ワーム主計官強盗事件

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ワーム主計官強盗事件
(Wham Paymaster robbery)
Holding Up the Pay Escort Remington.jpg
Holding Up the Pay Escortフレデリック・レミントン(Frederic Remington)作
1889年5月11日
場所アリゾナ準州フォート・トマス(Fort Thomas)近く
北緯32度50分 西経110度08分 / 北緯32.833度 西経110.133度 / 32.833; -110.133
結果 盗賊らは金貨、銀貨で28345米ドル10セントを窃盗した。
衝突した勢力
アメリカ合衆国の旗 アメリカ 不明
指揮官
アメリカ合衆国の旗 ジョセフ・W・ワーム(Joseph W. Wham) ギルバート・ウェッブ(Gilbert Webb)とされる
戦力
歩兵12人 盗賊7人–13人
被害者数
負傷8人 死亡1人–2人(推定)

ワーム主計官強盗事件 ([ˈhwɑːm] WHAHM) (ワームしゅけいかんごうとうじけん、Wham Paymaster robbery)は、1889年5月11日アメリカ合衆国アリゾナ準州であった、金貨および銀貨で2万8000ドル(790,410ドル相当)を運搬していたアメリカ合衆国陸軍主計官とその護衛に対する武装強盗事件である。

少佐ジョセフ・W・ワーム(Major Joseph W. Wham)はアリゾナ準州のフォート・グラント(Fort Grant)からフォート・トマス(Fort Thomas)まで給与を運んでいたとき、少佐ワームとそのバッファロー・ソルジャーの護衛11人は、伏兵攻撃を受けた。襲撃中、盗賊らは、兵士8人にけがを負わせ、彼らを援護物に退却させ、給与を窃盗した。砲火を受けた行動の結果として、軍曹ベンジャミン・ブラウン(Sergeant Benjamin Brown)と軍曹アイザイア・メイズ(Sergeant Isaiah Mays)は名誉勲章を授与され、他の兵士8人が表彰状(Certificate of Merit)を受けた。男性11人が逮捕され、大部分がピマ(Pima)の近くのモルモン教コミュニティー出身だった。逮捕された11人のうち、強盗の容疑で8人の公判が行われたが被告人は全員無罪とされ、盗まれた金銭が戻ることはなかった。

背景[編集]

1889年4月に特別命令37(Special Order 37)が、アリゾナ地区内の全主計官に4月30日現在で召集されていた部隊への給与支払いを命じた[1]。合衆国陸軍主計官(Major Joseph Washington Wham, a U.S. Army paymaster)である少佐ジョセフ・ワシントン・ワームは、フォート・ボウイー(Fort Bowie)、フォート・グラント(Fort Grant)、フォート・トマス(Fort Thomas)、フォート・アパッチ(Fort Apache)とキャンプ・サン・カルロス(Camp San Carlos)がこの職務に当てられた[2]。ワームと彼のクラーク(clerk)であるウィリアム・T・ギボン(William T. Gibbon)は、5月8日にウィルコックス(Willcox)で給与を運ぶ列車と落ち合い[3]、その後主計官は5月9日にフォート・ボウイーで、そして5月10日にフォート・グラントで、職務を執行した[4]

少佐ジョセフ・ワシントン・ワーム(Major Joseph Washington Wham)

5月11日早くに、ワーム少佐は、ラバ車2台、屋根付き救急車、そしてオープン・ワゴンとともに、フォート・グラントを発ち、フォート・トマスへの46-マイル (74 km)の旅に出た。残りの給与は、金貨と銀貨で2万8345米ドル10セントで、重さは推定250ポンド (110 kg)であった[3]。フォート・グラントの司令官は、第24歩兵隊(24th Infantry)と第10騎兵隊(10th Cavalry)からバッファロー・ソルジャー11名を指名し、自分のフォートとフォート・トマスとの間の護衛をつとめさせた。軍人にくわえて、オープン・ワゴンを走らせる民間契約者が1人いた。護衛を率いる下士官2人は、回転式拳銃で武装していたし、二等兵らは単発のライフル銃とカービン銃を持っていた。ワームと車団の文民らは、武装していなかった。黒人女性フランキー・キャンベル(Frankie Campbell)(フランキー・ストラットン(Frankie Stratton)としても知られる)が、旅行でワームに同伴していた。キャンベルは、フォート・グラントに駐屯していた或る兵士の妻で、フォート・トマスに駐留していた兵士らが自分と自分の夫に負うている賭博の負債を回収しようとしていた[5]

