三宅一生
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みやけ いっせい 三宅 一生 | |
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生誕 |
1938年4月22日(82歳)![]() |
国籍 |
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職業 | デザイナー |
受賞 |
毎日デザイン賞(1977年)
ヒロシマ賞(1990年)
朝日賞(1992年)
高松宮殿下記念世界文化賞・彫刻部門(2005年) |
公式サイト |
mds |
三宅 一生(みやけ いっせい、Issey Miyake、1938年(昭和13年)4月22日[1] - )は、日本出身のデザイナー。広島市東区出身[2]。
略歴[編集]
広島大学附属東雲中学校[4]、広島県立広島国泰寺高等学校卒業[5]。一貫して美術部に所属。焼け野原から復興する広島の街、とりわけ通っていた国泰寺高校の近くにあった丹下健三設計の広島平和記念公園やイサム・ノグチ設計の平和大橋のデザインに感銘を受ける[6][7]。そり返った「東」の橋柱の先端には、生命を表す太陽、「西」の欄干は、魂を運ぶ舟の手すりがかたどられていた[8]。東洋と西洋の境を越えたノグチのデザインは、少年の行く道を決定づけた[8][9]。
高校卒業後上京し、多摩美術大学図案科に入学[10]。在学中から装苑賞の第10回(1961年)、第11回(1962年)と2年連続で現在の佳作にあたる賞を受賞、頭角を現した。アートディレクターの村越襄からオファーを受けた東洋レーヨン(現・東レ)の1963年版カレンダー用の衣装制作が、最初の仕事となった。第1回コレクションは卒業後の1963年に発表した「布と石の詩」[9][11]。当時は広告業界にファッションをやる人がおらず[12]、服をどうやって作っていいか分からず、奇抜な服をたくさん作った[12]。業界人には大変驚かれ、日本のファッション界の寵児になった[12][13]。
しかしファッションを独立したデザイン分野と認知しない当時の環境に苛立ち、1965年パリに渡り、パリ洋裁組合学校「サンディカ」で学ぶ[9][14]。1966年にギ・ラロッシュのアシスタントとなり、その後ジバンシィでデシナトゥール(完成した服を絵にする仕事)になる[15]。パリモードがオートクチュールからプレタポルテに移行する時代、実用的な衣服をデザインすることで、人の在り方を表現するプレタポルテの若手デザイナーたちは大きなショックを受けた。1968年の五月革命に繰り出す人々を見て「こういう人たちの服を作りたい」と思い定めた[15]。体にフィットしたヨーロッパの高級な服より、インドのサリーのように一枚の布を身にまとう方が普遍的な姿だと考え、さらに「生地をできるだけ捨てずに使うこと」を自らに課した[9][15][16]。パリで4年修行した後[12]、1969年、アメリカ合衆国ニューヨークへ移り既製服の経験を積む[9][12]。三宅の行動力は際立っており、後進デザイナーに大きな影響を与えた[17][18][19][20][21]。
日本に帰国後の1970年、「三宅デザイン事務所」を設立[9]。翌年2月にはニューヨーク市内のデパートに「イッセイ・ミヤケ」のコーナーを開設した。
1973年、「イッセイ・ミヤケ秋冬コレクション」でパリ・コレクションに初参加[15]。衣服の原点である「一枚の布」で身体を包み、“西洋”でも“東洋”でもない衣服の本質と機能を問う“世界服”を創造[15]。布と身体のコラボレーションというべきスタイルの確立は、1978年発表の「Issey Miyake East Meets West」で集大成された。コンパクトに収納できて着る人の体型を選ばず、皺を気にせず気持ちよく身体にフィットする1993年に発表された代表作「プリーツ・プリーズ」はこれらの延長線上にある[22]。「プリーツ・プリーズ」は、国内繊維産業の粋を集めた素材と技術に「ひとりひとりのための自由な服」という三宅独自の発想、行動する女性のためにつくられた時代性で世界中で愛され、2012年まで世界27ヵ国、435万枚が売れたといわれる[22]。
