ヴィジャヤナガル朝

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ヴィジャヤナガル王国
ವಿಜಯನಗರ ಸಾಮ್ರಾಜ್ಯ
విజయనగర సామ్రాజ్యము
ホイサラ朝
カーカティヤ朝
パーンディヤ朝
トゥグルク朝
1336年 - 1649年 マイソール王国
ケラディ・ナーヤカ朝
タンジャヴール・ナーヤカ朝
マドゥライ・ナーヤカ朝
チトラドゥルガ・ナーヤカ朝
ヴィジャヤナガルの位置
全盛期の版図、16世紀前半ごろ
公用語 カンナダ語テルグ語
首都 ヴィジャヤナガル
元首等
1336年 - 1356年 ハリハラ1世
1509年 - 1529年 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ
1586年 - 1614年 ヴェンカタ2世
変遷
建国 1336年
早期の記録 1343年
滅亡 1649年
14世紀後半頃のバフマニー朝とヴィジャヤナガル朝。
ハンピにあるヒンドゥー寺院(ヴィルーパークシャ寺院)

ヴィジャヤナガル王国(- おうこく、英語: Vijayanagar Empireテルグ語: విజయనగర సామ్రాజ్యముVijayanagara Sāmrājyamuカンナダ語: ವಿಜಯನಗರ ಸಾಮ್ರಾಜ್ಯVijayanagara Sāmrājyaタミル語: விஜய நகர சாம்ராஜ்யம்)とは、14世紀初頭から17世紀中頃にいたるまで、カルナータカ州南部およびアーンドラ・プラデーシュ州南部、言い換えれば、トゥンガバドラー川およびクリシュナ川以南からコモリン岬に至る南インドを支配したヒンドゥー王朝(1336年 - 1649年)。ヴィジャヤナガル朝(Vijayanagar dynasty)とも呼ばれる。

首都はヴィジャヤナガル、ペヌコンダ、チャンドラギリ、ヴェールール

名称は、サンガマ朝(Sangama dynasty, 1336年 - 1486年)、サールヴァ朝(Saluva dynasty, 1486年 - 1505年)、トゥルヴァ朝(Tuluva dynasty, 1505年 - 1569年)、アーラヴィードゥ朝(Aravidu dynasty, 1569年 - 1649年)の4つの王朝が交替してヴィジャヤナガルに首都を置いた[1]ために総称的に首都名を王国の名称に冠している。

目次

サンガマ朝

最初の王朝、サンガマ朝の建国者は、ハリハラとブッカの兄弟で、王朝名は彼らの父親の名からとっている。伝説によると、この兄弟はアーンドラ・プラデーシュ州ワランガルのカーカティーヤ朝(あるいはマイソールホイサラ朝)の家臣だったが、トゥグルク朝ムハンマド・ビン・トゥグルクの攻撃を受け捕虜となった。

兄弟は、その際イスラム教に改宗させられたが、その後、ムハンマド・ビン・トゥグルクの失政や内紛によってトゥグルク朝の南インドに対する統制力が弱まると、ふたたびヒンドゥー教に改宗しなおして、1336年ハリハラとブッカは独立してカルナータカ州南部、トゥンガバドラー川南岸にヴィジャヤナガル(現ハンピ)に都を建設し、ハリハラがハリハラ1世(在位1336 - 1356)として即位した。

当初、サンガマ朝は、ハリハラ、ブッカをはじめとする兄弟と親族の共同統治国家であった。1356年ブッカは兄ハリハラ1世を継いでブッカ1世(在位1356 - 1377)となり、1377年まで統治した。その間、息子のクマーラ・カンパナを遣わし、マドゥライ・スルタン国との抗争に打ち勝ってこれを滅ぼした。

一方で、北側にバフマニー朝1347年に建国され、トゥンガバドラー川とクリシュナ川の両流域に挟まれたいわゆるライチュール地方の支配権、すなわち交易利権をめぐって両王朝は抗争することになった。

しかし、この抗争では、両国は決定的な勝利をおさめることができず、無差別虐殺や子どもの奴隷売買が行なわれたり、経済的にも疲弊したため、前述のような残虐な行為は行わない、両国の国境は当初のままとする、という協定が結ばれた。

ブッカ1世の息子ハリハラ2世(在位1377 - 1404)のとき、クリシュナおよびゴーダヴァリー両下流域の大部分を併合したものの、バフマニー朝のため、それ以上北方へ進出できなかった。しかし、マラバール海岸地方で、ゴアをバフマニー朝から奪うことに成功した。またスリランカ北方にも遠征軍を送っている。

