ロードス島

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ロドス島
Ρόδος
ロドスの街
ロドスの街
地理
GR Rhodes.PNG
座標 北緯36度10分 東経28度00分 / 北緯36.167度 東経28度 / 36.167; 28 
諸島 ドデカネス諸島
面積 1,400.684 km² (541 sq.mi.)
最高地   (1,216 m (3,990 ft))
行政
ギリシャの旗 ギリシャ
地方 南エーゲ
ロドス県
中心地 ロドス
統計
人口 117,007人 (2001現在)
人口密度 84 /km² (216 /sq.mi.)

ロドス島ギリシア語: Ρόδος / Ródos ; : Rhodes)は、エーゲ海南部のアナトリア半島沿岸部に位置するギリシャ領の島。ドデカニサ諸島に属し、ギリシャ共和国で4番目に大きな面積を持つ。ロードス島との表記も用いられる(#名称節参照) 。

古代以来繁栄したロドスの街には、世界の七不思議の一つである「ロドス島の巨像」が存在したことでも知られる。また、その中世期の町並は「ロドスの中世都市」の名で世界遺産に登録されている。

目次

名称

日本ではしばしば「ロードス」と表記されるが、これはドイツ語表記 Rhodos の影響を受けたものであり、ギリシャ語による発音のカナ転記としては誤りとなる。古典ギリシア語の表記(Ῥόδος)と発音を転記すれば「ロドス」である(長母音 ω は用いられていないために「ロードス」にはなり得ない)。現代ギリシャ語では [ˈroðos] と発音され、「ロドス」あるいは「ロゾス」と転記され得る。

このほか、この島に関係の深い言語ではそれぞれ以下のように呼ばれた。

英語では Rhodes (ローズ島)あるいは Rhode (ロード島)と呼ぶ。アメリカ合衆国ロードアイランド州Rhode Island)の名は、ロドス島にちなむ。

地理

アナトリア半島沿岸部に位置し、陸地とは18km隔たっている。アテネキプロス島のほぼ中間にあたる。

ロドスの街は島の東北端に位置する。2004年時点での島の人口は130,000人、内60,000人あまりがロドス市で生活している。東南岸にはリンドスの街がある。

歴史

この島には新石器時代から人が住んでいたが、その頃の痕跡はわずかしか残っていない。紀元前16世紀にはミノア文明の人々が、そして紀元前15世紀アカイア人が到来し、さらに紀元前11世紀にはドーリア人がこの島へとやってきた。ドーリア人たちはのちに本土のコス、クニドスハリカルナッソスに加えてリンドス、イアリソス、カミロスという3つの重要な都市(いわゆるドーリア人の6ポリス)を建設した。

アケメネス朝が小アジアにまでその勢力を拡大するとロドスもその影響を否が応にも受けざるを得ない位置にあったが、ペルシャ戦争後の紀元前478年にロドス島の諸都市はアテナイを中心とするデロス同盟に加わった。この後紀元前431年にはペロポネソス戦争が勃発するが、ロドス島はデロス同盟の一員ではあったものの中立的な立場をとりつづけた。戦争が終わる紀元前404年ペロポネソス戦争でギリシアは疲弊し、それがまた侵略を招くこととなった。紀元前357年にハリカルナッソスのマウスロス王によってロドス島は征服され、紀元前340年にはアケメネス朝の支配下に入った。しかしその後紀元前332年に、東征中のアレクサンドロス3世がロドス島をアケメネス朝の支配から解放し、自己の勢力圏の一部とした。

ロドス島

アレクサンドロスの死後、後継者問題からその配下の将軍らによる戦乱が起こり、プトレマイオス1世セレウコスアンティゴノスらが帝国を分割した。 このいわゆるディアドコイ戦争の間ロードス島は主に交易関係を通じてエジプトに拠るプトレマイオスと密接な関係にあったが、ロドスの海運力がプトレマイオスに利用されることを嫌ったアンティゴノスは息子デメトリオスに軍を率いさせてロドスを攻撃させた。これに対してロドス側はよく守ってデメトリオスの攻撃を凌ぎきり、翌年攻囲戦の長期化を望まないアンティゴノスとプトレマイオス双方が妥協して和平協定が成立した。この時デメトリオスの軍が遺していった武器を売却して得た収益をもとに、今日アポロの巨像としてその名を残している太陽神ヘリオスの彫像が造られた。