日本では切れ地を服の形にするのがデザイナーと考えられていて、常に海外の情報を元に服を作っていた[12]。自分から情報を出すということではなかったため、本当のクリエイターではない、はっきりした自分の意図のある物を作りたいと三宅はマテリアルを日本で布を織るところへ行って織らせて、染屋に行って染めさせ、それをパリに持って行ってデザインした[12]。三宅は日本のデザイナーが絶対に使わなかった剣道着や柔道着の刺し子のようなマテリアルを使い始めた[14]。最初は日本の刺し子屋に「こういう織り方で」「もっと優しい風合いで」と注文しても、趣味くらいにしか受け取ってもらえなかった。三宅のデザインした服はパリでは売れても日本ではどこにも売ってないことがあった[12]。日本各地の素材や伝統的な手わざと最新のハイテクを使った新たなもの作りの追求は長年のテーマとして続く[14][16][19][23]。2008年、自身のデザイン事務所内に「リアリティー・ラボ」と名付けた研究開発チームを設置。素材研究を進める中で帝人ファイバーが開発した、古着など不要になったポリエステル製品をいったん液体にまで戻し再生した糸に出会い「英国生まれのポリエステルは、戦後の日本が進化させた」という思いもあり、2010年秋からの新シリーズ「132 5. ISSEY MIYAKE」の素材に選んだ[14]。愛媛県松山市の工場で生まれた糸を福井市で織って生地にし、石川県白山市などで染め、東京で形にする[16]。
1993年、フランスレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ、イギリスロイヤル・カレッジ・オブ・アート名誉博士号授与。1998年、文化功労者に顕彰、1999年には米週刊誌『TIME』アジア版において、「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選出され、2005年、第17回高松宮殿下記念世界文化賞(彫刻部門)、2006年第22回京都賞思想・芸術部門[24]など数々の賞を受賞。2008年度から2014年度まで朝日賞選考委員も務めた。
2004年、財団法人三宅一生デザイン文化財団を設立、2011年2月1日に、公益財団法人となった[9]。2007年3月、東京六本木に誕生した複合施設「東京ミッドタウン」内に併設されたデザイン拠点「21_21 DESIGN SIGHT」(トゥーワン・トゥーワン・デザインサイト)をオープンさせた[14]。
2010年9月、広島市名誉市民[3]。また2010年11月、文化勲章を皇居にて鈴木章、安藤忠雄や蜷川幸雄らとともに受勲した他、2016年、レジオン・ドヌール勲章コマンドール[25]など国内外の勲章を受勲している。
人物[編集]
1960年、東京で開催された世界デザイン会議に際して、衣服デザインの分野が含まれていないのはなぜかという質問状を送り、反響を呼んだ[11]。
被爆体験[編集]
1945年、小学1年生7歳の時、広島市への原子爆弾投下により被爆[6]。「破壊されてしまうものではなく、創造的で、美しさや喜びをもたらすもの」を考え続けた末、衣服デザインを志向するようになった[6]。
2009年7月14日付の『ニューヨーク・タイムズ』への寄稿 (A Flash of Memory) [26]の中で自身の被爆体験を初めて公表した。三宅は「破壊ではなく創造できるものについて考えることを好んできた」「『原爆を生き延びたデザイナー』というレッテルを貼られたくなかった」ことを理由に被爆体験については沈黙を続けていたが[14]、2009年4月にアメリカのバラク・オバマ大統領がプラハでおこなった核廃絶についての演説[27]が、「語ることに気乗りしなかった、自分の内側の深い場所に埋もれていた何かを呼び覚ました」という[28][29]。三宅は原爆について「原爆の色、いまでもイメージが浮かんでくる。いやな色だ」と話し[30]、被爆体験を語ることについて寄稿の中で「個人的かつ倫理的責務を感じている」と述べている[14][28]。
そしてA Flash of Memoryの中でオバマ大統領に広島訪問を促しており、これが2016年実現することになった(バラク・オバマの広島訪問)。オバマへの土産品には三宅の事務所がデザインした腕時計と万年筆が選ばれている[31]。
三宅は1995年の広島平和記念式典に参列。また毎年、原爆投下の時間に合わせて黙祷を捧げている[29]。
活動[編集]
1970年 | 三宅デザイン事務所設立
大阪万博に参加する2企業1団体(資生堂、日本オリベッティプレスセンター、国際羊毛事務局)のコンパニオンユニフォームをデザイン |
1971年 | ニューヨークで海外初のコレクション発表
11月、株式会社イッセイ ミヤケ インターナショナル(現在の株式会社イッセイ ミヤケ)設立 |
1973年 | 73年秋冬よりパリコレクションに参加 |
