ランドスケープコンサルタント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索に移動

ランドスケープコンサルタント: landscape consultant)は、造園コンサルタントのうち、公園緑地など造園分野の創作物の調査計画から設計、景観形成などや環境デザインの中でランドスケープデザインランドスケープ・プランニングなどのランドスケープアーキテクチャーに関する業務等、また各種土地開発・地域計画から地域開発リゾート開発や観光地計画などで具体な空間のすがたを示す業務等を主たる生業としている建設コンサルタント環境コンサルタント

主要団体としては、一般社団法人ランドスケープコンサルタンツ協会がある。この団体に参加しているコンサルタント法人、また、一定の要件を満たしたランドスケープコンサルタントを公共事業に参画させるため、国土交通省建設コンサルタント登録では「造園部門」が設けられ、この登録をしているコンサルタントを指す場合が実際は多い。但し、これらの協会員および登録企業の中には日建設計三菱地所設計のような組織系建築設計事務所サンコーコンサルタント株式会社、荒谷建設コンサルタントや株式会社ウエスコのような土木建設事業を主たる業務とする総合建設コンサルタント、さらには株式会社URリンケージなど再開発をおもな業務としているものが1部課として設置しているものも多く、株式会社日本総合計画研究所や株式会社都市計画研究所など、また株式会社国土開発センター、栃木県用地補償コンサルタント、株式会社飯沼コンサルタントなどのような都市計画コンサルタント都市設計も行う株式会社アーバンデザインコンサルタント、株式会社環境デザイン研究所など建築設計事務所の兼業、または一級建築士事務所登録をしているコンサルタント、株式会社環境美術研究所などのファニチャーや彫刻のよる環境美化スタイルの事業者などもある。

建設コンサルタント登録に際しては、責任者(ランドスケープ・プロジェクトマネージャー)は技術士建設部門都市及び地方計画、建設環境など)を有する。その他ランドスケープコンサルタント従事者で技術士の資格は、技術士農業部門技術士環境部門を有しているものもいる。

なお、これらの有無に関わらず、「ランドスケープコンサルタント」を名乗っての営業活動等は個人法人に関わらず自由に行うことができる。このため、ランドスケープコンサルタントの事業所としての規模は個人事業のもの、小規模なものでの設計事務所が大半を占め、その主宰者はランドスケープアーキテクトやデザイナーを名のる事が多くある。また個人や小規模な事業者は小規模なビオトープなど生態環境を生み出すまたは維持する場所づくりや、各種緑化、室内緑化も含め屋内外の場所・空間デザインを広く業務受託するもの、彫刻制作や庭の作庭、ガーデンデザイナーエクステリアデザイナー環境芸術の作家として活動しているものが多い。

歴史[編集]

米国でのコンサルタント設立[編集]