1889年5月までにアリゾナ準州内において追い剥ぎが主計官を襲撃したことは一度もなかった[4]が、そのような襲撃にとって有利な要因がいくつかあった。準州は、遠隔であり、少ない人口は散住しているにすぎなかった。アリゾナ準州の多くの住民は、合衆国連邦政府を軽蔑し、これは準州を、準州の住民に幸福にほとんど関心をもたぬまま支配していると感じており、アリゾナのほとんどの白人居住者が南部連邦支持者または南部連邦同情者であったという事実がこれをさらに悪化させていた[6]。ワシントンと末日聖徒教会(Church of Latter-day Saints)との間の数十年間の敵対関係は、準州のモルモン教徒住民間に悪感情を残した[7]。エドマンズ法(Edmunds Act)は複婚(polygamy)を重罪としたが、同法を強化しようとする近年の努力は、このグループ内で怒りを増していた[8]。最後に、黒人兵士に対する白人住民によって抱かれた強い人種的偏見は、黒人を社会の底辺におくモルモン教の教義によって悪化していた。このことは、一部の地域住民が、給与は、不道徳な楽しみに使いそうであると見られていた黒人兵の手に渡るのではなく、地元コミュニティーを支持することに費やされるほうがよい、と合理的に説明できたであろう状況につながった[7]

フォート・トマスへの道は、北西に延び、ボニータ(Bonita)の町に南西に行き、グレアム山(Mount Graham)の西側をたどった[5]。フォート・グラントから25マイル (40 km)ほどのところで、道は、ヒラ川渓谷に至る小道に入った。ワームの車団は、正午ころに、パスの(, in the pass, )、シダー・スプリングス(Cedar Springs)に到着し、ラバたちを、NN牧場(NN ranch)で待っていた新鮮なセット(fresh set)と交換した。キャンベルのウマは、ワームのワゴンよりも早かったし、彼は、道の短い距離先の駅馬車の途中の或る駅で待っていた。その駅は、モルモン教の複婚主義者ワイリー・ホラディー(Wiley Holladay)によって運営されていた[9]。その日はホラディは出かけ、妻たちのハリエットおよびエリザにその場所を営ませていた[10]。午後12時45分ごろに(around 12:45 pm)、ワームと彼の護衛は、駅に到着し、そのときキャンベルはグループにふたたび合流した[9]

強盗[編集]

襲撃の場所は、駅馬車の駅の北3マイル (4.8 km)にあった[4]。道はその地点で、高い尾根から狭い峡谷を通ってクリーク床に下りていた[11]。峡谷の東側は、道よりも50フィート (15 m)上がっている、岩ばかりの険しい斜面から成り、西側はより低い高みであった[12]。東側の頂に沿って、一連の胸壁が盗賊によって構築されていた[11]。防御施設をもっと厄介そうに見せようとする明らかな試みとして、ユッカの茎がライフルの銃身のように見えるように作られ、胸壁に置かれていた[13]

