遠征軍が派遣された。マムルーク朝は交易路の直接支配を目論み、ラスール朝を支配下に置くことを目的として遠征軍を派遣したものと思われるが、この時は内乱鎮圧後、スルタン・ムジャーヒドによる国内統一が急速に推進され、マムルーク朝のイエメン支配は失敗した。1330年にはイブン・バットゥータが訪れている。1424年、マムルーク朝は再度遠征軍を派遣しメッカの外港にあたるジッダを奪取することに成功した。この結果、インドからの交易船は、イエメンの主要港であるアデンを避けて、直接ジッダに入港することになり、マムルーク朝の商業利益を増大させる一方、ラスール朝の経済力を低下させることになった。13代スルタン・ムザッファル2世(1442年)以降17代スルタン・ムアィヤド(1452-54年)の間に短期間に4人のスルタンが立ち内部抗争を展開し王朝は衰亡した。特に16代スルタン・マスウード(1444-54年)と13代スルタン・ムザッファルの争いでが、ムザッファルがジュバン地方の部族長ターヒル家を介入させた。打ち続く内乱に嫌気のさしたザビード(イエメン北部)の街の守備隊や家臣達はスルタン・ムアィヤドを擁立した。ムザッファルは史料から途中で消えてしまい消息は不明だが、マスウードは1454年に退位し、インドに亡命したと記載のある史料がある。ムアィヤドはメッカに亡命し、1454年新王朝ターヒル朝が成立した。

トゥグルグ朝使節を巡る事件[編集]

1329年、インドのトゥグルグ朝第二代スルタン・ムハンマドがマムルーク朝に派遣した使節がラスール朝に捕らえられ贈物を没収したとされる事件が発生した。翌1330年ラスール朝からマムルーク朝派遣された使節をスルタン=ナースィルは投獄させた。その後インドから再度マムルーク朝に使節が送られたが、使節はイエメン・ルートを避けてイラク経由で往復した。この一件は複数の史料(イブン・ハジャル(ibn Ḥajar)、ヌワイリー(al‐Nuwayrī)、マクリーズィーイブン・バットゥータ)に記載されている。史料毎に若干内容が異なっているものの、当時のラスール朝の交易・外交上の立ち位置を象徴する内容となっている[1][2]

鄭和の遠征[編集]

ラスール朝末期は、鄭和の艦隊が来航した。鄭和の艦隊の分隊がメッカを訪問した一件は、同時代のエジプトの史家マクリーズィーのものが有名だが、イエメン史の史料に(以下史料欄のアラビア語写本4609番、274番、「イエメン・ターヒル朝史」等)より豊富な情報が記載されている。その史料には、7回の鄭和の遠征のうち、最後の3回の遠征に相当すると思われるシナ人の艦隊の来訪が記載されている。一方「明史」の巻326には「阿丹国の条」があり、阿丹王抹立克那思児が永楽14年以降4度にわたって入貢してきたとの記載がある。阿丹はアデン、阿丹国は当時のラスール朝であり、阿丹王抹立克那思児とは、ラスール朝第8代スルタン・アル=マリク・アン・ナースィル・アフマド(漢字はマリク・ナースィルの音写)と考えられている。

史料[編集]

ラスール朝時代の史料は主に以下のものがある。

  • 年代記「イエメン・ラスール朝史に関する真珠の首飾りの書」ハズラジー著(1400年までを記載する)
  • 紅海書「有益の書」 イブン・マージド著
  • パリ国民図書館所蔵アラビア語写本4609番所収のラスール朝年代記の断片(1434年まで)
  • エジプト国立図書館所蔵「タイムール文庫」アラビア語写本274番所収のラスール朝年代記の断片(1434年まで)
  • 「イエメン・ターヒル朝史(幸運のイエメン情報に関する眼の慰めの書」イブン・アッ・ダイバ著
  • イエメン史「時代の名士たちの死去に関する胸飾り」アブー・マフラマ著
  • エジプト史「諸国王の知識のための事跡の書」マクリーズィー著
  • イブン・バットゥータ、イブン・ジュザイイ著、家島彦一訳注「大旅行記第三巻」平凡社東洋文庫、1998年ISBN 978-4582806304

王朝末期の内紛とターヒル朝の成立については以下の史料がある。

  • 「キルワ王国年代記(キルワ情報に関する慰めの書)」
  • イブン・アッダイバ著「ザービド誌」(ザービドの街の情報に関する有益なる望み)
  • アブー・マフラマ著「時代の名士たちの死去に関する胸飾り」

歴代君主[編集]

スルターン 治世
al-Mansur Umar I 1229–1250
al-Muzaffar Yusuf I 1250–1295
al-Ashraf Umar II 1295–1296
al-Mu'ayyad Da'ud 1296–1322
al-Mujahid Ali 1322–1363
al-Afdal al-Abbas 1363–1377
al-Ashraf Isma'il I 1377–1400
an-Nasir Ahmad 1400–1424
al-Mansur Abdullah 1424–1427
al-Ashraf Isma'il II 1427–1428
az-Zahir Yahya 1428–1439
al-Ashraf Isma'il III 1439–1442
al-Muzaffar Yusuf II 1442

脚注[編集]

  1. ^ 家島彦一訳「大旅行記第5巻」pp401-416
  2. ^ 家島彦一訳「大旅行記第2巻」pp142-146

関連書籍[編集]

  • Dresch, P., Tribes, Government, and History in Yemen. Oxford, 1989.
  • 『海が創る文明―インド洋海域世界の歴史』(朝日新聞社1993年)ISBN=978-4815805340
  • 『海域から見た歴史―インド洋と地中海を結ぶ交流史』(名古屋大学出版会2006年)ISBN=978-4022566010

関連項目[編集]