ルカによる福音書2章

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ルカによる福音書2章(ルカによるふくいんしょ1しょう)は新約聖書ルカによる福音書の中の一章。1-7節がイエス誕生の出来事、8-20節が羊飼いたちへの天使の告知と幼子訪問、21-39節では割礼とエルサレムでの祝福、40-52節では神殿における少年イエスについての証言である。[1][2][3]

解釈[編集]

1-2節の住民登録(口語訳では人口調査としているが、徴税のため財産登録をするのであるから単に人口を調査するのではない。)ヨセフスは後6年にキリニウス(口語訳はクレニオ)がシリア総督に着任し、ユダヤの土地の住民登録をしたとしている。徴税目的の財産登録には従う者もいたが、ユダスやサドコスらがローマからの独立運動を起こし、内戦状態にまで発展した。[4]

3-5節でベツレヘムへ旅立つ。ミカ書5章1節にあるようにメシアはベツレヘムから出ると旧約聖書ではされており、ヨハネによる福音書7章42節にあるようにベツレヘムから出るメシアへの期待があった。その一方でナザレのイエスと呼ばれてもいたためそれらがルカによる福音書において調和されている。[3][5]

詩篇87篇ではあらゆる都の中心がイスラエルであり、神の力が他のあらゆる都が持つ力を圧倒するとしており、そのような世界観が前提されているとも考えられ、イエスの誕生が世界史的に位置づけられている。

[3][5]

87:1 主が基をすえられた都は聖なる山の上に立つ。

87:2 主はヤコブのすべてのすまいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。 87:3 神の都よ、あなたについて、もろもろの栄光ある事が語られる。[セラ 87:4 わたしはラハブとバビロンをわたしを知る者のうちに挙げる。ペリシテ、ツロ、またエチオピヤを見よ。「この者はかしこに生れた」と言われる。 87:5 しかしシオンについては「この者も、かの者もその中に生れた」と言われる。いと高き者みずからシオンを堅く立てられるからである。 87:6 主がもろもろの民を登録されるとき、「この者はかしこに生れた」としるされる。[セラ

87:7 歌う者と踊る者はみな言う、「わがもろもろの泉はあなたのうちにある」と。 — 詩篇87篇、『口語訳聖書』より引用。

6-7節ではイエスの誕生がごく簡潔に語られている。7節の宿屋には彼らの泊まる場所がなかったという記述から住民登録のため宿屋が満員で家畜小屋にしか泊まれなかったというのが一般的に知られているクリスマスの物語である。しかし7節では簡潔な説明しかなく、直接それが記述されているわけではない。ギリシア語でκαταλύματι(katalymati)は口語訳と共同訳の別訳では客間、新共同訳・共同訳・新改訳第3版・新改訳2017・田川訳では宿屋と訳している。これ同じ言葉がルカによる福音書22章11節では家の客間の意味で使われている。このことから一般的にイメージされている宿屋というよりは家の客間であったと考える読みもある。[1][3]

22:7 さて、過越の小羊をほふるべき除酵祭の日がきたので、

22:8 イエスはペテロとヨハネとを使いに出して言われた、「行って、過越の食事ができるように準備をしなさい」。 22:9 彼らは言った、「どこに準備をしたらよいのですか」。 22:10 イエスは言われた、「市内にはいったら、水がめを持っている男に出会うであろう。その人がはいる家までついて行って、 22:11 その家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。 22:12 すると、その主人は席の整えられた二階の広間を見せてくれるから、そこに用意をしなさい」。

22:13 弟子たちは出て行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。 — ルカによる福音書22章7-13節、『口語訳聖書』より引用。

8節より羊飼いに主の天使からメシア誕生の告知がされる。羊飼いは貧しい境遇に置かれ、社会的にも低い地位にあったが、その羊飼いにまず告知がなされることで弱い者、貧しい者を大切にするメシアの誕生であることを表現している。同時に旧約聖書では詩篇23篇では神が牧者にたとえられ、イエスの言葉としてヨハネによる福音書10章11節で「わたしはよい羊飼いである。」という言葉があり、羊飼いが聖書では肯定的に捉えられている。[3][6]

創世記31:36-42ではヤコブが羊飼いの仕事の過酷さについて語っている。

その一方で神殿はユダヤ人たちから神殿税を徴収しており、その上で犠牲を献げるためローマの貨幣を神殿内で使用するツロ貨幣に両替して購入しなければならなかった。このように神殿は巨大な利権を有していたのであり、羊飼いたちの境遇との大きな落差があったことが伺える。[7]