1975年 | 1月、ブランド「ISSEY SPORTS」の発表
ニューヨーク、メトロポリタン美術館主催「Inventive Clothes 1909-1939」を「現代衣服の源流展」として京都国立近代美術館にて企画再現。 (塚本幸一・京都商工会議所ファッション産業特別委員会会長(当時)の協力を得て実現。これを受け78年京都服飾文化研究財団(KCI)が設立。) |
1976年 | ショウ「三宅一生と12人の黒い女たち」(東京・渋谷パルコ西武劇場、大阪・大阪府立体育館) |
1977年 | 76年度毎日デザイン賞記念ショウ「Issey Miyake in Museum — 三宅一生と一枚の布」(東京・西武美術館)
ショウ「Fly With ISSEY MIYAKE」(東京・明治神宮外苑室内球技場、京都府立体育館) |
1978年 | 「〈間〉日本の時空間」展に参加(パリ・装飾美術館、ニューヨーク・クーパーヒューイット美術館) |
1979年 | ミラノで初めてコレクションを発表
米アスペン国際デザイン会議に招聘され、ショウ「Issey Miyake East Meets West」発表 |
1981年 | ショウ「ISSEY MIYAKE IT'S SO NEAT」発表(東京・明治神宮外苑室内球場、大阪・大阪府立体育館)
日産・スカイラインのキャンペーングッズとして衣服、小物デザインを始める。 11月、生活着「PLANTATION」を発表 SONY、神戸ポートアイランド博覧会サントリー館のユニフォームをデザイン |
1982年 | 『Artforum』誌(米)のカバーストーリーに紹介される(執筆:イングリッド・シシー、ジェルマーノ・チェラント)
ニューヨーク、航空母艦イントレピッド号にて83年春夏コレクションを発表。オープニングにてブランド「PLANTATION」を紹介 |
1983年 | im(アイム)グループ設立
イッセイミヤケオンリミット(IMO)設立 |
1986年 | アーヴィング・ペンによる「ISSEY MIYAKE」コレクション撮影がスタート
『Time』誌(インターナショナル版)にカバーストーリーとして紹介される(執筆:ジェイ・コックス) |
1988年 | プリーツの仕事を始める |
1989年 | 「Issey Miyake Meets Lucie Rie」展を企画実現(東京・草月ギャラリー、大阪市立東洋陶磁美術館) |
1991年 | 1991年秋冬パリコレクションにて、のちのPLEATS PLEASE ISSEY MIYAKEの原型となるニット素材のプリーツ服を発表
ウィリアム・フォーサイスとフランクフルト・バレエ団の公演「失われた委曲」のコスチュームデザイン・制作 |
1992年 | 香水「L’EAU D’ISSEY(ロードゥ イッセイ)」を発表
第25回バルセロナ・オリンピック競技大会リトアニア代表選手団の公式ユニフォームをデザイン・制作 |
1993年 | ブランド「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」スタート |
1998年 | A-POCプロジェクトを始める |
2000年 | A-POCがグッドデザイン賞・大賞受賞 |
2001年 | 「ラディカル・ファッション」展に参加(ロンドン・ヴィクトリア&アルバート美術館) |
2004年 | 財団法人 三宅一生デザイン文化財団設立
「ダオメ Dahomey 1967: Photographs by Irving Penn」展を日本民藝館と共催 「21世紀の出会い ― 共鳴、ここ・から」展(金沢21世紀美術館)にA-POC出展 |
2005年 | 「ビッグバン 20世紀の創造と破壊」展(パリ・ポンピドゥー・センター)にPLEATS PLEASE ISSEY MIYAKEを出展
横尾忠則とコラボレーション「横尾忠則が招待するイッセイミヤケ パリコレクション 1977→1999」展(富山県立近代美術館) |
2006年 | ニューヨーク近代美術館(MoMA)の建築・デザイン部門に「A-POC Queen」が所蔵され、同館の新規コレクション展にて紹介 |
2007年 | 21_21 DESIGN SIGHT開設。ディレクターに就任
REALITY LAB. を設立 |
2008年 | 21_21 DESIGN SIGHT第3回企画展「XXI c. — 21世紀人」をディレクション |
2009年 | 21_21 DESIGN SIGHT「U-Tsu-Wa/うつわ — ルーシー・リィー、ジェニファー・リー、エルンスト・ガンペール」展をディレクション |