午後1時ごろに、ワーム一行が襲撃の現場に到着した。キャンベルは、先頭に立っていて、ウマを巨石の周りに導こうとしていたが、その巨石は道を妨げたし、一行の残りは丘の頂きに達した[14]。車団が停まったのち、軍曹ベンジャミン・ブラウンは、道路の外に障害物を移動しようとするために、部下らを前の方へ導き、伍長アイザイア・メイズは車団の後方に位置した[15]。岩に近づいたとき、グループには、岩が故意に道路に置かれたという証拠が見えた。彼らがそれから、岩がどこから来たか見ようと見上げたとき、兵士らには、男2人がそれらよりも高く位置する胸壁から立ち上がるのが見えた[16]。男2人はどちらも覆面をつけておらず、兵士らはのちに、襲撃者はウィルフレッド・T・ウェッブ(Wilfred T. Webb)とマーク・E・カニンガム(Mark E. Cunningham)として身元を特定した。地元の民俗では、一部盗賊が変装をしていたかもしれない、と示唆し、襲撃者1人は、現地の人物名であるウィリアム・エリソン(William Ellison)・「サイクロン・ビル」・ベック("Cyclone Bill" Beck)に似た身なりをしていた[17]。カニンガムは、ライフル銃で武装していた。ウェッブが、一組の回転式拳銃を振りかざし、「出てこい、この黒んぼ野郎どもめ!」("Get out, you black sons of bitches!")と叫んだ。その後、盗賊は車団に向かって発砲し始めた[16]

襲撃者らからの最初の一斉射撃で、ラバ3頭が殺され、救急車運転手がけがを負った[11]。負傷した救急車運転手は、170フィート (50 m)ぐらい離れた、乾いたクリーク床に足を引きずって行った[18]。盗賊らは明らかに、バッファロー・ソルジャーらの戦闘能力について過小評価し、彼らを簡単に打ち負かせると考えていた[13]。これはおそらく、戦闘の冒頭で役割を果たして、襲撃者らはバッファロー・ソルジャーらの頭上に発砲し、彼らを脅して追い払う意図であった。軍の護衛が断固たる抵抗をし始めてはじめてようやく、襲撃者らは直接に兵士をねらって撃ち始めた[11]

オープン・ワゴンを運転している文民は、銃撃戦が始まると車を放棄し、安全な所に逃げた。キャンベルのウマは、武器の音におびえ、彼女を振り落とし、駅馬車の駅に戻った[18]。盗賊らは、キャンベルの名前を呼び、彼女の方向に銃弾を2発、発射し、他の場所に彼らの注意を向けた。キャンベルはそれから、茂みといくつかの岩の後ろに這っていったが、それらは救急車を50フィート (15 m)過ぎた先に位置した。彼女は、この位置から戦いを終わりまで観察した[19]

兵士らは、大岩を動かす準備をしている間はライフルを置いていたが、すぐに武器をつかみ、援護物を求めて走った[4]。軍曹ブラウンと二等兵2人がグループの残りから引き離され、道を追われた。援護物を見つけたのち、ブラウンは、片腕に負傷があったが、立ち上がった盗賊らをねらって回転式拳銃を発砲した。回転式拳銃をからにしたのち、彼は二等兵1人からライフル銃を取り、戦いを続けた。2人中1人が負傷し、軍曹が二度目の射撃をしてようやく、男3人は約300フィート (91 m)離れた、乾いたクリーク床に後退した[20]

ワーム少佐は当初、救急車の後ろに難を避けた[19]。残りの牽引動物らは、銃撃戦の音にパニックを起こし、両方のワゴンを道路の西側から引きずってゆき、その過程でハーネスを傷めた[21]。このことのために、ワームは、道の西側の、岩が多い小さい棚の後ろに後退せざるをえなかった。彼は、自分のクラーク(clerk)および兵士の大部分と露頭の後ろで合流した。ワームは兵士らの発砲を指示し、彼のクラークは負傷者の救助をした。両方の男性は、最初は武装していなかったが、のちに、負傷した兵士らからライフル銃を取り、戦いに参加した[19]。メイズは最初は護衛のワゴンの後ろから彼の回転式拳銃で発砲を返した。この位置はすぐに、もちこたえられないと判り、彼は岩が多い棚の後ろでワームと合流した[22]。ワームと彼の部下らが、そこに釘付けになっている間、盗賊らは、尾根の頂きに沿って作戦行動し、彼らを交差射撃に陥れた[12]。メイズは、ブラウン軍曹の撤退ののち、護衛の指揮を執っていたが、戦闘が始まってから約30分後に、ワームに、自分たちの位置はもはや防御し得ない、自分は部下らに撤退命令を出しているところだ、と伝えた。ワームは当初、この選択に反対したが、のちに、メイズは正しい軍事的決定を下した、と認めた[23]

