レッドスター・ベオグラード
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FKツルヴェナ・ズヴェズダ | ||||
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原語表記 | Фудбалски клуб Црвена звезда | |||
愛称 |
Crveno-beli (赤と白) Zvezda (星) | |||
クラブカラー | 赤・白 | |||
創設年 | 1945年 | |||
所属リーグ | セルビア・スーペルリーガ | |||
ホームタウン | ベオグラード | |||
ホームスタジアム | スタディオン・ライコ・ミティッチ | |||
収容人数 | 55,538[1] | |||
代表者 |
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監督 |
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公式サイト | 公式サイト | |||
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■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
レッドスター・ベオグラード(英語: Red Star Belgrade)は、セルビアの首都ベオグラードに本拠地を置くサッカークラブである。セルビアではフドバルスキ・クルブ・ツルヴェナ・ズヴェズダ(セルビア語: Фудбалски клуб Црвена звезда, セルビア語発音: [fûdbalskiː klûːb tsř̩ʋenaː zʋěːzda], セルビア・クロアチア語: Fudbalski klub Crvena zvezda)と呼ばれている。総合スポーツクラブ、SDツルヴェナ・ズヴェズダの一部でもある(バスケットボール部門はKKツルヴェナ・ズヴェズダ)。
ユーゴスラビア連邦時代から最も成功したセルビアのクラブであり、リーグ優勝は25回、カップ優勝は12回を数え、いずれも歴代最多である。国際大会でもUEFAチャンピオンズカップ 1990-91、トヨタカップ 1991などのメジャータイトルを獲得し、国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)が発表した20世紀ヨーロッパにおけるクラブランキングでは、オランダのフェイエノールトと並び27位にランクされた[2]旧ユーゴスラビア圏を代表するクラブである。
名称[編集]
「ツルヴェナ・ズヴェズダ」は「赤い星」という意味で各国の言語によって多くの名称を持つ。
- Црвена звезда(ツルヴェナ・ズヴェズダ、セルビア語)
- Red Star(レッド・スター、英語)
- Étoile rouge(エトワール・ルージュ、フランス語)
- Roter Stern(ロター・シュテルン、ドイツ語)
- Ερυθρός Αστέρας(エリスロス・アステラス、ギリシャ語)
- Stella Rossa(ステッラ・ロッサ、イタリア語)
- Rode Ster(ロデ・ステル、オランダ語)
- Estrela Vermelha(エストレラ・ヴェルメーリャ、ポルトガル語)
- Красная звезда(クラスナヤ・ズヴェズダ、ロシア語)
- Estrella Roja(エストレージャ・ロハ、スペイン語)
- Kızıl yıldız(クズル・ユルドゥズ、トルコ語)
日本では英語表記の「レッドスター・ベオグラード」が使用されてきたが近年はセルビア語表記の「ツルヴェナ・ズヴェズダ」も多く見られる(3文字略称はセルビア国内でCZV、UEFA大会でZVE)。
歴史[編集]
1945年 - 1965年[編集]
第二次世界大戦中の1945年3月4日、レッドスターは反ファシズムを標榜する若者たちの集団による[3]内務省系[4]の総合文化クラブとして設立された[3]。クラブはキャプテンとしてBSKで活躍していた「チカ」ことライコ・ミティッチを迎え入れ[5]、終戦後の1946年からユーゴスラビアリーグに参加する[3]。
1948年から1950年まで3年連続でユーゴスラビアカップを優勝した[6]クラブのリーグ初優勝は1951シーズンであった[7]。1955年には前年王者ハイデュク・スプリトの中心選手だったヴラディミル・ベアラやドラゴスラヴ・シェクララツなどを獲得[3]。後に「第1の星人」となるミティッチと「第2の星人」となる「シェキ」ことシェクララツを筆頭に多くの代表選手が顔を揃えたクラブはこのシーズンからリーグ4連覇を達成するなど国内では無類の強さを見せ、1950年代は6回のリーグ優勝[7]と2回のカップ優勝を記録した[6]。
欧州の舞台に初めて姿を見せたのは、1956-57シーズンのチャンピオンズカップ(UEFAチャンピオンズリーグの前身大会)であった[8]。この大会ではオランダのラピッドJC、ブルガリアのCDNAソフィアを破り準決勝まで勝ち進むが、準決勝では得点を奪えないままイタリアのフィオレンティーナに敗れた[9]。2年後の1958-59シーズンはルクセンブルクのスタッド・デュドランジュを相手に当時の最多得点記録となる2試合計14対1の大差で勝利するものの[8]、準々決勝でイングランドのマンチェスター・ユナイテッドに敗れた[10]。