ハリハラ2世の息子デーヴァ・ラーヤ1世(在位1406 - 1422)のとき、バフマニー朝スルタン、フィーローズ・シャー・バフマニー(在位1397 - 1422)との間でトゥンガバトラー流域をめぐる抗争に敗れ、多額の賠償金と真珠や象を支払わなければならなかった。そして自分の娘をフィーローズ・シャー・バフマニーと結婚させることにし、結婚式には、自ら首都ヴィジャヤナガルから出迎えた。

しかし、1422年孫のデーヴァ・ラーヤ2世(在位1422 - 1446)が即位すると、軍制改革を推し進め、ヴィジャヤナガル王国の軍隊にムスリムを加えて、ヒンドゥーの兵や将校に弓術を教えさせた。

ペルシャ出身の歴史家フィリシュタによると、デーヴァ・ラーヤ2世は、8万の騎兵、20万の歩兵、弓術に優れた6万人のヒンドゥー兵を集めたという。これは、バフマニー軍が丈夫な馬を持ち優れた弓兵の大部隊をもっていることにならい、またその対抗策であった。しかし、1443年のライチュール地方への遠征で、バフマニー朝と3回の激戦を戦ったが両国共に大きな戦果を収められず、国境線はそのまま維持された。

ペルシャ人旅行家、アブドゥル・ラッザークの残した当時の記録によると、「ヴィジャヤナガル王は、東はオリッサ地方から、南はセイロン、西はマラバールにまで及ぶ版図と300の港をもち、それぞれがカリカットに匹敵するものだ、またこの土地の大部分はよく耕されていて、たいへん肥沃だ、この国の軍隊は110万人におよぶ。」としている。少々誇張があるが、この地を訪れた旅行家たちが一致して述べているのは、ヴィジャヤナガル王国の国内は、都市でも農村でも人口が密集していたということである。

サールヴァ朝

1446年デーヴァ・ラーヤ2世の死後は、凡庸な君主が続き、一方でバフマニー朝が有能な宰相マフムード・ガーワーンにより事実上の全盛期を迎えて、ヴィジャヤナガル王国はカーンチプラムまで攻め込まれ、ゴアを奪回された。また、オリッサの新興勢力ガジャパティ朝の遠征軍が王国の奥深くまで攻め込み、国内は混乱した。

この危機を救ったのは、サールヴァ家のサールヴァ・ナラシンハであった。サールヴァ・ナラシンハは、トゥルヴァ家のトゥルヴァ・イーシュヴァラ・ナーヤカ、トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカ父子に助けられてガジャパティ朝、バフマニー朝の勢力を撃退して、1486年に王となりサールヴァ朝を起こした。

しかし、1491年にサールヴァ・ナラシンハ1世(在位1486 - 1491)が没すると、トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカがその幼少の息子ナラシンハ2世(位1491~1505)の摂政となって、ライチュール地方の奪回や南方への遠征をおこない、権勢を振るった。

トゥルヴァ朝

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ

トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカの子、ヴィーラ・ナラシンハは父の没後、1505年サールヴァ朝のナラシンハ2世から王位を奪って即位し、トゥルヴァ朝を創始した。しかし、ヴィーラ・ナラシンハ3世(在位1505 - 1509)の治世は短く、弟のクリシュナ・デーヴァ・ラーヤ(位1509~1529)が継ぐごとになる。

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは、ヴィジャヤナガル王国の最も偉大な君主とされ、遠征を繰り返し版図を拡大する一方で、文芸を保護し、旅行者から国民の幸せを願う君主という最大級の賛辞を送られる名君であった。クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの治世にヴィジャヤナガル王国の版図は最大となり、国内は首都ヴィジャヤナガルをはじめ賑わい、王国には平和が広く行き届き大いに繁栄し、最盛期を迎えた。

また、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはヴィシュヌ派ヒンドゥー教の信仰をもち、その聖地ティルパティのヴェンカテーシュヴァラ寺院をはじめとするヒンドゥー寺院を手厚く保護したが、彼は宗教に関してはとても寛容であり、国民にすべての宗教の信仰を許した。

しかし、その晩年には、宮廷の内紛とそれにつけこんでビジャープル王国軍の侵入があり、ライチュール地方が再び奪われ、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはそうした状況の中で没した。

1529年クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの弟アチュタ・デーヴァ・ラーヤ(在位1529 - 1542)が即位すると、宰相ヴィーラ・ナラシンガ・ラーヤが起こした反乱を鎮圧するとともに、ビジャープル王国からライチュール地方を取り戻した。しかし、治世の晩年には、兄王の娘婿にあたるアーラヴィードゥ家のラーマ・ラーヤ(ラーマ・ラージャとも)に実権を奪われた。