岩だらけの棚から、ワームとメイズは、近くの乾いたクリークの床に撤退した。 その場所でワームは、給与がはいっている錠付きの箱(lock box)を取り戻すために兵士を集めようとしたが、兵士11人中8人が負傷したことを見た後では、それは実行可能な選択肢ではないと悟った[24]。盗賊らは、最初の防御位置から300ヤード (270 m)の位置にいる兵士らとともに、彼らを攻撃し続けた。兵士らが釘付けになっていて、盗賊数人が丘を下り、給与がはいっている金庫を斧(おの)で開けた[25]。午後2時30分ころ、盗賊らは発砲をやめ、2つのグループになって去った。第1グループは、自分の上にもたれかかった男1人に見えるものを運んでいるラバ1頭を導き、第2グループは、第1を援護した[26]

午後3時ごろになってはじめて、兵士らは救急車に戻り、キャンベルは隠れ家を去った[26]。彼らは、生き残っているラバ9頭が襲撃中に逃げていて、それらの馬具が細かく切られていたことに気づいた[11]。兵士らが救急車に戻ったとき、ハリエット・ホラディーがバックボード馬車(buckboard)の現場に到着した。彼女は銃撃戦の音を聞いていて、いつキャンベルの騎り手のいないウマがステーション・ハウスの駅の家に到着したのかを調査することに決めていた。彼女は到着するやいなや、キャンベルと合流し、負傷兵らに応急処置を施した[26]。それらラバのうち4頭は近くの小川のそばにおり、兵士らはそれらを救急車に乗せられるだけのハーネスをつなぎ合わせることができた[11]。負傷者の大半は、救急車に乗せられ、フォート・トマスに搬送された。軍曹ブラウンと他の1人の男性は、移動できない重傷とみなされ、フォート・トマスからの外科医が彼らを回収するために派遣されるまで、キャンベルによって世話をされた[27]。車団が去る準備をしていたとき、これも戦闘の音が聞こえた牧場主バーニー・ノートン(Barney Norton)が、牧場の手下の一団とともに到着した[26]。午後5時半ころに、ワームがフォート・トマスに到着した[27]

捜査[編集]

ワームは、襲撃の現場を離れる前に、隣接地域の初動調査を行なった。少佐の私物を含む旅行用手提げかばんは、金庫に保管されていて、切り開かれていたが、強盗犯らは内容物を損害を与えぬままにしていた。2つめの旅行用手提げかばんは、前の複数の停留所からの給与の受領書複数を含んでいて、金銭と一緒に取られていた。尾根の頂きにある胸檣を調べたところ、使用済みのライフルのケース200超が含まれている、防御施設が1つ見つかった[26]。 ワームはまた、襲撃の現場でキャンベルを逮捕し、彼女が何らかの形で関わっていた、と考えた。彼女はしばらくして釈放され、捜査官にとって重要な証人となった[27]