31:36 そこでヤコブは怒ってラバンを責めた。そしてヤコブはラバンに言った、「わたしにどんなあやまちがあり、どんな罪があって、あなたはわたしのあとを激しく追ったのですか。

31:37 あなたはわたしの物をことごとく探られたが、何かあなたの家の物が見つかりましたか。それを、ここに、わたしの一族と、あなたの一族の前に置いて、われわれふたりの間をさばかせましょう。 31:38 わたしはこの二十年、あなたと一緒にいましたが、その間あなたの雌羊も雌やぎも子を産みそこねたことはなく、またわたしはあなたの群れの雄羊を食べたこともありませんでした。 31:39 また野獣が、かみ裂いたものは、あなたのもとに持ってこないで、自分でそれを償いました。また昼盗まれたものも、夜盗まれたものも、あなたはわたしにその償いを求められました。 31:40 わたしのことを言えば、昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした。 31:41 わたしはこの二十年あなたの家族のひとりでありました。わたしはあなたのふたりの娘のために十四年、またあなたの群れのために六年、あなたに仕えましたが、あなたは十度もわたしの報酬を変えられました。

31:42 もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクのかしこむ者がわたしと共におられなかったなら、あなたはきっとわたしを、から手で去らせたでしょう。神はわたしの悩みと、わたしの労苦とを顧みられて昨夜あなたを戒められたのです」。 — 創世記31章36-42節、『口語訳聖書』より引用。

11節の救主(メシア)を表すσωτὴρ(soter)はローマ帝国ではアウグストへの呼称であったが、ここではルカがイエス誕生を世界史的に位置づけ、ユダヤ民族にとどまらず全世界の救い主であると言われる。クロッサン、ボーグなどはアウグスト以外の者を救主と言い表すことはアウグストは主ではないと主張することを意味し、政治的に非常に危険なことであったとしている。この告知を受け、飼い葉桶に寝かせられた乳飲み子のところを訪れた羊飼いたちは人々にこのことを広く告げ知らせている。[6]

14節のἀνθρώποις εὐδοκίας(anthrōpois eudokias)は直訳で「喜ばれることの人々」である。口語訳、新共同訳、共同訳聖書、新改訳第3版、新改訳2017いずれも御心にかなう人々と訳しており、共同訳聖書の別訳では「神に喜ばれる人にあれ」田川訳では「(主の)喜び給う人にあれ」と訳している。ラテン語ウルガタ訳がbonae voluntatisとしたように、善意を持った人々との解釈で理解されてきたが、現代ではFitzmyerなど死海文書の並行箇所(「感謝の詩篇」4:32-33)と関連付け、神の善意といった意味で理解している者が多い。[1][3][8]

15-19節で羊飼い達がベツレヘムに急いで向かい、イエスを訪れる。羊飼いがイエスについて告げ知らされたことを(おそらくベツレヘムの)人々に伝えた。18節のἐθαύμασαν (ethaumasan)は口語訳「驚いた」新共同訳「不思議に思った」共同訳聖書「不思議に思った」(別訳「驚いた」)新改訳第3版「驚いた」新改訳2017「驚いた」田川訳「驚いた」(別訳「いぶかった」)と訳しているように驚いた、ないし不思議に思ったという意味である。それに対してマリアは19節でσυνετήρει (synetērei)口語訳「心に留めて」新共同訳「心に納めて」共同訳聖書「心に留めて」新改訳第3版「心に納めて」新改訳2017「心に納めて」田川訳「保って」と訳している。心に納めてという訳もあるが、あくまで確実に保つ、しっかりと記憶するといった意味であり、秘密にしたというような意味はない。人々が単に羊飼いたちが話した内容に驚いた、あるいは不思議に思っただけにとどまったのに対し、マリアはしっかりと覚えておき、その意味するところが何かをよく考えていたという対比が表現されている。[1][3]

22-24節における清めはレビ記12章1-8節にあるようにイエスの両親が律法に忠実であることが書かれている。また、24節で献げ物をささげており、イエスの両親が律法に極めて忠実であったとしている。[3]