2010年 | 21_21 DESIGN SIGHT「REALITY LAB 再生・再創造」展をディレクション
132 5. ISSEY MIYAKEを発表 |
2011年 | 内閣府の認定を受け、公益財団法人三宅一生デザイン文化財団へと移行(2月1日付) |
2012年 | 陰翳 IN-EI ISSEY MIYAKE を発表 |
2013年 | 「青森大学男子新体操部」公演開催。企画およびコスチュームデザインを手がける(クリエイション・ディレクション・コレオグラフィ:ダニエル・エズラロウ/コスチューム:HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE)<7月18日 国立代々木競技場第二体育館>
HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKEを発表 |
2014年 | パリ・カルティエ現代美術財団美術館30周年記念展「Memoire Vives(生きた記憶)」へ陰翳 IN-EI ISSEY MIYAKEを出展参加 |
2016年 | 「MANUS × MACHINA(手と機械):テクノロジー時代のファッション」展へ出展参加。(ニューヨーク・メトロポリタン美術館 5.5〜9.5)
IKKO TANAKA ISSEY MIYAKEを発表 |
2017年 | 「Items:Is Fashion Modern?」展へ出展参加。(ニューヨーク近代美術館10.1〜1.28, 2018) |
2018年 | イタリアの建築誌「domus」(2018年4月号)にて、”Issey Miyake Session One”が初めて紹介。
(執筆:ミケーレ・デ・ルッキ 写真:ジェイムズ・モリソン) |
展覧会[編集]
1983年 | 「ISSEY MIYAKE SPECTACLE: BODYWORKS」展(東京・ラフォーレ・ミュージアム飯倉、ロサンゼルス・オーティス・パーソンズ・ギャラリー、サンフランシスコ近代美術館、1985年ロンドン・ヴィクトリア&アルバート・ミュージアム) |
1988年 | 「Issey Miyake A-ŪN」展(パリ・装飾美術館) |
1990年 | 第1回ヒロシマ賞記念「三宅一生展 TEN SEN MEN」(広島市現代美術館)
「Energieën(エナジーズ)」展に参加(アムステルダム・ステデリック・ミュージアム) 「三宅一生展 プリーツ・プリーズ」(東京・東高現代美術館) |
1992年 | 「三宅一生展 ツイスト」(香川・直島コンテンポラリー・アートミュージアム) |
1997年 | 「イサム・ノグチと三宅一生 アリゾナ」展(香川・丸亀市猪熊弦一郎現代美術館) |
1998年 | 「ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」展(パリ・カルティエ現代美術財団、99年ニューヨーク・エース・ギャラリー、2000年東京都現代美術館) |
2001年 | 「A-POC MAKING : ISSEY MIYAKE & DAI FUJIWARA」展(ヴィトラ・デザイン・ミュージアム・ベルリン) |
2003年 | 「なんなの?A-POC MIYAKE ISSEY + FUJIWARA DAI」展(東京・Axisギャラリー) |
2016年 | 「MIYAKE ISSEY展 三宅一生の仕事」(東京・国立新美術館 3.16~6.13) |
受賞・栄典[編集]
1977年 | 1976年度毎日デザイン賞(毎日新聞社)(衣服デザインの分野では初) |
1984年 | 1983年度CFDA(アメリカファッションデザイナー協会)賞受賞(3月1日)
1983年度ニーマン・マーカス賞受賞(4月6日、アメリカ・ダラス) |
1990年 | 第一回ヒロシマ賞(広島市) |
1991年 | フランス 芸術文化勲章 最高位コマンドール受章 |
1992年 | 1991年度朝日賞(朝日新聞社) |
1993年 | イギリス ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(王立芸術院)より名誉博士号授与 |
1995年 | 第15回金の針賞(La Aguja de Oro)受賞(スペイン・マドリッド) |
1999年 | フランス リヨン大学より名誉博士号授与 |
2000年 | デンマーク 第一回ジョージ・ジェンセン賞(ツボウ財団)