歴史的に古いものは米国で1858年設立のオルムステッド・オルムステッド&エリオットと、その後継のオルムステッドブラザーズ社があった。1898年にジョン・チャールズ・オルムステッド (1852〜1920年)とフレデリック・ロー・オルムステッド・ジュニア (1870〜1957年)という著名なランドスケープアーキテクト フレデリック・ロー・オルムステッドの息子たちによって設立されたアメリカの有力なランドスケープコンサルタントである[1]。オルムステッド・ブラザーズ社は父親のパートナーで1897年におけるアメリカランドスケープアーキテクト協会 (ASLA)創立メンバーでアメリカ合衆国国立公園局創設において影響力のある役割を果たしたチャールズ・エリオットの死後、後継者だった2人の兄弟が、父親のフレデリック・ロー・オルムステッドから国内初のランドスケープ建築事業を引き継いだものであるが[2]、同社の買収に先立ちオルムステッド・ジュニアはハーバード大学を卒業する前に父親の下で見習いとして働いていたため、ビルトモア・エステート世界コロンビア博覧会などのプロジェクトの設計を同社ですでに手掛けていた。同社は1930年代初頭ピーク時に60人近くのスタッフを雇用。会社の著名なランドスケープアーキテクトには、ジェームズ・フレデリック・ドーソンやパーシバル・ギャラガーがが含まれる[3][4]。1949年に引退した最後のオルムステッド親族、フレデリック・ロー・オルムステッド・ジュニア[5]以降の会社自体は1980年にブルックラインから転居し、2000年までフリーモントで継続していた。こうして1858年から2000年まで1つの継続的なコンサルタント会社が設立されていたのである[6]。会社の100年の歴史を刻印する「フェアステッド」は、マサチューセッツ州ブルックライン 99 Warren St.の造園地7エーカー (2.833 ha)のフレデリックローオルムステッド国立史跡として保存されている[7]。この場所は大規模なランドスケープの設計とエンジニアリングの実践に関する優れた洞察を提供し、また何百にもなるプロジェクトの設計成果、工場リスト、写真のアーカイブ(予約制でのアクセスのみ)もある。オルムステッド・ブラザーズ社はこれまでに公園システム、大学、博覧会会場、図書館、病院、住宅街、州議会議事堂など、今日でも評価の高いプロジェクトを数多く完成させており、中でも注目すべきは、グレート・スモーキー山脈とアカディア国立公園、ヨセミテ渓谷、アトランタのピードモント公園、カナダ:ブリティッシュコロンビア州の高地オークベイ住宅地、クリーブランド、ポートランド、シアトル都市公園全体システムとワシントン州のノーザン州立病院などがある。オルムステッド兄弟はまた、ハーランド・バーソロミューと、カリフォルニア南部の屋外公共スペースの保護を奨励する「ロサンゼルス地域のための公園、遊び場、そしてビーチ」と題されたロサンゼルス商工会議所から委託され作成した1930年の報告書を共著している。この報告は市からはほとんど無視されたが、後に都市計画の重要な参考資料となっている。

現在のアメリカの都市にはランドスケープ系の活躍する職場が数多く存在している。大別すれば都市計画家、公園緑地(公共造園)行政、造園業、そしてコンサルタントの四つに分類出来る。

コンサルタントには一人で事務所を開いているものもあるし、土木、建築、都市計画の専門家と共同して事務所を経営しているものもある。仕事は公園、都市計画、住宅計画、区劃整理等各方面にわたった計画と工事の内容となっているが、専門の技術者を尊重するアメリカでは、こうした仕事で充分生計が立てられていく。仕事の内容としては新都市、シヴィック・センター、公園、住宅地計画等広汎な問題を取扱うようである。

日本国内におけるランドスケープコンサルタント[編集]

日本で、ランドスケープデザインの原点となる庭園や公園の設計については、日本でも平安期の橘俊綱以降、設計分野の専門家は時代ごとに度々出現していることは知られており、近代初期では技術コンサルタントとして、技術顧問の例でお雇い外国人が思い浮かばれるが、磯崎新は著書で、明治期日本で導入されたお雇い外国人で、ランドスケープ分野に関しては来日していないことを指摘(『空間の行間』筑摩書房、2004)。実際には隣接分野で来ていた農業技術の指導や土木建築分野の技師など、例えば開拓使では園芸顧問のルイス・ベーマー[8]横浜彼我公園リチャード・ブラントンなどが任にあたった。この時代でも 東遊園地山手公園など、また街路樹並木の観念も日本大通銀座煉瓦街などで業の出現をさせている。なお明治初期の築地ホテル館のエクステリアは残されている絵画で和風造園術を採用していることがわかる[9]

日本で初の西洋式庭園と考えられるものは長崎出島オランダ商館庭園にみられるものである[10]。西洋式を把握したうえで近代明治初期の主要人物、長岡安平(1842-1925)小沢圭次郎(1842-1932)小平義近(1845-1912)本多錦吉郎(1851-1921)福羽逸人(1856-1921)らは、日本の園芸造園術をベースに書物を参考に今日でいうコンサルタント業を公の組織に属して(長岡、小平等)あるいは他の職ながら余技で(本多、小沢等)こなしていたことが知られる。明治から戦前における公園の仕事は、少なくとも今のような与えられた敷地の中をデザインするということからはみだすこともある。山縣有朋や震災復興の後藤新平など、見識があって大まかな計画の方針は政治のフィールドで決定され、特に1893年告示された日比谷公園は市区改正委員会の上申をうけた山縣が決定したものに他ならないが、それ以降の計画・設計・施工の指揮が1900年に辰野金吾の推挙で本多静六に決定してからは[11][12]、本多という一人の人物によって調整がなされている。東京市における長岡安平や井下清、大阪市の椎原兵市の役割も計画から施工管理までを一貫して担う。この時代はその場の風景を誰がデザインしたかと言えば、比較的容易に一人の人物の名前が挙げられる。