1960年代に入ると50年代までの強さは影を潜め、3シーズン連続で無冠に終わる[7]。1962-63シーズンはクラブ史上最低順位となる7位に低迷し、得点数は降格争いをしていたヴォイヴォディナ・ノヴィサドの半数以下であった[11]。
1966年 - 1985年[編集]
1966年ミリャン・ミリャニッチが監督に就任し、世代交代を推し進めた[3]。クラブの中心だったシェクララツはドイツへ去り、後に「第3の星人」の栄誉を受け、UEFAジュビリーアウォーズにて過去半世紀におけるセルビア史上最高の選手と称えられる左サイドのウィンガー、「ジャヤ」ことドラガン・ジャイッチが台頭した。就任初年度は5位に低迷するものの[11]、1967-68シーズンからリーグ3連覇を達成[7]。1970-71シーズンには再びチャンピオンズカップの準決勝まで進出したが、ギリシャのパナシナイコスFCの前に4対4のタイスコアながらアウェイゴールの差で敗れた[12]。ミリャニッチは1974年、レアル・マドリードに引き抜かれるまで指揮を採り、4度のリーグ優勝[7]、3度のカップ優勝を成し遂げた[6]。
ミリャニッチ辞任の翌年にジャイッチはクラブを去り、ヴラディミル・ペトロヴィッチの時代が始まった。1972年6月にデビューした[13]「ピジョン」ことペトロヴィッチは1970年代後半に入るとクラブの絶対的なエースへと成長し、1978-79シーズンのUEFAカップでは同シーズンのリーグ得点王に輝いたドゥシャン・サヴィッチらと共にクラブを初のUEFA主催大会決勝へ導き[14]、後に「第4の星人」として表彰された。ペトロヴィッチは1982年にクラブを去るが、以降もトミスラヴ・イヴコヴィッチ、ボシュコ、ミルコのジュロヴスキ兄弟などのユーゴスラビア代表選手が活躍し[3]、ミリャニッチ辞任後の10年で2強を形成していたライバル、パルチザンを上回る4回のリーグ優勝を飾った[7]。
1986年 - 1991年[編集]
1986年、復帰したジャイッチを始めとするフロント陣は5年に渡る長期計画を立て、欧州制覇という大目標を掲げる[3]。そしてジャイッチに才能を見いだされ、「ピクシー」ことドラガン・ストイコビッチが入団したのもこの年であった[15]。1987年の夏より5ヶ年計画は始まった。
1987年のクラブが誕生した日、レッドスターはレアル・マドリードにマラカナで敗れた。この日から1992年の3月までの5年間、レッドスターは黄金時代と言える最良の時間を過ごした。ヴラディミル・ユーゴヴィッチ、シニシャ・ミハイロヴィチ、ロベルト・プロシネチキ、デヤン・サビチェビッチなどユーゴスラビアを代表する選手が顔を揃え、国内リーグでは5シーズンで4度の優勝を飾った[7]。ストイコビッチは3年連続でMVPを獲得するなど大活躍し、1990年にクラブを去った。この5年間で監督は5人変わったが、フロント陣の顔ぶれに変わりはなかった[3]。
1990年4月から5月にかけてユーゴスラビア各地で初の自由選挙が行われ、連邦を構成する各共和国で独立の機運が高まっていた[16]。5月13日、ザグレブで行われた対ディナモ・ザグレブとの試合で暴動が起こり[17]、これをきっかけにユーゴスラビア全土に戦火が広がっていくことになる(詳細は1990年ディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラード戦での暴動を参照)。
1990-91シーズンのチャンピオンズカップでは、フランスのオリンピック・マルセイユをPK戦の末に破り初の欧州王者となる[18][8]。皮肉にも前年までクラブに多大な貢献をしてきた「第5の星人」ストイコビッチはマルセイユのベンチを暖めていた。試合を決めるPKを蹴ったダルコ・パンチェフはこのシーズンのヨーロッパ・ゴールデンシューを獲得した[19]。その後のインターコンチネンタルカップでもチリのコロコロを破り世界一となり、このときの「セルビアを東京へ」というスローガンは、その後のユーゴスラビア紛争でも多用された。
1992年 - 現在[編集]
長引く紛争に国連による制裁など、欧州王者となったクラブを取り巻く状況は苦しいものとなっていく[8]。前回大会王者として臨んだ1991-92シーズンのチャンピオンズカップでは、ホームゲームは全て第3国での開催となり、この大会から導入されたグループステージでイタリアのサンプドリアに及ばず敗退した[20]。主だった戦力は西側諸国に流出し、ユーゴスラビアは解体された。
紛争終了後の新生ユーゴスラビアリーグでは、ダルコ・コバチェビッチやデヤン・ペトコヴィッチ、ネボイシャ・クルプニコビッチなどの新しい力がコンスタントに台頭するも、ほとんどのシーズンでパルチザンの後塵を拝する結果となった。監督は次々に更迭され、星人ペトロヴィッチまでもが1年を待たずに職を追われた[21]。紛争終了後のリーグ優勝は1999-00シーズンまで無く、1990年代を通じてリーグ優勝は2回に留まった[7]。