ワームがフォート・トマスに到着したのち、現場の完全なスケッチが完成するまで、攻撃の現場を警備するために分遣隊が派遣された[27]。アリゾナ州南部に駐留している部隊もまた、強盗犯らがメキシコ内に逃げるのを防ごうとして配備された[4]。5月12日午前10時ごろに、グレアム郡保安官ビリー・ウィーラン、シニア(Billy Whelan, Sr.)が、副保安官数人および一団のバッファロー・ソルジャーを伴って、盗賊らの跡を追おうとした。 地元の伝説によれば、強盗らは、南方に逃げ、襲撃現場から数マイル離れたウマの群れを通過した。そこで彼らは戦利品を分け、別々の方向に進んだ[27]。保安官は最後には、ヒラ川のほうへ続く或るトレールを見つけたが、それはフォレット・ランチ(Follet Ranch)に至った。その川に至るトレールの一部は、後ろ向きに蹄鉄を付けたウマどもによって作られたようであった。蹄鉄はそれから、トレールをさらに混乱させるためにその川で取り外された[28]。5月13日に、他の複数の牧場に至る複数のトレールがさらに発見された。「牧場主らは」("The ranchers")、副保安官ビリー・ウィーラン、ジュニア(Billy Whelan, Jr.)はのちに次にように語った。「ぐずぐず口ごもりためらい、われわれに、彼らが他の場所にいると思わせようとした。しかし、部下の兵士らが彼らの身元を特定した」("hemmed and hawed and tried to make us think they were at other places.But the nigger soldiers identified them.")[29]

その間、給与領収書がはいっている手提げかばんは、待ち伏せ場所から1.5マイル (2.4 km)にあり、給与明細票は血にまみれていた[11]。この証拠とキャンベルとワームのクラークによる、盗賊らがラバ上の男の身体のように見えるものを運んだという報告に基づいて、襲撃者中1人か2人が戦闘中に死亡したと考えられた。しかし、身体は発見されなかったし、地域に住む人々の行方不明者の報告は、地元当局によってそれまでに受けていなかった[29]

1889年5月13日に、知事ルイス・ウルフリー(Lewis Wolfley)は、盗賊1人以上の逮捕と有罪判決に対して500ドルの懸賞金を発表した[30]。アリゾナの連邦保安官、ウィリアム・K・ミード(William K. Meade)もまた捜査に加わった。最初の発見物にもとづいて、ミードと保安官ウィーランは、捜査を、アリゾナ準州ピマ(Pima)周辺地域に集中させた。無数の逮捕がなされたが、逮捕された男の大部分は、証拠の不十分のために、すぐに釈放された[31]

ピマというモルモン教が卓越している町のなかの出来事に対する反応は大きく2つに分けられた。 町のほぼ半分は、捜査に全般的に協力的であったが残り半分はそれを連邦迫害への回帰と見なした。ピマ・ホテルの所有者の妻は、次のように言ってこれらの意見を要約した。「強盗があったと聞いた時からそれが本当にせよ本当ではないにせよモルモン教に罪が被されると思っていました。いつものことですから。」("It's just following the usual pattern.From the time I first learned of the robbery I have expected nothing else than that it would be laid on to the Mormons.")[32]また、捜査へ反対している陣営は副保安官マーシャルをもまた、著名な教会員らの所持しているところを見つかった金貨をひそかにしかけた報奨金を集めようとして無差別逮捕をしたとして非難した[8]

保安官ミード(Marshal Meade)は、フランキー・キャンベルによって提供された情報に基づいてM・E・カニンガムを逮捕した。このすぐあとに、5月13日のウィリアム・エリソン・ "サイクロン・ビル"・ベック、エド・フォレット、ライマン・フォレット、トマス・N・ラム、デビッド・ロジャース、シーバート・ヘンダーソン、ギルバート・ウェッブ、そしてウィルフレッド・ウェッブ(Wilfred Webb)の逮捕が続いた[8][32]。ウィリアム・エリソン・「サイクロン・ビル」・ベックもまた、強盗事件の直後に逮捕された。ベックは、アリバイが確認されるのをツーソンで待っている間、地元の人々の注意を引き始めた。十分な人数の訪問者が彼に会いに来たので、彼は「ヒラ・バレーのなまの頭と血まみれの骨」("the raw head and bloody bones of the Gila Valley")の見物の料金を請求し始め、「このくそいまいましい公判のおれの費用をすべて支払うだけの金を稼ぐことができた」("could make enough money to pay all my expenses in this damn trial")と主張した[33]。ベックのアリバイが確認され、彼は拘束(custody)から釈放された[31]。ヘンダーソンとエド・フォレットは、同様に証拠不十分で釈放された[32]。治安判事(Magistrate)L・G・ヒューズ(L. C. Hughes)の前での予備審問の間には、他の誰も、アリバイを提供することができなかったし、ギルバート・ウェッブだけが保釈金を納めることができた[34]