当時は小川治兵衛のような造園業・植木屋・石材業も営む造園コンサルタント以外は、ランドスケープの専門家はこうした官庁組織(例えば宮内省内匠寮明治神宮造営局、帝都復興院内務省等・・)や、専攻はともかく大学などの高等教育組織(農学部が多かった)に属して教育と研究にいそしみながらの形、あるいは上原敬二折下吉延のように組織の嘱託となって従事する者などに限られた。特にコンサルタントが民間業として確立するまではこうした大学などの教員、あるいは長岡や井下など幾人かが自治体の公園部署に所属しながら、所属組織の範囲をはみだし、全国各地の公園緑地や個人邸や社寺の庭園などを設計及び指導を行っていたという状態であった。さらに他方の、都市計画行政に位置づけられるランドスケープ・プランニングも、1919年の法制定から戦後に到るまであくまで官庁で専門家を育成するべく採用がなされ、育成された専門家が担っていた。宮城俊作『ランドスケープデザインの視座』(学芸出版社、2001)によると、日本で大正期における、明治神宮内苑と外苑造営におけるランドスケープの萌芽から始まる一連の流れは、発祥のアメリカでのランドスケープへの合流への示唆、つまりは戦前までは十分に日本という国にランドスケープが根付く下地が、特に明治初期における「公園」という空間概念輸入時における過ちからの「洋魂和才」という体系的教育輸入欠如と磯崎の指摘するお雇い外国人不在からの建築教育との差異、かつ専門的職域の本質の無自覚から官主体の職能性、弊害と戦争による熟成の中断[13]、停滞で、官庁造園技術者や大学の職域に回収されていったとする。日本ではその職能像が個人ではなく制度・組織に従属する概念で定着し、そのシステムが造園家個人ではなく、一つの企業組織への外部委託 即ち、業態と本来の専門的職能像の関係の曖昧さが残ることとなり、コンサルタントの形成が遅れることとなった。一般社団法人ランドスケープコンサルタンツ協会(CLA)で正会員は現在においても造園コンサルタント業を営んでいるもので、会の趣旨に賛同する法人としている[14]のも、宮城の前述書で建築士登録、建築家協会会員登録が個人である建築との差を指摘されている。対して、ヨーロッパなどでは会社組織が登録ではなく、個人のアーキテクトが然るべき制度でレジスタート(登録制)する形での対応が多い。登録されたアーキテクト、アーキテクトの所属するコンサルティングファームに事業が委託される。イギリスでのランドスケープ・コンサルタント業界については、同国にランドスケープに関する団体として設立され、1997年にロイヤル・チャーター(王室認可)を取得したランドスケープ・インスティチュート(LI)があり、この会員登録が必要であるが、プロセスは厳格にされている。基本的な過程は、ランドスケープ学位を取得 (3年制)から実務訓練 (1~2年は必要)、ランドスケープ学の修士号を取得(1年制)、チャーターシップの取得 (通常2年以上)という流れに沿って通常7年から8年ほどかけて、ランドスケープ・コンサルタントとしての資格を得る。