12:1 主はまたモーセに言われた、

12:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『女がもし身ごもって男の子を産めば、七日のあいだ汚れる。すなわち、月のさわりの日かずほど汚れるであろう。 12:3 八日目にはその子の前の皮に割礼を施さなければならない。 12:4 その女はなお、血の清めに三十三日を経なければならない。その清めの日の満ちるまでは、聖なる物に触れてはならない。また聖なる所にはいってはならない。 12:5 もし女の子を産めば、二週間、月のさわりと同じように汚れる。その女はなお、血の清めに六十六日を経なければならない。 12:6 男の子または女の子についての清めの日が満ちるとき、女は燔祭のために一歳の小羊、罪祭のために家ばとのひな、あるいは山ばとを、会見の幕屋の入口の、祭司のもとに、携えてこなければならない。 12:7 祭司はこれを主の前にささげて、その女のために、あがないをしなければならない。こうして女はその出血の汚れが清まるであろう。これは男の子または女の子を産んだ女のためのおきてである。

12:8 もしその女が小羊に手の届かないときは、山ばと二羽か、家ばとのひな二羽かを取って、一つを燔祭、一つを罪祭とし、祭司はその女のために、あがないをしなければならない。こうして女は清まるであろう』」。 — レビ記12章1-8節、『口語訳聖書』より引用。

25-35節はシメオンの祝福である。シメオンは創世記29章33節にあるように「神が聞かれた」の意味である。シメオンは祝福の讃歌を歌うことなどから祭司であることが伺われるが、ルカは単に「正しい信仰深い人」とされている。シメオンを祭司であるとするとイエスがシメオンの信徒であるということになるため、ルカはシメオンをあくまでも祭司とはしていない。また、シメオンは主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと示されていたことや御霊に感じて宮に入ったこと、29節で自ら僕と称していることからシメオンがイエスに従う存在であることが重ねて示されている。ヤコブ原福音書24章3-4節ではシメオンはザカリアの後継者として大祭司になり、聖霊からキリストを見るまでは死を見ることはないことが示されている。[1][2][3][9]

But the priests entered in at the hour of the salutation, and the blessing of Zacharias met them not according to the manner. And the priests stood waiting for Zacharias, to salute him with the prayer, and to glorify the Most High. But as he delayed to come, they were all afraid: and one of them took courage and entered in: and he saw beside the altar congealed blood: and a voice saying: Zacharias hath been slain, and his blood shall not be wiped out until his avenger come. And when he heard that word he was afraid, and went forth and told the priests. And they took courage and went in and saw that which was done: and the panels of the temple did wail: and they rent their clothes from the top to the bottom. And his body they found not, but his blood they found turned into stone. And they feared, and went forth and told all the people that Zacharias was slain. And all the tribes of the people heard it, and they mourned for him and lamented him three days and three nights. And after the three days the priests took counsel whom they should set in his stead: and the lot came up upon Symeon. Now he it was which was warned by the Holy Ghost that he should not see death until he should see the Christ in the flesh. — Book of James, or protevangelium 24:1-4、New Testament Apocrypha

29-32節のシメオンの讃歌はイエスの誕生がユダヤ人にとどまらず異邦人に啓示をもたらすことを歌い上げている。33節で父と母が不思議に思ったとしているのはCreed,Schweizerはこれまでのマリアへの天使の告知、羊飼いの体験を知らされたことがすでにあったことからこのエピソードがこれらのことを前提としない伝承であるとしている。しかしBrownやMarshallのようにこれまでの告知はイスラエルが中心の視点で語られているものであり、異邦人も含めた普遍的救済について語られたことに対して不思議に思ったと読む者もいる。34-35節はイザヤ書8章14-15節から来ている。反対を受けるしるしというのはイエスの宣教をユダヤ人指導者層が拒否することを暗示している。マリアが剣で心を刺し貫かれるというのはイエスの十字架を見るマリアの心の痛みを示唆すると考えられる。[1][3]

8:14 主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。 8:15 多くの者はこれにつまずき、かつ倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられる」。 — イザヤ書8章14-15節、『口語訳聖書』より引用。

36-38節で預言者アンナの賛美について書かれている。ヨハネによる福音書8章17節ではふたりによる証言が真実性を示すために重要であることが言及されているため、アンナがそのための存在として登場していると考えられる。[3]

8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

8:13 するとパリサイ人たちがイエスに言った、「あなたは、自分のことをあかししている。あなたのあかしは真実ではない」。 8:14 イエスは彼らに答えて言われた、「たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実である。それは、わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っているからである。しかし、あなたがたは、わたしがどこからきて、どこへ行くのかを知らない。 8:15 あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。 8:16 しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである。 8:17 あなたがたの律法には、ふたりによる証言は真実だと、書いてある。 8:18 わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるのである」。

