ラ・ガレンヌ=コロンブ

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La Garenne-Colombes
Blason Garenne Colombes 92.svg
La Garenne et La Défense.JPG
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) イル=ド=フランス地域圏
(département) オー=ド=セーヌ県
(arrondissement) ナンテール郡
小郡 (canton) 小郡庁所在地
INSEEコード 92035
郵便番号 92250
市長任期 フィリップ・ジュヴァン
2008年 - 2014年
自治体間連合 (fr) メトロポール・デュ・グラン・パリ
人口動態
人口 27,001人
2007年
人口密度 15,169人/km2
住民の呼称 Garennois
地理
座標 北緯48度54分20秒 東経2度14分40秒 / 北緯48.9056度 東経2.2445度 / 48.9056; 2.2445座標: 北緯48度54分20秒 東経2度14分40秒 / 北緯48.9056度 東経2.2445度 / 48.9056; 2.2445
標高 平均:? m
最低:37 m
最高:46m
面積 1.78km2
La Garenne-Colombesの位置(フランス内)
La Garenne-Colombes
La Garenne-Colombes
公式サイト lagarennecolombes.fr
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ラ・ガレンヌ=コロンブLa Garenne-Colombes)は、フランスイル=ド=フランス地域圏オー=ド=セーヌ県のコミューン。住民は単にラ・ガレンヌと呼ぶ。

ラ・デファンスに近接する。ラ・デファンスの拡大のため、2010年より、全国に12箇所あるフランス国内の国益関連事業(fr)の一つとなった。市域の統合は、コミューンではなく国家が行うことになっており、セーヌ・アルシュ管理公共企業体(fr)が介入して行う。

地理[編集]

市域はパリ1区とほぼ同じ大きさである。ベルジック広場はラ・デファンスから数百メートルしか離れておらず、ヨーロッパ・ラウンドアバウトの1km以内にグランド・ジャット島がある。

歴史[編集]

ラ・ガレンヌ駅とベルジック広場の間にあるコント通り

ラ・ガレンヌ(ウサギの生息地という意味)とコロンブという地名は古い地図に載っている。そのため、20世紀初頭に新しいコミューンの名として付けられた。

7世紀、ダゴベルト王はこの森に囲まれた狩場をサン=ドニ修道院のものと認めた。1222年にその名が修道院の記録に記された。13世紀のラ・ガレンヌはまだ良い狩場で農夫の家以上の住宅はなかった。15世紀、ウサギの生息地を立ち入り禁止にしようと、狩猟期に修道士たちが利用する田舎の家が建てられた。1684年までサン=ドニ修道院はこの土地の封建領主であろうと努力した。1684年、ラ・ガレンヌはマントノン侯爵夫人のものとなった。その後領主となったのは、サン=シル学院の所有者となったタンレー侯爵であった。領主が数人変わり、1791年までモナコ大公が領主となった。1791年にラ・ガレンヌは国有化され、タンレー侯爵の子孫へ返却された。

1812年、ナポレオン1世の主治医であったジャン=ニコラ・コルヴィサール男爵(fr)がガレンヌにあるトゥルネル城の城主となった。

1837年、パリ=サン・ジェルマン・アン・レー線のラ・ガレンヌ=コロンブ駅が開業した。開業の式典には王妃マリー・アメリーが出席した。

1910年、コロンブより分離され、新しいコミューン、ラ・ガレンヌ=コロンブが誕生した。

1908年にラ・ガレンヌ=コロンブにあったカセオ=ソジャーヌの工場では、中国人たちが働いていた。彼らは中国語のコースと平行して、フランス語や科学科目のプログラムに参加できた。1920年代、鄧小平がこの工場で働いていた。

経済[編集]

かつてPSA・プジョーシトロエン本部が置かれていたが、現在は移転し、研究部門のユジーヌPSA(fr)がある。

交通[編集]

  • 道路 - ペリフェリックのポルト・ド・シャンペル、ポルト・デ・テルヌ、ポルト・ド・マイヨ
  • 鉄道 - トランジリアンL線、ラ・ガレンヌ=コロンブ駅、ヴァレ駅

出身者[編集]

姉妹都市[編集]