三吉周亮

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三吉 周亮
三吉周亮
生年月日 1842年1月14日(天保12年12月3日)
出生地 日本の旗 日本 長門国
没年月日 1903年(明治36年)6月1日
死没地 日本の旗 日本 山口県 下関市
前職 長府藩次席家老
称号 従五位
親族 益田元固(父)
益田孫槌(兄)
口羽良介(弟)

在任期間 1871年11月14日 - 11月25日

在任期間 1871年12月18日 - 1873年5月29日

在任期間 1873年5月29日 - 1875年7月23日

在任期間 1875年7月23日 - 1876年8月21日

在任期間 1888年4月 - 1891年7月
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三吉 周亮[1](みよし かねすけ[2]天保12年12月3日1842年1月14日)- 明治36年(1903年6月1日)は江戸時代末期長府藩士(長府藩次席家老)、政治家。明治維新後、宇都宮県参事新川県参事鳥取県参事・県令豊岡県権令などを歴任し地方行政に携わった。幼名は榮之進、内匠、彜太郎[3]通称は内蔵介[3]安政2年(1855年)、長府藩第13代藩主の毛利元周より偏諱を受けて周亮と名乗る[4]。官位は従五位[5][6]

生涯[編集]

生い立ち[編集]

天保12年12月3日(1842年1月14日)に長州藩寄組益田元固の四男として生まれる。

嘉永5年(1852年)3月に長府藩の三吉造酒の養子(家禄1500石)となる[3]。安政元年(1854年)、養父三吉造酒が事故によって、領分の庭田村(現下関市豊田町)に隠退[4]。周亮は家禄1500石のところ、減禄200石の上家督を継ぐ[4]

三吉家は長府藩家老職を代々務め、筆頭家老細川家に次ぐ俸禄1500石の大臣格であり、吉見村(200石)、庭田村(320石)、東長野村(277石)、勝谷村(50石)、鷹ノ子村(203石)に領地を持っていたが、吉見村では年に一度領主を招いて領内の豊作を祝う式が行われ、その際に披露された吉見豊作の祝歌(よいやな節とも)は今日でも宴席で唄われるなど、名家老三吉内蔵の善政は長く世の語り草となっている[7]

安政6年(1859年)9月、周亮は江戸加判役(江戸家老)として江戸に上り、滞勤中に江川太郎左衛門から砲術、高島秋帆から兵学を学ぶ[4][3]

幕末期の活動[編集]

江戸加判役であった周亮が安政7年3月3日1860年3月24日)の上巳(桃の節句)の挨拶のため彦根藩邸へ出仕していた際に桜田門外の変が起こり、毛利氏井伊氏が親戚関係にあったことから周亮は井伊家を見舞いし、老中脇坂安宅より彦根藩邸守衛を命じられる[4]文久元年(1861年)4月に桜田門外の変への対応の功労により後藤作の三所物を賞与として藩主の毛利元周から賜る[4]

文久元年(1861年)9月、国元加判役に任じられ、長州の沿岸警護の任を務める[4]

文久3年(1863年)3月、養父から家督を継ぐ際に減禄された200石が返され、河内介作の刀を藩主の毛利元周から賜る[4]

元治元年(1864年)の第一次長州征討時、長州藩における幕府恭順派の台頭により山口から逃れてきた三条実美ら五卿を功山寺に迎える。この五卿の功山寺入りが後の薩長和解の先鞭となった[5]

元治元年8月(1864年9月)の下関戦争において長府の前田砲台が四国艦隊に砲撃、占領されるなど前田周辺は多大な被害に遭ったが、前田に所領があった周亮は私財で前田の住民の被害の補償をした。

下関戦争の講和交渉の際には長州藩主毛利敬親から講和談判本使として三吉周亮、副使として高杉晋作が任命されたが、周亮は本名の三吉内蔵介としてではなく宍戸備前と偽り講和交渉にあたるのを断ったため、副使の高杉晋作が宍戸備前の養子宍戸刑部を名乗り表舞台に登場することとなった[4]

第一次長州征討最中の元治元年12月(1865年1月)、高杉晋作による功山寺挙兵が起こった際には高杉ら諸隊と志を同じくしていた周亮が高杉へ3000両の公金と銃器を渡した[8]

第一次長州征討の戦後処理の際、前述の通り周亮が高杉晋作など諸隊と関係が深かったため、元治元年12月26日1865年1月23日)、長府藩主毛利元周より切腹を命じられる[4]。翌日、第一次長州征討の副総督を務めていた越前藩より小倉へ出頭することを命じられ、元治2年1月1日1865年1月27日)に小倉の本陣において副総督の越前藩主松平茂昭薩摩藩西郷隆盛福岡藩家老の加藤司書らの連席の上、周亮に対する尋問が行われ、西郷隆盛、加藤司書らのとりなし[9]により周亮の切腹の命令は取り消され諸隊の鎮撫を松平茂昭より命じられた(実際に鎮撫に動くことはなかった)[4]