疑いのある首謀者は、サーヴィング(serving)ピマ市長、そしてグレアム郡民主党のいち指導者であるギルバート・ウェッブであった[35]。モルモン教のコミュニティー内では、彼は、さまざまな事業を通して提供した職のために、コミュニティーによって尊敬されていた[35]。ギルバート・ウェッブの、モルモン教徒でない隣人らは、この男についてあまり寛容な意見ではなく、彼が重窃盗の嫌疑を避けるために10年前にユタを離れていたことに注目した[36]。或る財産消失のパターンもまた、ウェッブ家族が住んでいた、あるいは働いていた場所の近くで発生するとおもわれた。強盗にさきだつ6年間に、ウェッブは、いくつかの財政的な挫折を数回、経験していたため、店を閉めて駅馬車線(stagecoach line)を売らざるをえなかった。彼は最近、フォート・トマスとサン・カルロスに藁と穀物を提供する契約を獲得していたが、これらの作物を育てるのに必要な財源が不足していたかもしれない。ウェッブの、この契約に最期を遂げさせるのに必要な短期資本の不足が、強盗の潜在的な動機であった[6]。保釈出所中は、ウェッブは、自分と仲間の被告人に代わってよろこんで証言する、証人を探して時間を過ごした[37]

被告人の大部分はLDS教会(LDS Church)の活動会員ではなかったが、その一方で、彼らは全員、活動会員と関係があり、全員がそのコミュニティーの傑出した会員であると考えられた[38]

公判[編集]

ワーム主計官強盗事件公判の被告人らと弁護側弁護士

1889年9月後半に、ツーソンで大陪審が召集された。彼らはすぐに、ワーム強盗事件の捜査を始め、推定65人の証人の多くはグレアム郡出身で、彼らの前で証言した[39]。大陪審は、1889年9月27日に、強盗の容疑で、残りの8人の容疑者について起訴状を出した[40]。起訴の後、裁判官ウィリアム・H・バーンズ(William H. Barnes)は、被告人の一人の個人的な友人であったし、被告人の保釈金を1万5千ドルから1万ドルに引き下げた。これにより合衆国検察官ハリー・R・ジェフォーズ(Harry R. Jeffords)は、裁判官の解任を呼びかけた[37]。大陪審員たちは、法廷での裁判官の行為が訴追側の証人の一部を脅したことを懸念し、公判を統括するバーンズ裁判官以外の裁判官を求める電信を司法省に送った[41]。大陪審員らは、バーンズがすでに、裁判官ジョン・J・ホーキンス(John J. Hawkins)が公判を統括する手配をしていることを知らなかった。電信のことを知るや、裁判官バーンズは、大陪審をしりぞけ、彼らを「どんな法廷内にも座るにはふさわしくない、誹謗中傷の一味」("a band of character assassins, unworthy to sit in any court of justice")と呼ばわった[42]。電報が送られた数日後、大統領ベンジャミン・ハリソン(Benjamin Harrison)は、リチャード・E・スローン(Richard E. Sloan)を裁判官バーンズの代わりに任命した[43]

公判前の疑わしい行動は、法廷に留まらなかった。ウマ3頭が撃たれたし、多数の家畜が被告人側とその友人らからこっそり盗まれた。エド・フォレット(Ed Follett)は、脅して或る訴追側証人に証言を変更させようとしたとして逮捕された。最後には、ソロモンヴィル(Solomonville)地方裁判所書記官と、元グレアム郡保安官ベン・M・クローフォード(Ben M. Crawford)は辞めざるをえなかった[43]。彼はのちに、弁護側を支持して偽証する証人を確保したとして起訴された[44]。これらの出来事が、騒がしい公判の舞台を整えた[45]