日本で官庁自治体、企業体などからの緑化調査計画や造園の設計などの業務が、内部直営のインハウススタッフや大学人への委託委嘱ではなく、第三者への外注・コンサルティング業務委託が多くなるのは戦後しばらくたって、日本道路公団日本住宅公団の発足からで、日本で戦後は造園の計画調査設計といった仕事も他建設界と同様、しばらくは官庁の専門技術者が一人や数人で計画から設計そして施工管理に至るまでを行うのが普通であった。造園業界では1950年代から1960年代へ日本住宅公団や日本道路公団、建設省や各地方自治体等の施設敷地緑化関連の大型工事発注量の飛躍的増加から[注釈 1]、公共工事増大と並行し、東京オリンピックに向かって、発注主体側のとくに造園ランドスケープ業の企画設計のスタッフ増員ができず[注釈 2]、日本住宅公団における造園の業務も、当初は公団職員自らが行っていたのが、事業量の増加や団地の大規模化に伴って、より効率的な設計システムが求められるように捉えていた。ここから民設側の設計事務所設立に関して多くの動きが見え始める。近代的な造園設計事務所を主宰するグループが1955(昭和35)年以降、名乗りを上げ、その後も当時にあってランドスケープ設計に興味を持つ造園人が寄り集い、着実に実績を積み上げて行った。これと合前後して中島健、片谷克也、小形研三伊藤邦衛荒木芳邦の諸氏らが30年代に設計事務所を次々と設立していった。造園家の沈黙の時期を過ぎ、1960年代高度経済成長期における公共事業の需要の増大、その打開策としての業務の外部委託というシステムが確立していく。

日本住宅公団では1955年に早速、はじめて造園設計の業務が外部のコンサルタントへ委託したと同時にまだ不慣れなコンサルタントを支え、大量の設計を効率的かつ合理的に進めるためのツールとして、「造園施設標準図集」が取りまとめられる。このような方針は、いずれも造園設計の本来の目的である空間構成とその質の向上に取り組むための時間を捻出するために取られた手段であったとされる[注釈 1]

1961年から1967年まで、東京都千代田区麹町に本拠を置いて活動した株式会社・近代造園研究所[注釈 3][注釈 4]上野泰)は、住宅団地のプレイロットの標準設計図面(造園設計標準図集)の作成が含まれていた。草加松原団地、西新井第三、豊四季台や、歴史的な団地で現在でも日本住宅公団最初期、昭和30年代の面影を残す数少ない団地の一つ公団住宅「赤羽台団地」などを手掛けた。その後上野は、多摩ニュータウン港北ニュータウン、名塩ニュータウンなどで、常に時代の先端を行く都市環境デザインを実践[15]。その守備範囲は、都市構造の提案からストリートファニチャーなどのディテールにまで至り、練馬区など景観委員会の委員でも活躍する[16]。この他に公団高根台団地の外部計画や渋谷区美竹公園の設計手法などにアメリカのランドスケープデザインから学んだであろう当時の斬新な手法を見ることができる[17]

またデザイン業の確立の契機として、1960(昭和35)年に開催された世界デザイン会議が挙げられる。こうして1965(昭和40)年には造園設計事務所連合、現在の一般社団法人ランドスケープコンサルタンツ協会などが設立されている。こうして、それまで一つの職能として行われていた造園の計画・設計・施工はそれぞれ独立。この領域の専門・分化により、造園コンサルタントやランドスケープコンサルタントという職業領域が確立された。その系譜の流れの末に今のランドスケープデザイナーと呼ばれる人々が育ち、ランドスケープコンサルタントが形成されていった[注釈 5]

日本政府関係の設計として単独発注の第一号は、国会議事堂前庭と、北の丸公園であり、前庭が小形、北の丸公園が伊藤に当られた。隆盛を見るコンサルタントの発足は大半これより約10年の歳月がかかっている。そして今一つこの年代が活躍した業界の発展も目を見張るものがある。昭和30年代に数社を数えるに至らなかったのが続々と名乗りを挙げ、戦後20年、日本経済の安定は遂に造園界を一つの完全な産業形態に押し上げていった。昭和40年代つまり1960年代中ごろより毎年の様に現在活躍されている有力なコンサルタントが誕生した。代表者の経歴も官出身者、学出身者、民出身者とさまざまではあるが、特筆されることは専門の大学を出て、直ちに先発の設計事務所に勤務し、その後独立されるという全く生え抜きのコンサルタントの出現である。以降造園設計業務が学校出の若人達の憧れの対称となり、造園界のエリート的存在となり、造園産業界をリーダーとして造園産業界を引っ張っていく。

