一色氏久

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一色 氏久(いっしき うじひさ、生没年未詳)は戦国時代安土桃山時代の人物。官位は右衛門佐。一色蔵主の子孫。

略伝[編集]

鎌倉公方からの譜代の家臣。通称源三郎。古河公方家御一家として足利義氏のころから古河公方家の実質的政務を担当しており、「古河御所様各御奉行」・「古河御奉公人」などとよばれ、足利氏姫の時は、「御連判衆」筆頭として後北条氏などとの対外的な折衝に当たったとされる。

豊臣秀吉により小弓御所足利頼純の嫡子足利国朝と古河公方家当主、足利氏姫の婚姻をもって喜連川家四千八百石が起きた時の初代筆頭家老。

足利尊氏の4代前、足利泰氏の子である一色公深を家祖とする一色氏の初代九州探題を務めた一色範氏一色直氏親子の嫡流で早くから鎌倉公方家に仕え、関東一色氏といわれる一色長兼の養子となったといわれる、足利義嗣の子である足利直明(一色直明)の嫡流であり、墓所は主家と同じ栃木県さくら市龍光寺内の足利家墓所の正門前に在する。

4代鎌倉公方足利持氏の生母は、この一色家の娘であり、4代喜連川藩主喜連川昭氏の生母も、この一色氏久の孫娘であるが、嫡子の一色下野守刑部と孫の一色左京は、慶安元年(1648年)に起きた喜連川騒動に巻き込まれ、その後の動向は不明である。

一説には、喜連川藩における特殊事情である、古河公方家臣と小弓公方家臣の対立が事件の根底にあったといわれる。

そして、この時期は徳川家康から徳川家光の時代まで行われた徳川幕府確立の施策として、多くの外様大名家の改易・取り潰しを行い、幕府権力の増強に成功したが、日本国内には40万~60万人ともいわれる徳川幕府への不平浪人が存在することとなり、大きな社会問題となっていた。

すなわち、彼らが本来の源氏の棟梁となる喜連川昭氏(7歳)と祖父・伯父である一色刑部・左京親子を倒幕軍の神輿として担ぐならば、他の外様大名家さえも追従し、徳川幕府倒壊の危機となり得たといえる。

よって、幕府は足利家嫡流となる喜連川家の安泰と、さらに徳川幕府安泰の策として、4代喜連川昭氏(7歳)の祖父で叔父であり、足利将軍家の流れでもある一色刑部・左京親子を吉良家今川家品川家・他の一色家などと同様に足利家庶家として徳川幕府の旗本として、幕府体制内に取り込んだともいわれる。

また、一色刑部の実弟、根岸五郎左衛門、別名連談)は事件後も喜連川に残り、事件のため隠居した喜連川尊信(28歳)と4代喜連川昭氏(7歳)に仕えたが、その後、喜連川家の安泰を望み、兄一色下野守刑部の家老屋敷をもって宿屋を始め商人となり、根岸丹右衛門と改名した。

藩主の親族でありながら、奥州街道にあり東北の大名行列の宿場となる喜連川の地で喜連川藩お抱えの宿屋を営むことは、喜連川藩士であることより実質裕福であった。

根岸丹右衛門の墓は、栃木県さくら市喜連川の浄土宗欣浄院専念寺内にあり、兄一色刑部の娘で3代喜連川尊信の側室、そして4代喜連川昭氏の生母、戒名「欣浄院殿深誉妙心大姉」の墓のすぐ近くに喜連川騒動事件後の3人の家老の一人、黒駒七左衛門の墓と並んである。

同じく、一色刑部の実弟、山野金右衛門は埼玉県幸手に移住し、幕府大身旗本となっていた親族の幸手一色家に仕えた。

参考文献[編集]

  • 新井浩文「一色氏久宛て「北条氏照書状」について」、『市史研究きよせ』2号、清瀬市、2017年