1998年にはジャイッチが、2005年にはストイコビッチが会長に就任し、2009年には再びペトロヴィッチが監督として復帰した。2000年代に入っても国内リーグではパルチザンとの2強を形成しているが、2009年は所属選手の給与未払いが表面化するなど[22]、2500万ドルに上るとも言われる負債による財政難もあって、欧州の舞台では活躍できない日々が続いている[23]。
2010年、クラブは新たなメインスポンサーとしてロシアのガスプロム社と5年の契約を結んだ。契約料は年間380万ドルと報道されている[24][23]。
スタジアム[編集]
ホームスタジアムであるスタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダは1963-64シーズンから使用が開始された。3年の工期を経て建設された収容者数55,000人の巨大スタジアムは、当時のバルカン半島最大規模を誇った。スタジアムのこけら落としは1963年9月1日のNKリエカ戦で、試合はレッドスターが2対1で勝利した。翌年、スタジアムには110,000人もの観衆が押し寄せ、その光景は世界最大のスタジアム、エスタジオ・ド・マラカナンを連想させた。これ以降、スタジアムは「マラカナ」の通称で呼ばれることとなる[25]。このシーズン、レッドスターは4季ぶりにリーグ優勝を果たした[7]。
現在の収容人員は55,538人で、マラカナの北西に位置するパルチザン・ベオグラードの本拠地スタディオン・パルチザーナとは直線距離にして約1キロ程しか離れていない。
サポーター[編集]
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その実績からセルビア国内では圧倒的な人気を誇り、セルビア国内の半数弱がクラブを支持しているという調査結果もある[26]。サポーターは「北の英雄」を意味するデリイェ・セヴェル(Delije sever)と呼ばれ[27]、同じくベオグラードを本拠地とするライバルであるパルチザン・ベオグラードとのヴェチティ・デルビは特に盛り上がりを見せる[28]。2009年4月にはパルチザンとの試合中にサポーターが警察と衝突し、95人もの逮捕者を出した[29]。
タイトル[編集]
国内タイトル[編集]
リーグ[編集]
- ユーゴスラビアリーグ : 19回
- 1950-51, 1952-53, 1955-56, 1956-57, 1958-59, 1959-60, 1963-64, 1967-68, 1968-69, 1969-70, 1972-73, 1976-77, 1979-80, 1980-81, 1983-84, 1987-88, 1989-90, 1990-91, 1991-92
- ユーゴスラビア / セルビア・モンテネグロリーグ : 5回
- 1994-95, 1999-00, 2000-01, 2003-04, 2005-06
- セルビアリーグ : 6回
- 2006-07, 2013-14, 2015-16, 2017-18, 2018-19, 2019-20
カップ[編集]
- ユーゴスラビアカップ : 12回
- 1947-48, 1948-49, 1949-50, 1957-58, 1958-59, 1963-64, 1967-68, 1969-70, 1970-71, 1981-82, 1984-85, 1989-90
- ユーゴスラビア / セルビア・モンテネグロカップ : 9回
- 1992-93, 1994-95, 1995-96, 1996-97, 1998-99, 1999-00, 2001-02, 2003-04, 2005-06
- セルビアカップ : 3回
- 2006-07, 2009-10, 2011-12
国際タイトル[編集]
- UEFAチャンピオンズカップ : 1回
- 1990-91
- インターコンチネンタルカップ : 1回
- 1991
- ミトローパ・カップ : 2回
- 1958, 1968
過去の成績[編集]
シーズン | ディビジョン | カップ | 欧州カップ | 最多得点者 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
リーグ | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 点 | 順位 | 選手 | 得点数 | ||||
1996-97 | ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ | 33 | 25 | 3 | 5 | 79 | 30 | 78 | 2位 | 優勝 | カップウィナーズカップ | 2回戦敗退 | ![]() |
27 |
1997-98 | ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ | 33 | 27 | 3 | 3 | 86 | 22 | 84 | 2位 | 準決勝敗退 | カップウィナーズカップ | 1回戦敗退 | ![]() |
21 |
