万里小路嗣房

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万里小路嗣房
時代 南北朝時代室町時代前期
生誕 興国2年/暦応4年(1341年
死没 応永8年9月9日1401年10月16日
改名 嗣房→道房(法名)
官位 従一位内大臣
主君 光厳院光明天皇崇光天皇後光厳天皇後円融天皇後小松天皇
氏族 藤原北家勧修寺流万里小路家
父母 父:万里小路仲房
兄弟 嗣房、頼房、茂房、定玄、見怡、中院通氏
甘露寺藤長の娘
時房
養子:豊房
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万里小路 嗣房(までのこうじ つぐふさ)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公卿藤原北家勧修寺流万里小路家准大臣万里小路仲房の子。官位従一位内大臣

経歴[編集]

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

正平2年/貞和3年(1347年)1月5日、叙爵。正平5年/観応元年(1350年)4月20日、従五位上に昇叙。8月16日、美作守となる。正平9年/文和3年(1354年)3月28日、民部少輔に任ぜられる。正平10年/文和4年(1355年)8月13日、正五位下に昇叙。正平11年/文和5年(1356年)1月28日、右兵衛佐を兼ねる。正平12年/延文2年(1357年)4月12日、蔵人に補される。

正平16年/延文6年(1361年)3月27日、右少弁に任ぜられる。正平17年/康安2年(1362年)5月7日、正五位上に昇叙。9月30日、記録所寄人となる。正平18年/貞治2年(1363年)4月20日、右中弁に転任。9月には南曹に補される。正平21年/貞治5年(1366年)4月19日、左中弁に転任し、従四位下に昇叙される。正平22年/貞治6年(1367年)1月6日、従四位上に昇叙。3月13日、蔵人頭に補され、紀伊権守を兼ねる。4月13日、右大弁に転任。12月19日、母の喪に服す。正平23年/応安元年(1368年)4月19日、復任する。8月13日、正四位下に昇叙。正平24年/応安2年(1369年)1月5日、正四位上に昇叙。

建徳元年/応安3年(1370年)8月14日、左大弁に転任し参議に任ぜられる[1]。12月、造東大寺長官に補される。建徳2年/応安4年(1371年)、従三位に叙される。文中3年/応安7年(1374年)9月28日、権中納言に任ぜられる。11月28日、左衛門督を兼ねる。12月13日、検非違使別当に補される。天授元年/応安8年(1375年)11月22日、正三位に昇叙。天授2年/永和2年(1376年)7月11日、検非違使別当を辞した。天授3年/永和3年(1377年)3月24日、左衛門督を辞した。天授5年/永和5年(1379年)1月30日、記録所の上卿となるよう宣下がある。弘和元年/永徳元年(1381年)1月6日、従二位に昇叙。弘和2年/永徳2年(1382年)4月19日、父・仲房が准大臣宣旨を受ける。

弘和3年/永徳3年(1383年)3月28日、権大納言に任ぜられる。12月15日、正二位に昇叙。元中5年/嘉慶2年/(1388年)6月2日に父仲房が薨去し、12月に権大納言を辞した。元中7年/康応2年(1390年)4月1日、権大納言に還任。応永2年(1395年)閏7月2日、従一位に叙され権大納言を辞した。応永3年(1396年)7月24日、内大臣に任ぜられる。10月5日、出家。法名は道房。応永8年(1401年)9月9日、薨去。

万里小路家初の内大臣[編集]

父仲房は准大臣の宣旨を得たが、嗣房は万里小路家では初めて内大臣に任ぜられた。伝奏として公武の折衝に当たってきた万里小路家は、その働きにふさわしい地位を名実共に獲得したのである。

脚注[編集]

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  1. ^ この時、同時に参議に任ぜられたのは頭中将であった三条西公時である。

出典[編集]