8:19 すると、彼らはイエスに言った、「あなたの父はどこにいるのか」。イエスは答えられた、「あなたがたは、わたしをもわたしの父をも知っていない。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう」。 — ヨハネによる福音書8章12-19節、『口語訳聖書』より引用。

アンナの名前はヘブライ語におけるハンナ(恵み)のギリシア語であり、サムエルの母ハンナと同じ名前である。アンナはテモテへの手紙一5章3-10節に出てくるような模範的なやもめである。女預言者と言われてはいるが、出自、年齢、日常的振る舞いといった外面的描写が中心であり、アンナが話した内容ははっきりとは分からないが、エルサレムの救いを待ち望んでいるすべての人々に語りきかせたとあるため、ユダヤ人の救いを中心に語ったと考えることが可能である。[3]

5:3 やもめについては、真にたよりのないやもめたちを、よくしてあげなさい。

5:4 やもめに子か孫かがある場合には、これらの者に、まず自分の家で孝養をつくし、親の恩に報いることを学ばせるべきである。それが、神のみこころにかなうことなのである。 5:5 真にたよりのない、ひとり暮しのやもめは、望みを神において、日夜、たえず願いと祈とに専心するが、 5:6 これに反して、みだらな生活をしているやもめは、生けるしかばねにすぎない。 5:7 これらのことを命じて、彼女たちを非難のない者としなさい。 5:8 もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい。 5:9 やもめとして登録さるべき者は、六十歳以下のものではなくて、ひとりの夫の妻であった者、

5:10 また子女をよく養育し、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、種々の善行に努めるなど、そのよいわざでひろく認められている者でなければならない。 — テモテへの手紙一5章3-10節、『口語訳聖書』より引用。

41節からの神殿の少年イエスのエピソードは復活を予表している。エルサレムへの旅はイエスがエルサレムで死に、また復活したこと及びイエスを三日の後に見出したこと、学者たちの話を聞いたり質問したりしたことはエマオで聖書全体にわたり御自分について書かれていることを説明されたことを思い起こさせる。当時の巡礼は同じ村の親族や知人とともに行うものであったためにイエスを見失った際にはまず親族や知人の間を捜し回ったと考えられる。48節では「子よ」を意味するτέκνον(teknon)との呼びかけの言葉がある。(口語訳、新共同訳、共同訳、新改訳第3版、新改訳2017ではいずれも訳出されておらず、田川訳では「子よ」と訳されている)これに対する自分の父の家にいるはずのことをご存じなかったのですか、との返答はマタイによる福音書にある神こそがイエスの父であること、また血縁ではなく御心を行う者こそがイエスの家族であるとの言葉と響き合う。[1][2][3]

12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。

12:47 それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。 12:48 イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。 12:49 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。

12:50 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。 — マタイによる福音書12章46-50節、『口語訳聖書』より引用。


脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g 田川建三『新約聖書 訳と註 第二巻上 ルカ福音書』作品社、2011年、13-16,122-154。ISBN 978-4861821370。
  2. ^ a b c 川島貞雄『新約聖書注解―新共同訳 (1)』日本基督教団出版局、1991年、271-278頁。ISBN 978-4818400818。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 嶺重淑『ルカ福音書 1章-9章50節 (NTJ新約聖書注解)』日本基督教団出版局、2018年、86-124頁。ISBN 978-4818409927。
  4. ^ フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌〈6〉新約時代篇(18−20巻) (ちくま学芸文庫)』秦剛平訳、筑摩書房、2000年、13-16頁。ISBN 978-4480085368。
  5. ^ a b 石川康輔,左近淑,和田幹男,木田献一, 野本真也『新共同訳 旧約聖書注解〈2〉―ヨブ記 エゼキエル書』日本基督教団出版局、1994年、148頁。ISBN 978-4818401525。
  6. ^ a b J.D.クロッサン, M.J.ボーグ『最初のクリスマス―福音書が語るイエス誕生物語』浅野淳博訳、教文館、2009年、87-91,196。ISBN 978-4764266827。
  7. ^ 荒井献『イエスとその時代』岩波書店、1974年。ISBN 9784004121589。
  8. ^ 勝村弘也, 上村静『死海文書 Ⅷ 詩篇』ぷねうま舎、2018年、7-8頁。ISBN 978-4-906791-82-8。
  9. ^ M R James (2004). New Testament Apocrypha. Apocryphile Press. p. 48-49. ISBN 978-1947826113.