1542年アチュタ・デーヴァ・ラーヤが亡くなると、その幼少の息子ヴェンカタ1世(在位1542)が後を継ぐが、宮廷内で王位の継承をめぐって激しい争いが起こり殺され、末弟のランガ・ラーヤの息子、サダーシヴァ・ラーヤ(在位1542 - 1569)が王位につけられた。しかし、ヴィジャヤナガル王国の実権は、摂政になったラーマ・ラーヤとその弟ティルマラ・デーヴァ・ラーヤに握られていた。

ラーマ・ラーヤの基本政策は、国内を安定させるとともにバフマニー朝分裂後の北方のムスリム5王国を互いに抗争させて弱体化させるというものであり、まずポルトガル人との貿易協定でビジャープル王国への馬の供給を止めて、ビジャープル王国を打ち破り、次にビジャープル王国に同盟を持ちかけてゴールコンダ王国とアフマドナガル王国を打ち破った。

しかし、ムスリム5王国もいいように利用されていることに気づき始めて、ついにビジャープル王国、ゴールコンダ王国、アフマドナガル王国、ベラール王国、ビーダル王国は同盟を結び、1565年1月、クリシュナ川の北方、ビジャープルの東方のターリコータ(ラークシャシ・タンガティ)でヴィジャヤナガル軍を撃破した。ターリコータの戦いで、ラーマ・ラーヤ自身も捕らえられて処刑され、ヴィジャヤナガル王国の兵10万人が殺されたと伝えられる。

また、ムスリム5王国は勢いに乗りヴィジャヤナガル王国の首都ヴィジャヤナガルも破壊し、王都は廃墟と化し、これ以降ヴィジャヤナガル王国は徐々に衰退の道をたどっていくこととなった。

アーラヴィードゥ朝

ヴェンカタ2世

ラーマ・ラーヤの弟ティルマラ・デーヴァ・ラーヤは、サダーシヴァ・ラーヤを擁してヴィジャヤナガルの南東100数十kmのペヌコンダを首都として統治を続け、1569年にはサダーシヴァ・ラーヤを廃位して、アーラヴィードゥ朝を開いた。

ティルマラ・デーヴァ・ラーヤ(在位1569 - 1572)の治世はヴィジャヤナガル王国の領土を維持したものの、息子で次の王シュリーランガ1世(在位1572 - 1586)の治世にビジャープル王国、ゴールコンダ王国と戦いを繰り返す中で、ヴィジャヤナガル王国は衰退していった。

1586年シュリーランガ1世の死後、その弟ヴェンカタ2世(在位1586 - 1614)がビジャープル王国、ゴールコンダ王国に奮戦したことにより、ヴィジャヤナガル王国は一時領土と勢力を回復した。1592年にはこれらに対抗するため、首都をペヌコンダからチャンドラギリに遷都している。

また、ヴェンカタ2世はオランダ、スペインなどと修好を結び、ムスリム5王国と対立していた北インドのムガル帝国とも同盟を結ぼうとし、南北から挟撃しようとする壮大な計画を立てた(これは実現しなかったが)。さらに、ヴェンカタ2世は内政面でも優れた統治能力を発揮し、人民にも愛され慕われ、ヴィジャヤナガル王国最後の名君となった。

しかし、その後再びビジャープル王国、ゴールコンダ王国に逆襲され、1604年ヴェンカタ2世は王都をチャンドラギリからヴェールールと南へと遷都し、1610年にはマイソール王国が独立を表明するなど、ヴィジャヤナガル王国の衰運を止めることはできなかった。

そして、1614年に老王ヴェンカタ2世が死亡すると、その息子や甥などが王位継承をめぐり内乱を起こしはじめ、ヴィジャヤナガル王国はこうした内憂外患によってますます衰退の一途をたどることとなり、1649年シュリーランガ3世(在位1642 - 1649)の治世にビジャープル王国に滅ぼされた。

歴代君主

サンガマ朝

  • ハリハラ1世(在位1336 - 1356)
  • ブッカ1世(在位1356 - 1377)
  • ハリハラ2世(在位1377 - 1404)
  • ヴィルーパークシャ1世(在位1404 - 1405)
  • ブッカ2世(在位1405 - 1406)
  • デーヴァ・ラーヤ1世(在位1406 - 1422)
  • ブッカ3世(在位1422 - 1424)
  • デーヴァ・ラーヤ2世(在位1422 - 1446)
  • デーヴァ・ラーヤ3世(在位1446 - 1465)
  • ヴィルーパークシャ2世(在位1465 - 1485)
  • プラウダ・ラーヤ(在位1485 - 1486)

サールヴァ朝

  • サールヴァ・ナラシンハ1世(在位1486 - 1491)
  • ナラシンハ2世(在位1491 - 1505)

トゥルヴァ朝

  • ヴィーラ・ナラシンハ3世(在位1505 - 1509)
  • クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ(在位1509 - 1529)
  • アチュタ・テーヴァ・ラーヤ(在位1529 - 1542)
  • ヴェンカタ1世(在位1542)
  • サダーシヴァ・ラーヤ(在位1542 - 1569)