公判は、1889年11月11日にツーソンで始まった[45]。合衆国検察官ジェフォーズ(U.S. Attorney Jeffords)が訴追側を率い、マーク・スミス(Mark Smith)とベン・グッドリッチ(Ben Goodrich)が弁護側を率いた[46]。公判中に証人165人が呼ばれ、そのうち半分以上が弁護側によるものであった[42]。証言の中で、ワーム少佐は被告人3人、ギルバート・ウェッブ、ウォーレン・ファウレット、およびデビッド・ロジャーズは強盗を行った襲撃者のなかにいたと特定した[47]。ワームはまた、ギルバート・ウェッブによってホテルの金庫1つに預けられていた複数の金貨を、窃盗された硬貨の一部であると特定した[46]。硬貨の特定は、硬貨に存在する異常な変色のパターンに基づいていた[47]。反対尋問の間、スミスは、地元の銀行1行からいくつかの硬貨を混ぜることによって硬貨の特定に異議を申し立てた。ワームは、銀行からの硬貨と彼が強盗から来たと主張する硬貨とを彼が区別することができなかったことに当惑した[46]。フランキー・キャンベルもまた証言した[45]。スミスは、それぞれの訴追側証人に精力的に反対尋問し、襲撃者にかんするはっきりした意見を持っていなかったことを多くの人々に認めさせた[48]。訴追のための複雑な困難は、黒人の証人らと白人の陪審員らが使用したスラングの違いであった。これは、元奴隷の言葉に基づいて人に有罪判決を下すことへの多くの地域住民による不本意とあいまって、陪審に、訴訟事件の有効性を最小限に抑えるようにしたかもしれない[49]

弁護側は、「兄弟、姉妹、いとこ、そして互いのおばと被告人」("brothers, sisters, cousins, and aunts of each other and the defendants")と説明される一連の証人を提供して、被告人にアリバイを提供した。さまざまな目撃者による矛盾している証言のために、弁護側は、最終弁論に5時間をかけた。スミスは、この時間を利用して陪審の偏見や先入見につけこんだ[46]。彼は、強盗犯らは、自分らに対する疑いを間違った方向に向けるために、彼のクライアントらと同じふうな身なりをしていた、強盗犯らは強盗の直後にメキシコに逃げた、と主張した。それから彼は、合衆国保安官(U.S. Marshal)ミードは襲撃者によって残された道を探すために襲撃現場に行かなかった、と指摘した。スミスはまた、彼のクライアントらを逮捕した政府高官らは、実際に犯罪を実行した人々を見つけることよりも、強盗犯らを逮捕する懸賞金のほうにもっと関心を持っていた、と主張した[50]。スミスが裁判所の誠実さに疑問を呈し始めたとき、裁判官スローンは法廷侮辱で500ドルの罰金で彼を脅した[51]

陪審は、2時間、評議して無罪の評決を下した[50][52]。副保安官ウィリアム・「ビリー」・ブレイクンリッジ(Deputy William "Billy" Breakenridge)は、公判ののちに指摘し、注目した、「政府は彼ら[強盗犯ら]に対して立派な訴訟を起こしたが、あまりに多くの友人がよろこんでアリバイを宣誓証言しようとしたし、あまりに多くの人が、政府に強盗をはたらくことは害をなすことではないと考えて、陪審にかかっていた」("the Government had a good case against them [the robbers], but they had too many friends willing to swear to an alibi, and there were too many on the jury who thought it no harm to rob the Government.")[48]

その後の出来事[編集]