参考文献[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 元山(1981)によると、造園関連業務を処理するため各支所に配属されていた造園技術者の総数は1955年に6名でスタートし、10年後には21名に増加。しかし技術者一人当たりの年間の造園工事量は2億円程度であったものが約8億5千万円に達していく。この間の物価上昇の勘案はあっても業務量の急激な増加は明らかで、公団内部で造園設計に関わる業務の合理化と体系化が急務となる。霜田(2017)「このような状況をうけて、1960年に公団の東京支所は初めて造園設計と工事監理に関連する業務を外部の組織に発注した。この業務を受注したのが、(中略)株式会社・近代造園研究所である。それまで官公庁による造園設計業務の外部委託が全くなかったわけではない。しかし、それらは日本庭園など特殊な意匠設計と施工技術を必要とする業務であり、戦前から戦後にかけての一般的な公園などの設計と監理の業務は、ほぼそのすべてが官庁の技術者によって処理されていた。これに対して公団が外部発注した業務には、住宅団地のプレイロットの標準設計図面(造園設計標準図集)の作成が含まれていた。公団内部における造園設計業務の合理化という、組織の根幹に関わる課題の解決が、部分的にであれ外部の設計組織に委ねられた。」
  2. ^ 建設コンサルタントにあるとおり、当時GHQなどはこうした業を技術公務職員の増員ではなく、民間での委託で対応する旨を構想していた。
  3. ^ 1960年代初頭、発足したばかりの住宅公団が造園設計監理業務の外注を始めていく際、初期に受注した民間の設計事務所が「近代造園研究所」である。設立者は当時千葉大学生で起業家志望であった林茂也。建設省技官だった坂本新太郎日本住宅公団技師だった池原謙一郎、元山隆(現・永山福祉亭)、笛木垣、木村浩、田畑貞寿らからの要請により設計組織設立が具体化したもの。1961年の設立から1967年の解散までに、団地の造園設計を中心に約60件の作品を残しているとし、1961年~64年までは東京に拠点を置いていたが、関西における千里ニュータウン泉北ニュータウン開発に関係し大阪事業所を設置、1965年以降は大阪に拠点を移している。短い期間の活動期に上野の他、大塚守康などの主要メンバーがデザインをリードし、住宅団地の屋外空間、都市公園の設計を中心に、造園設計の標準化を自ら応用する形で独自の設計理論を構築しつつ多数の先駆的な作品を遺し、解散後も各メンバーはそれぞれ設計事務所を設立し、その後の造園設計を先導していく役割を担う。霜田(1999)霜田(2017)
  4. ^ 霜田(2017)「1961年7月27日の日付がある近代造園研究所の経歴書では、事業目的について「…確固たる基盤と技術を備えた造園設計事務所の必要性を各方面から強く要望され…(中略)…一般都市計画施設、運動場、遊園地、観光地等のほか、工場緑化など造園全般の設計監理業務の一翼を担い…」という記述が見られる。即ち、組織の設立時にすでに、官公庁が内部で行ってきた業務が外部発注されることが前提となっていたことがわかる。以後、この設計組織は住宅団地における造園設計の標準化を自ら応用する過程で、独自の設計理論を構築しっっ多数の先駆的な作品を遺すことになる。また、それまでは官公庁という職域に従属してきた感の強い造園設計とその担い手が、事業主体とエンドユーザーの間で中立的な立場を獲得したことになる。」
  5. ^ ただし、[1]にあるとおり、アウトソーシング、委託業の確立のため、 近代造園研究所を公共造園を受託する設計事務所として設立したのであるが、この他に民間の委託先がないうえに設計事務所のスタッフが業務量に比して足りない状態に陥り、結局は夕方になると建設省や住宅公団から皆が事務所に集まってきて、自分たちが 発注した仕事を自分たちでやっているといった状態がしばらく続く。

脚注[編集]