第18回毎日ファッション大賞「ミレニアム記念賞」(毎日新聞社)(過去、同大賞を84年、89年、93年に受賞) |
2001年 | カナダ、トロントのハーバーフロントセンター「世界のクリエイティブなリーダーたち」14名のひとりに選ばれ、カナダ総督(当時)アドリエンヌ・クラークソンより授与 |
2004年 | アメリカ オハイオ州立大学ウェクスナーセンターより第11回ウェクスナー賞 |
2005年 | 第17回高松宮殿下記念世界文化賞〈彫刻部門〉(財団法人日本美術協会) |
2006年 | 第22回京都賞〈思想・芸術部門〉(財団法人稲盛財団) |
2010年 | 平成二十二年度文化勲章授章(11月3日、皇居にて親授)(97年紫綬褒章、98年文化功労者へそれぞれ顕彰を経て) |
2016年 | フランス レジオンドヌール勲章 最高位コマンドール受章 |
2019年 | 令和元年度の「東京都名誉都民」へ顕彰(顕彰式10月1日 小池百合子知事より) |
出版物[編集]
1978年 | 『三宅一生の発想と展開 - Issey Miyake east meets west』 | 平凡社 |
1982年 | 『Katsu on Issey』 | CBSソニー出版 |
1983年 | 『三宅一生/ボディワークス』 | 小学館 |
1985年 | 『一生たち』 | 旺文社 |
1988年 | 『ISSEY MIYAKE: PHOTOGRAPHS BY IRVING PENN』 | リブロポート |
1995年 | 『ISSEY MIYAKE』 | TASCHEN |
1998年 | 『ISSEY MIYAKE MAKING THINGS』 | AXIS inc. |
1999年 | 『アーヴィング・ペン 三宅一生の仕事への視点』 | 求龍堂 |
2005年 | 『横尾忠則が招待する イッセイミヤケ パリコレクション 1977→1999』 | 美術出版社 |
2008年 | 『XXIc. - 21世紀人』 | 求龍堂 |
2012年 | 『PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE』北村みどり編 | TASCHEN |
2013年 | 『三宅一生 未来のデザインを語る』 | 岩波書店 |
2016年 | 『MIYAKE ISSEY展: 三宅一生の仕事』 | 求龍堂 |
『ISSEY MIYAKE 三宅一生』北村みどり編 | TASCHEN | |
『Creativity is born 三宅一生|再生・再創造』清水早苗著 | パイ インターナショナル | |
2017年 | 『イッセイさんはどこから来たの? ——三宅一生の人と仕事』小池一子著 | HeHe/ヒヒ |
脚注[編集]
- ^ “トップページ > 顕彰 > 三宅 一生(みやけ・いっせい) - 広島県ホームページ”. 広島県 (2011年12月1日). 2018年7月6日閲覧。
- ^ “広島市名誉市民に 三宅一生氏 森下洋子氏”. 中国新聞 ヒロシマ平和メディアセンター (2010年9月3日). 2018年7月6日閲覧。
- ^ a b “広島名誉市民 三宅一生さんに称号贈呈”. ヒロシマ平和メディアセンター (中国新聞社). (2011年2月11日) 2017年5月13日閲覧。
- ^ “服飾デザイナーの三宅一生さん(附属東雲中学校卒業生)が文化勲章を受賞されます”. 広島大学 (2010年10月29日). 2018年7月6日閲覧。
- ^ “校長あいさつ 第36代校長 河田 敦之”. 広島国泰寺高等学校オフィシャルウェブサイト. 2018年7月6日閲覧。
- ^ a b c “初めて語る被爆体験 デザイナー三宅一生の生き方(上)”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). (2015年12月15日). オリジナルの2015年12月15日時点におけるアーカイブ。 2017年5月13日閲覧。
- ^ 「激動の90年、歴史を動かした90人 三宅一生 洋のない洋服 生駒芳子」『文藝春秋』、文藝春秋、2013年1月、 284-285頁。
- ^ a b 「天風録」中国新聞、2009年7月17日1面。
- ^ a b c d e f g “三宅一生の仕事と考え方”. MIYAKE DESIGN STUDIO. 2011年11月6日閲覧。
- ^ “三宅 一生│第22回(2006年)受賞者│京都賞”. Inamori Foundation. 2018年7月6日閲覧。
- ^ a b Issey Miyake 2016.