アイザイア・メイズと名誉勲章

評決に対する一般的な反応は、ショックと驚きのうちの1つであった[50]。すばやい評決に対する公衆の反応に応えて、陪審は次のような声明を発表した、「われわれは、公判の間ずっと出席していたし、言われたことすべてを聞いたし、法廷で行われたことすべてを見たし、外で行なわれ、言われていることすべてを聞かなかったし、そのために、判決に同意したときに、われわれを陪審員室にもっと長く置いておくべきことを何も知らなかった。」("We were present during the entire time of the trial, we heard everything that was said and saw everything that was done in the courtroom and heard nothing of what was being done and said outside, hence when we had agreed upon a verdict we did not know of anything to keep us in the jury room longer.")[53]陪審員の指示(jury instructions)の誤解もまた、評決において役割を果たしたかもしれない。命令の陪審員の理解は以下のようであった、すなわち彼らは有罪判決を宣告する目的で全被告人を有罪とするよう求められた、8人全員が関与していることに同意できなかったから、彼らは無罪の評決を返すよう求められたと感じた、というものであった。

合衆国検察官ジェフォーズは、公判直後に重病になり、数ヵ月後に死亡した[54]。また、ワーム少佐が、失われた資金の責任を負わされた。1891年1月21日に合衆国議会は彼を責任から解放する法を可決したことにより、彼はこの借金から解放された[55]。スミスは、訴訟を起こす準州代表としての自分の任務を無視していて、関与のために政治的に攻撃された[50]。これは、大部分の責任を、合衆国保安官ミードの失敗した訴追に残した[48]。ミードは1890年3月4日に合衆国保安官として代えられた。彼の後任ロバート・H・「ボブ」・ポール(Robert H. "Bob" Paul)は、戦争省の要請で法務省により提供された懸賞金500ドルが事件の解決につながることを願って成り行き見守り哲学(a watch and wait philosophy)を採用した[56]。1892年8月に、法務省は、合衆国司法長官に、陪審がワーム公判中に買収された容疑を捜査するように求めた[56]

強盗中の彼らの行動を認めて、軍曹ベンジャミン・ブラウンと伍長イザイア・メイズが、名誉勲章(Medal of Honor)を授与された。さらに、二等兵ジョージ・アリントン(George Arrington)、ベンジャミン・バーグ(Benjamin Burge)、ジュリアス・ハリントン(Julius Harrington)、ハミルトン・ルイス(Hamilton Lewis)、スクウェア・ウィリアムズ(Squire Williams)、ジェイソン・ヤング(Jason Young)、ソーントン・ハムズ(Thorton Hams)、およびジェイソン・ホイーラー(Jason Wheeler)がそれぞれ賞状を授与された[57]

被告人らの法的問題は、無罪判決で終わらなかった。1890年5月に、マーク・E・カニンガム(Mark E. Cunningham)、ライマン・フォレット(Lyman Follett)およびウォレン・フォレット(Warren Follett)は、家畜泥棒(cattle rustling)の容疑でグレアム郡当局によって逮捕された。彼らはその容疑で有罪判決を受け、2年間の刑を宣告された[56]。有罪判決の上訴が、アリゾナ準州最高裁判所に到達し、そこで最高裁判所は彼らに新しい公判を認めた。2回目の公判が開催される前に、訴追側が起訴を取り下げた[55]。一方で、ギルバートとウィルフレッド・ウェッブは、グレアム郡学区(Graham County school district)から詐取したとして訴えられた[56]。ウィルフレッド・ウェッブはその訴えを乗り越え、のちに準州政治に積極的になり、第23回アリゾナ準州議会の間、そしてアリゾナの憲法制定会議の一員として下院議長をつとめた[55]。あなたは強盗に関わっていたのかと訊かれたとき、彼はこう答えたものだ、「12人の善人が、わたしはそうではないと言った」("Twelve good men said I wasn't")と。ウェッブは死亡時に、76牧場(76 Ranch)を所有していた。この牧場は、20 by 50マイル (32 by 80 km)と測定され、グレアム山全山を含んだ[54]。強盗中に取られた金(かね)は、決して回収されていない[58]

出典[編集]

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読書案内[編集]

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