この尋問に先立ち、元治元年12月28日(1865年1月25日)に周亮は西郷隆盛と会談し、西郷から高杉晋作との会談の斡旋依頼を受け、西郷と高杉の会談を元治2年1月1日(1865年1月27日)に下関にて実現させる[4]など、薩長和解に努めた。また薩長同盟の締結の際には坂本龍馬と数回にわたり会談し[10]、龍馬の竹島(現在の鬱陵島)開拓計画に賛同するなど[11]長府藩における龍馬の理解者の一人であった[10]

慶応2年6月(1866年7月)に長州藩諸隊の一つである報国隊の惣督に就任、翌7月(1866年8月)には長府藩が購入したイギリス製軍艦の満珠艦の艦長に就任した。[10]第二次長州征討時には小倉口にて報国隊を率いて戦う。第二次長州征討後、小倉戦争の功労により130石を加増される[4]

明治維新以降[編集]

明治2年(1869年)9月、豊浦藩(旧長府藩)の権大参事に任じられ、75石が加増される[4]。豊浦藩権大参事在任時は隊員を削減されるなどの冷遇に不満を募らせた長州藩諸隊の隊士らの一部の反乱(脱隊騒動)の鎮圧や人民一揆の鎮圧に従事した[4]

その後は宇都宮県参事(明治4年(1871年)11月14日-11月25日) (赴任せず[12]、転任)、新川県参事(明治4年(1871年)12月18日-明治6年(1873年5月29日)、鳥取県参事・県令(明治6年(1873年)5月29日-明治8年(1875年7月23日)(明治8年(1875年)8月に判事も兼任する[4])、豊岡県権令(明治8年(1875年)7月23日-明治9年(1876年8月21日)を歴任するなど明治時代初期の地方行政に携わった[3][10]

明治時代中期には山口県会議員(明治21年(1888年)4月-明治24年(1891年)7月)も務めた[13]

功山寺の三吉周亮の墓

明治36年(1903年)6月1日死去。享年62。墓所は長府毛利家の菩提寺でもある功山寺[14]戒名は見性院殿鐡心智行大居士[5]

栄典の履歴[編集]

著作[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 三吉周張、三吉兼庸、三吉兼倚の別名がある
  2. ^ 『増補 近世防長人名辞典』では「ミヨシ シュウスケ」
  3. ^ a b c d e 吉田祥朔 著 『増補 近世防長人名辞典』(マツノ書店 1976年) より
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 下関市立長府博物館 編集・発行『史料叢書一 三吉周亮履歴并日記中摘要』(2013年) より
  5. ^ a b c 功山寺 三吉周亮 墓碑 より
  6. ^ a b c d 下関市市史編修委員会 著 『下関市史・資料編V』(下関市 2000年) 三吉家文書の項 より
  7. ^ 『よしみ史誌』(下関市立吉見公民館 1985年)より
  8. ^ 功山寺の決起は危険な賭けだったのか?
  9. ^ 『三吉周亮履歴并日記中摘要』では「此時西郷発言シテ、如此惣督府、副督府ノ御所置齟齬し而は、獨リ長州家ノミナラス、天下ニ對し、不都合ノ到リ、薩藩ノ如キ副督府参謀ノ職計被命如何ニモ気毒ノ千萬ト考フトノ事、加藤司書御同様にテ尾州 鍬吉等咄合アリ、越前侯へ皆々口上之上、毛受鹿之助より一旦先席へ扣居候様申達引取候」とある
  10. ^ a b c d 古川薫 序 古城春樹 著『龍馬とお龍の下関-海峡に遺した夢のあと』(瞬報社写真印刷株式会社 2009年)74頁 より
  11. ^ 龍馬堂 龍馬詩評 人傑篇 其之四
  12. ^ 高根沢町史 通史編Ⅱ 第一章 明治初期の政治と社会 第一節 維新期の高根沢 二 県の成立と村々 廃藩置県14 ~ 16 / 794ページ
  13. ^ 富山県議会事務局調査課 県参事調
  14. ^ 古川薫 序 古城春樹 著『龍馬とお龍の下関-海峡に遺した夢のあと』 (瞬報社写真印刷株式会社 2009年) 9頁 より

参考文献[編集]

  • 古川薫 序 古城春樹 著『龍馬とお龍の下関-海峡に遺した夢のあと』 (瞬報社写真印刷株式会社 2009年)
  • 吉田祥朔 著 『増補 近世防長人名辞典』(マツノ書店 1976年)
  • 下関市立長府博物館 編集・発行『史料叢書一 三吉周亮履歴并日記中摘要』(2013年)
  • 田村哲夫 著 『近世防長諸家系図綜覧』 (マツノ書店 1980年)
  • 『よしみ史誌』 (下関市立吉見公民館 1985年)