- ^ a b c d e f g h 「《対談》 時代とファッション 三宅一生 篠山紀信」『人生読本 ファッション』河出書房新社、1981年、186-194頁。(朝日新聞社刊『紀信快談』1976年11月所収)。
- ^ ““ヨウジ”や“ギャルソン”が成功した理由”. 東洋経済オンライン. (2014年9月4日) 2017年5月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g “初めて語る被爆体験 デザイナー三宅一生の生き方(下)”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). (2015年12月15日). オリジナルの2015年12月15日時点におけるアーカイブ。 2017年5月13日閲覧。
- ^ a b c d e “国立新美術館で「MIYAKE ISSEY展: 三宅一生の仕事」が開催”. GQ JAPAN (2016年5月12日). 2017年5月13日閲覧。
- ^ a b c “再生の糸、一枚の布 三宅一生さん、秋に新シリーズ発表”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2010年8月24日). オリジナルの2017年5月12日時点におけるアーカイブ。 2017年5月13日閲覧。
- ^ ““ヨウジ”や“ギャルソン”が成功した理由、p-2”. 東洋経済オンライン. (2014年9月4日) 2017年5月13日閲覧。
- ^ “深井晃子、藤本壮介、長谷川祐子が語る「Future Beauty 日本ファッションの未来性」”. Fashion Press (2012年8月3日). 2017年5月13日閲覧。
- ^ a b 生駒芳子 (2013年11月15日). “日本人デザイナーが拓く、日本の繊維の未来”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社) 2017年5月13日閲覧。
- ^ “YUIMA NAKAZATO/中里唯馬---編集長×気鋭デザイナー対談 Part 10”. VOGUE JAPAN (2017年3月17日). 2017年5月13日閲覧。
- ^ “その「ものづくり」はどこから来るのか”. T JAPAN (2017年1月7日). 2017年5月13日閲覧。
- ^ a b “三宅一生・プリーツプリーズの20年 ひだが作る普遍の美”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2012年11月29日). オリジナルの2017年5月13日時点におけるアーカイブ。 2017年5月13日閲覧。
- ^ “上間常正のファッションノート 「リアリティ・ラボ イッセイミヤケ」に見る新しいもの作りの形”. 広告朝日 (朝日新聞社). (2014年2月6日). オリジナルの2017年5月12日時点におけるアーカイブ。 2017年5月13日閲覧。
- ^ 稲盛財団 第22回(2006年)受賞者(Internet Archive)
- ^ 三宅一生さん 「レジオン・ドヌール」コマンドール章授与
- ^ ISSEY MIYAKE (2009年7月13日). “A Flash of Memory” (英語). ニューヨーク・タイムズ 2009年7月17日閲覧。
- ^ “オバマ大統領、核廃絶に向けた演説詳報”. 朝日新聞. (2009年4月5日) 2009年7月17日閲覧。
- ^ a b “三宅一生さん、被爆体験告白=オバマ大統領の広島訪問期待-米紙”. 時事通信. (2009年7月15日) 2009年7月17日閲覧。
- ^ a b “三宅一生さん 被爆体験を初めて告白”. 産経新聞. (2009年7月15日) 2009年7月17日閲覧。
- ^ 『新人国紀1』 朝日新聞社 1982年 114頁。
- ^ “厳戒訪問 細心の舞台裏 広島にオバマ氏 被爆者に直前打診 献花台急きょ特注”. 中国新聞. (2016年6月3日) 2016年8月12日閲覧。
参考文献[編集]
- 『一生たち』旺文社、三宅デザイン事務所編、1985年
- Issey Miyake『ISSEY MIYAKE 三宅一生』北村みどり、TASCHEN、2016年3月。ISBN 978-3836555227。