1998-99 | ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ | 24 | 15 | 6 | 3 | 54 | 18 | 51 | 3位 | 優勝 | UEFAカップ | 2回戦敗退 | ![]() ![]() |
14 |
1999-00 | ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ | 40 | 33 | 6 | 1 | 85 | 19 | 105 | 1位 | 優勝 | UEFAカップ | 1回戦敗退 | ![]() |
25 |
2000-01 | ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ | 34 | 28 | 4 | 2 | 93 | 20 | 88 | 1位 | 準優勝 | チャンピオンズリーグ | 予選3回戦敗退 | ![]() ![]() |
24 |
UEFAカップ | 2回戦敗退 | |||||||||||||
2001-02 | ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ | 34 | 18 | 12 | 4 | 54 | 28 | 66 | 2位 | 優勝 | チャンピオンズリーグ | 予選3回戦敗退 | ![]() |
16 |
UEFAカップ | 1回戦敗退 | |||||||||||||
2002-03 | セルビア・モンテネグロ・プルヴァ・リーガ | 34 | 21 | 7 | 6 | 68 | 26 | 70 | 2位 | 準優勝 | UEFAカップ | 2回戦敗退 | 22 | |
2003-04 | セルビア・モンテネグロ・プルヴァ・リーガ | 30 | 23 | 5 | 2 | 59 | 13 | 74 | 1位 | 優勝 | UEFAカップ | 2回戦敗退 | ![]() |
27 |
2004-05 | セルビア・モンテネグロ・プルヴァ・リーガ | 30 | 23 | 5 | 2 | 66 | 18 | 74 | 2位 | 準優勝 | チャンピオンズリーグ | 予選3回戦敗退 | ![]() |
24 |
UEFAカップ | 1回戦敗退 | |||||||||||||
2005-06 | セルビア・モンテネグロ・スーペルリーガ | 30 | 25 | 3 | 2 | 73 | 23 | 78 | 1位 | 優勝 | UEFAカップ | グループステージ敗退 | ![]() |
20 |
2006-07 | セルビア・スーペルリーガ | 32 | 23 | 5 | 4 | 55 | 27 | 74 | 1位 | 優勝 | チャンピオンズリーグ | 予選3回戦敗退 | ![]() |
15 |
UEFAカップ | 1回戦敗退 | |||||||||||||
2007-08 | セルビア・スーペルリーガ | 33 | 21 | 12 | 0 | 65 | 22 | 75 | 2位 | 準決勝敗退 | チャンピオンズリーグ | 予選3回戦敗退 | ![]() |
16 |
UEFAカップ | グループステージ敗退 | |||||||||||||
2008-09 | セルビア・スーペルリーガ | 33 | 17 | 8 | 8 | 59 | 32 | 59 | 3位 | 準決勝敗退 | UEFAカップ | 予選2回戦敗退 | ![]() |
23 |
2009-10 | セルビア・スーペルリーガ | 30 | 23 | 2 | 5 | 53 | 17 | 71 | 2位 | 優勝 | ヨーロッパリーグ | プレーオフ敗退 | ![]() |
17 |
2010-11 | セルビア・スーペルリーガ | 30 | 22 | 4 | 4 | 52 | 18 | 70 | 2位 | 準決勝敗退 | ヨーロッパリーグ | 予選3回戦敗退 | ![]() |
20 |
2011-12 | セルビア・スーペルリーガ | 30 | 21 | 5 | 4 | 57 | 18 | 68 | 2位 | 優勝 | ヨーロッパリーグ | プレーオフ敗退 | ![]() |
14 |
2012-13 | セルビア・スーペルリーガ | 30 | 20 | 2 | 8 | 55 | 35 | 62 | 2位 | 準々決勝敗退 | ヨーロッパリーグ | プレーオフ敗退 | ![]() |
12 |
2013-14 | セルビア・スーペルリーガ | 30 | 23 | 3 | 4 | 66 | 27 | 72 | 1位 | 準々決勝敗退 | ヨーロッパリーグ | 予選3回戦敗退 | ![]() |
20 |
2014-15 | セルビア・スーペルリーガ | 30 | 19 | 7 | 4 | 46 | 20 | 64 | 2位 | 2回戦敗退 | - | - | ![]() |
10 |
2015-16 | セルビア・スーペルリーガ | 37 | 30 | 5 | 2 | 97 | 27 | 54 | 1位 | 2回戦敗退 | ヨーロッパリーグ | 予選1回戦敗退 | ![]() |
23 |