  1. ^ Beveridge. “The Olmsted Firm—An Introduction”. Olmsted.org. 2017年8月22日閲覧。
  2. ^ 1898-1980: Olmsted Brothers”. The Cultural Landscape Foundation. 2017年8月22日閲覧。
  3. ^ Percival Gallagher”. The Cultural Landscape Foundation. 2012年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月11日閲覧。
  4. ^ Percival Gallagher”. Smithsonian Institution Research Information System: Archives, Manuscripts and Photographs Catalog. 2012年4月11日閲覧。
  5. ^ Valerie Easton (2003年4月27日). “Masters Of Green”. The Seattle Times (seattletimes.com). http://seattletimes.nwsource.com/pacificnw/2003/0427/cover.html 2012年4月11日閲覧。 
  6. ^ Filler, Martin (November 5, 2015). “America's Green Giant”. New York Review of Books 62 (17): 16. http://www.nybooks.com/articles/archives/2015/nov/05/frederick-law-olmsted-americas-green-giant/ 2015年11月8日閲覧。. 
  7. ^ Zaitzevsky. “Fairsted: A Cultural Landscape Report for the Frederick Law Olmsted National Historic Site”. Google Books. 2017年8月22日閲覧。
  8. ^ 横浜植木商会はルイス・ベーマー商会の番頭であった鈴木卯兵衛が独立して造園会社としてを設立したもの[2][3]
  9. ^ 明治150年 二代清水喜助が手掛けた「三大擬洋風建築」 | 事業トピックス | 清水建設”. www.shimz.co.jp. 2020年2月7日閲覧。
  10. ^ 鈴木誠, 「長崎出島オランダ商館庭園の形態変遷」『造園雑誌』 5巻 5号 1992年 p.13-18, doi:10.5632/jila1934.56.5_13
  11. ^ [http://wattandedison.com/sugasugashiki11.pdf
  12. ^ 武智ゆり, 「日本初の洋式公園 日比谷公園」『近代日本の創造史』 8巻 2009年 p.26-27, doi:10.11349/rcmcjs.8.26
  13. ^ 市川秀和、「戦時体制下の造園思潮と田村剛の「国民庭園」提唱 近代日本の造園界にとって大東亜戦争は何だったのか」『日本庭園学会誌』 2005巻 13号 2005年 p.17-22, doi:10.5982/jgarden.2005.17
  14. ^ 業務概要|協会概要|一般社団法人 ランドスケープコンサルタンツ協会”. www.cla.or.jp. 2020年2月18日閲覧。
  15. ^ 霜田, 亮祐、篠沢, 健太「地面の構法思考 : 近代造園研究所のデザイン (特集 ランドスケープ現代史 : 戦後復興の創造力)」『ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌 : journal of the Japanese Institute of Landscape Architecture』第76巻第2号、2012年7月、 115–118、 ISSN 1340-8984
  16. ^ U&U 上野 泰 自選集”. www.marumo-p.co.jp. マルモ出版. 2019年9月30日閲覧。
  17. ^ 宮城俊作, 木下剛, 霜田亮祐、「初期の公団住宅におけるプレイロットの設計理論と実践」『ランドスケープ研究』 64巻 5号 2000年 p.703-708, doi:10.5632/jila.64.703, 日本造園学会

典拠[編集]

  • Landscape増刊・次世代のランドスケープアーキテクトPart1、Part2 マルモ出版
  • SD・1996年6月号 鹿島出版会
  • ランドスケープアーキテクト100の仕事 美しい国づくりRLA展記念出版編集委員会編集 東京農業大学出版会 2007年 ISBN 978-4886941152
  • ランドスケープのしごと―人と自然があやなす風景づくりの現場 ランドスケープのしごと刊行委員会編集, 日本造園学会 彰国社 2003年 ISBN 978-4395006403
  • はじめてのランドスケープデザイン 八木 健一 学芸出版社 2002年 ISBN 978-4761511777
  • 造園がわかる本 彰国社 2006年 ISBN 978-4395100330
  • ランドスケープデザイン 吉村元男 鹿島出版会
  • ランドスケープデザイン-設景の世界- 小林治人 理工図書
  • ランドスケープデザインの視座 宮城俊作 学芸出版社 2000年
  • ランドスケープ・デザイン 佐々木葉二他、昭和堂 1996年
  • 霜田亮祐(1999):近代造園研究所 その実体化された作品からみる設計思想:千葉大学大学院自然科学研究科修士論文
  • 霜田亮祐(2017)元低湿地の初期公団住宅における土地基盤の形成過程とその存在効用に関する研究:千葉大学審査学位論文
  • 元山隆(1981):日本住宅公団における造園設計外注の背景 : LandscapeJournalNo.7、11

関連項目[編集]