ロドス島はエジプトプトレマイオス朝との交易の重要な拠点となると同時に、紀元前3世紀エーゲ海の通商を支配した。海における商業と文化の中心地として発展し、その貨幣は地中海全域で流通していた。哲学文学修辞学の有名な学府もあった。

紀元前190年セレウコス朝の攻撃を受けるもこれを退けた。この時の勝利を記念して、エーゲ海北端のサモトラケ島に翼をもった勝利の女神ニーケーの像が建てられた。(→サモトラケのニケ紀元前164年ローマ共和国と平和条約を結び、以後ローマの貴族たちのための学校としての役割を担うことになる。両者の関係は、当初はローマの重要な同盟国として様々な特権が認められていたが、のちにローマ側によりそれらは剥奪されていき、ガーイウス・ユーリウス・カエサル死後の戦乱の最中にはカシウスによる侵略を受け都市は略奪された。

紀元前後、後にアウグストゥスの後を継ぎ皇帝となるティベリウスがこの地で隠遁生活を送ったほか、パウロが訪れキリスト教を伝えた。297年、それまでのローマの同盟国という地位からその直接統治下に移ったが、ローマ帝国分裂後は東ローマ帝国領となった。東ローマ領であった一千年の間には、ロドス島はさまざまな軍隊によって繰り返し攻撃された。

東ローマ帝国が衰亡しつつあった1309年、ロドス島は聖ヨハネ騎士団(別名・ホスピタル騎士団)に占領され、ロドス島騎士団と称されるこの騎士団のもと都市は中世ヨーロッパ風に作り変えられた。騎士団長の居城などのロードス島の有名な遺跡の多くはこの時期に造営されたものである。騎士団は島内に堅固な城塞を築き、1444年エジプトマムルーク朝の攻撃や1480年オスマン帝国メフメト2世の攻撃を防いだが、1522年スレイマン1世の大軍に攻囲され遂に陥落した。騎士団の残った者たちはマルタ島へ移っていった。

ロドス島の征服は、オスマン帝国にとっては東地中海の海路の安全、つまり、イスタンブルカイロの間の円滑な商品流通に寄与するものであった。その後、1669年にヴェネツィア共和国支配下のクレタ島がオスマン帝国に征服されたが、その際には、ロドス島から軍が送られていた。

1912年トルコ領だったロドス島はイタリアによって占領され、1947年にはドデカネス諸島ともにギリシャに編入された。

なおここではギリシャとトルコによるロドス島支配の交代に関する多くの出来事は省略している。

地震

ロードス島の歴史は大地震の歴史でもある。(地震の年表)下記のロードス島として記録されているものだけではなく、他にギリシャの地震で被害を受けている。

  • 紀元前226年 ギリシャ、ロードス島で地震。港口にあった巨像が倒壊する。
  • 155年 ギリシャ東部ロードス島で地震、ロードス市(BC407年建設)全滅。
  • 1304年8月9日 ギリシャ東部ロードス島で地震 - M 8。
  • 1856年10月12日 ギリシャ、クレタ島、ロードス島で地震 - M 8.0、死者35人。

関連項目

参考文献

  • 塩野七生『ロードス島攻防記』
  • 秀村欣二/伊藤貞夫著『世界の歴史2 ギリシアとヘレニズム』講談社、1976年
  • P・プティ/A・ラロンド著(北野徹訳)『ヘレニズム文明』文庫クセジュ(白水社)、2008年
  • 芳賀京子著『ロドス島の古代彫刻』中央公論美術出版、2007年

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