2016-17 | セルビア・スーペルリーガ | 37 | 30 | 4 | 3 | 93 | 33 | 55 | 2位 | 準優勝 | チャンピオンズリーグ | 予選3回戦敗退 | ![]() |
16 |
ヨーロッパリーグ | プレーオフ敗退 | |||||||||||||
2017-18 | セルビア・スーペルリーガ | 37 | 32 | 4 | 1 | 96 | 19 | 60 | 1位 | 準々決勝敗退 | ヨーロッパリーグ | ベスト32 | ![]() |
29 |
2018-19 | セルビア・スーペルリーガ | 37 | 33 | 3 | 1 | 97 | 20 | 60 | 1位 | 準優勝 | チャンピオンズリーグ | グループステージ敗退 | ![]() |
25 |
2019-20 | セルビア・スーペルリーガ | 30 | 25 | 3 | 2 | 68 | 18 | 78 | 1位 | 準決勝敗退 | チャンピオンズリーグ | グループステージ敗退 | 14 | |
2020-21 | セルビア・スーペルリーガ | 位 | チャンピオンズリーグ | 予選3回戦敗退 | ||||||||||
ヨーロッパリーグ | ラウンド32 |
現所属メンバー[編集]
|
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ローン移籍[編集]
- in
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- out
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永久欠番[編集]
- 12 デリイェ・セヴェル(サポーター)
- 26 ゴラン・ゴギッチ
歴代監督[編集]
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歴代所属選手[編集]
星人[編集]
クラブでは大きな功績を残した功労者に対して、「ズヴェズディナ・ズヴェズダ(Zvezdina zvezda)」という称号を授けている。日本語では「星人」と訳される。現在までの受賞者は以下の通り。
- 第1の星人(Prva Zvezdina zvezda) ライコ・ミティッチ(FW、1945-1958)
- 第2の星人(Druga Zvezdina zvezda) ドラゴスラヴ・シェクララツ(MF、1955-1966)
- 第3の星人(Treća Zvezdina zvezda) ドラガン・ジャイッチ(FW、1963-1975、1977-1978)
- 第4の星人(Četvrta Zvezdina zvezda) ヴラディミル・ペトロヴィッチ(MF、1972-1982)
- 第5の星人(Peta Zvezdina zvezda) ドラガン・ストイコヴィッチ(MF、1986-1990)
1991世代[編集]
UEFAチャンピオンズカップ 1990-91 決勝のスターティングメンバー |
上記の5人の他にUEFAチャンピオンズカップ 1990-91優勝を果たしたチームが第6の星(Šesta Zvezdina zvezda)として表彰されている[33]。ルーマニア国籍のミオドラグ・ベロデディッチを除いて全員がユーゴスラビア国内出身の選手だった[注 1]。背番号はUEFAチャンピオンズカップ 1990-91決勝のもの。
1 ステヴァン・ストヤノヴィッチ(キャプテン)
12 ミリッチ・ヨヴァノヴィッチ
ジェリコ・カルジェロヴィッチ
5 ミオドラグ・ベロデディッチ
6 イリヤ・ナイドスキ
4 レフィク・シャバナジョヴィッチ
3 スロボダン・マロヴィッチ
14 ラデ・トシッチ
ドゥシュコ・ラディノヴィッチ
ゴラン・ヴァシリイェヴィッチ
2 ヴラディミル・ユゴヴィッチ
8 シニシャ・ミハイロヴィッチ
10 デヤン・サヴィチェヴィッチ
7 ロベルト・プロシネチュキ
13 イヴィツァ・モムチロヴィッチ
15 ヴラダ・ストシッチ
ミロラド・ラトコヴィッチ
11 ドラギシャ・ビニッチ
9 ダルコ・パンチェヴ
16 ヴラダン・ルキッチ
リュビシャ・ミロイェヴィッチ
国内リーグ得点王[編集]
- The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundationの記録による[34]。
コスタ・トマシェヴィッチ 1951(16得点)
ボラ・コスティッチ 1958-59(25得点)
ボラ・コスティッチ 1959-60(19得点)
ヴォイン・ラザレヴィッチ 1968-69(22得点)
ヴォイン・ラザレヴィッチ 1972-73(25得点)
ドゥシャン・サヴィッチ 1974-75(20得点)
ゾラン・フィリポヴィッチ 1976-77(21得点)
ドゥシャン・サヴィッチ 1978-79(24得点)
ダルコ・パンチェヴ 1989-90(25得点)
ダルコ・パンチェヴ 1990-91(34得点)[注 2]
ダルコ・パンチェヴ 1991-92(25得点)
アント・ドロブニャク 1992-93(22得点)
ゾラン・ヨヴィチッチ 1996-97(21得点)
サシャ・マルコヴィッチ 1997-98(27得点)[注 3]