アーラヴィードゥ朝

  • ティルマラ・デーヴァ・ラーヤ(在位1569 - 1572)
  • シュリーランガ1世(在位1572 - 1586)
  • ヴェンカタ2世(在位1586 - 1614)
  • シュリーランガ2世(在位1614)
  • ジャッガ・ラーヤ(在位1614 - 1617)
  • ラーマ・デーヴァ・ラーヤ(在位1617 - 1632)
  • ヴェンカタ3世(在位1632 - 1642)
  • シュリーランガ3世(在位1642 - 1649)

君主列表

 サンガマ朝 (1336年 - 1486年)
在位期間 備考
ハリハラ1世 Harihara I 1336 - 1356年 トゥグルク朝の家臣、サンガマ朝の創始者
ブッカ1世 Bukka I 1356 - 1377年 トゥグルク朝の家臣、ハリハラ1世の弟
ハリハラ2世 Harihara II 1377 - 1404年 ブッカ1世の息子
ヴィルーパークシャ1世 Virupaksha I 1404 - 1405年 ハリハラ2世の息子
ブッカ2世 Bukka II 1405 - 1406年 ハリハラ2世の息子、ヴィルーパークシャ1世の弟
デーヴァ・ラーヤ1世 Deva Raya I 1406 - 1422年 ハリハラ2世の息子、ヴィルーパークシャ1世、ブッカ2世の弟
ブッカ3世 Bukka III 1422 - 1424年 デーヴァ・ラーヤ1世の息子、息子デーヴァ・ラーヤ2世と共同統治
デーヴァ・ラーヤ2世 Deva Raya II 1422 - 1446年 ブッカ3世の息子
デーヴァ・ラーヤ3世 Deva Raya III 1446 - 1465年 デーヴァ・ラーヤ2世の息子
ヴィルーパークシャ2世 Virupaksha II 1465 - 1485年 デーヴァ・ラーヤ3世の従兄弟
プラウダ・ラーヤ Praudha Raya 1485 - 1486年 ヴィルーパークシャ2世の息子
サールヴァ朝 (1486年 - 1505年)
在位期間 備考
サールヴァ・ナラシンハ1世 Saluva Narasimha I 1486 - 1491年 サンガマ朝の家臣、サールヴァ朝の創始者
ナラシンハ2世 Narasimha II 1491 - 1505年 サールヴァ・ナラシンハ1世の息子
トゥルヴァ朝 (1505年 - 1569年)
在位期間 備考
ヴィーラ・ナラシンハ3世 Vira Narasimha III 1505 - 1509年 サールヴァ朝の家臣、トゥルヴァ朝の創始者
クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ Krishna Deva Raya 1509 - 1529年 ヴィーラ・ナラシンハ3世の弟
アテュタ・デーヴァ・ラーヤ Achyuta Deva Raya 1529 - 1542年 ヴィーラ・ナラシンハ3世、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの弟
ヴェンカタ1世 Venkata I 1542年 アテュタ・デーヴァ・ラーヤの息子
サダーシヴァ・ラーヤ Sadasiva Raya 1542 - 1569年 ヴェンカタ1世の従兄弟
アーラヴィードゥ朝(1569 - 1649年)
在位期間 備考
ティルマラ・デーヴァ・ラーヤ Tirumala Deva Raya 1569 - 1572年 トゥルヴァ朝の家臣、アーラヴィードゥ朝の創始者
シュリーランガ1世 Sriranga I 1572 - 1586年 ティルマラ・デーヴァ・ラーヤの息子
ヴェンカタ2世 Venkata II 1586 - 1614年 ティルマラ・デーヴァ・ラーヤの息子、シュリーランガ1世の弟
シュリーランガ2世 Sriranga II 1614年 ヴェンカタ2世の甥
ジャッガ・ラーヤ Jagga Raya 1614 - 1617年 ヴェンカタ2世の息子
ラーマ・デーヴァ・ラーヤ Rama Deva Raya 1617 - 1632年 シュリーランガ2世の息子
ヴェンカタ3世 Venkata III  1632 - 1642年 ラーマ・ラーヤの孫
シュリーランガ3世 Sriranga III 1642 - 1649年 ヴェンカタ3世の甥

脚注

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  1. ^ ただし、アーラヴィードゥ朝は、ペヌコンダ、チャンドラギリ、ヴェールールに首都をおいたために除く場合もある

参考文献

  • 辛島昇 「ヴィジャヤナガルの政治と社会」『岩波講座世界歴史13』(中世7)所収、1971年。
  • サティーシュ・チャンドラ 『中世インドの歴史』 小名康之・長島弘訳、山川出版社、1999年、ISBN 463467260X。