ニコラ・ジギッチ 2003-04(19得点)
マルコ・パンテリッチ 2004-05(21得点)
ネナド・イェストロヴィッチ 2007-08(13得点)
アンドリヤ・カルジェロヴィッチ 2010-11(13得点)
ドラガン・ムルジャ 2013-14(19得点)
アレクサンダル・カタイ 2015-16(21得点)
アレクサンダル・ペシッチ 2017-18(25得点)
出典・脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ ベロデディッチの両親は共にセルビア人であり、自身は1988年にユーゴスラビアへ亡命している。
- ^ ヨーロッパ・ゴールデンシューも受賞。
- ^ シーズン途中にジェレズニクから加入(ジェレズニクで13得点、レッドスターで14得点)。
出典[編集]
- ^ “Stadion Rajko Mitić (Marakana)”. 2015年6月25日閲覧。
- ^ Europe's Club of the Century - IFFHS(2010年6月11日閲覧)
- ^ a b c d e f g h istorija - crvenazvezdafk.com(2010年6月11日閲覧)
- ^ 柴宜弘/編、宇都宮徹壱/著『バルカンを知るための65章』明石書店、2005年、p.322。ISBN 978-4750320908。
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- ^ a b c d e f g h i Yugoslavia/Serbia (and Montenegro) - List of Champions - RSSSF
- ^ a b c d European Star - crvenazvezdafk.com(2010年6月11日閲覧)
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- ^ Champions' Cup 1970-71 - RSSSF 2010年8月30日閲覧。
- ^ Vladimir Petrović novi trener Crvene zvezde - crvenazvezdafk.com(2010年8月30日閲覧)
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- ^ “3・27欧州選手権予選で会おう、わがクロアチアとユーゴのたたかい” (日本語). 千田善. 2010年6月15日閲覧。
- ^ Champions' Cup 1990-91 - RSSSF 2010年8月30日閲覧。
- ^ Golden Boot ("Soulier d'Or") Awards - RSSSF 2010年8月30日閲覧。
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- ^ a b Red Star Belgrade and Gazprom sign shirt deal - eufootball.biz 2010年7月22日付記事
- ^ Red Star Belgrade sign multi-million dollar deal with Gazprom - SportsPro 2010年7月16日付記事
- ^ Stadion - crvenazvezdafk.com(2010年6月11日閲覧)
- ^ Svaki drugi Srbin navija za Zvezdu - B92(2008年2月27日)
- ^ SAYONARAとは言わないで!~ユーゴスラビアの人々が語る「ピクシー」(後編) - スポーツナビ(2010年6月11日閲覧)
- ^ THE LIST: The greatest rivalries in club football, Nos 10-1 - dailymail.co.uk 2009年11月27日付記事。
- ^ サッカー=レッドスターのサポーター150人、チェコで拘束 - ロイター(2009年8月21日)
- ^ “First Team”. FK Crvena zvezda. 2019年9月16日閲覧。
- ^ “Licensed for UEFA Champions League”. UEFA. 2016年7月9日閲覧。
- ^ “Licensed for the Serbian SuperLiga”. superliga.rs. 2016年7月20日閲覧。
- ^ Tim je šesta Zvezdina zvezda - B92(2010年5月26日)
- ^ Yugoslavia - List of Topscorers - RSSSF 2010年8月30日閲覧。
外部リンク[編集]
- 公式サイト (セルビア語) (英語)
- FK Crvena zvezda (@crvenazvezdafk) - Twitter
- FIFAによるクラブ紹介 (英語)
- UEFAによるクラブ紹介 (英語)
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