三隅兼連

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三隅 兼連
伝三隅兼連の五輪塔.jpg
生誕 不詳
死没 正平[要曖昧さ回避]10年 1355年3月12日[要検証]
別名 三角 入道
戒名 信性
墓所 島根県浜田市三隅町正法寺
島根県浜田市三隅町三隅神社
官位正五位
主君 後醍醐天皇
氏族 三隅氏、三角氏
兄弟 兼連
兼知
特記
事項
旗章は六角形の中に久の字、義重於泰山 死軽於鴻毛

三隅 兼連(みすみ かねつら)は、日本南北朝時代武将。 終始宮方(南朝方)として戦い、その活動の一端は『太平記』に三角 入道として記されている。 正平10年(1355)3月12日京都桂川で戦死。

生涯[編集]

石見国三隅(島根県浜田市三隅町三隅荘の地頭で高城山に主城を構えた三隅城第4代当主[1]

元弘3年(1334)2月隠岐をのがれ船上山によりたまう後醍醐天皇のもとに馳せ参ずる

正平5年(1350)8月足利尊氏の命を受けた高師泰率いる2万3千余騎の大軍を迎え撃ってここ高城山三隅城に籠れる兼連以下の将卒は百余日の激戦の末これを撃退する

正平9年(1354)5月より軍を起し途中の敵城を落し入れ

正平10年(1355)1月入京して勝利を南朝に奏する、同年3月12日洛中桂川にて壮烈な戦死を遂げる

大正15年(1922年)9月正五位を賜わる

昭和12年(1937)4月社殿竣工し鎮座大祭を執行する[2]


太平記』には以下の記述がある

三角入道謀反の事3

ここに、石見国の住人三角入道、右兵衛佐直冬の下知に随つて国中を打ち随へ、庄園を掠め領し、逆威を恣にすと聞こえければ、事の大きさにならぬ前に退治すべしとて、越後守師泰、6月20日都を立つて、路次の軍勢を相順へ、2万余騎の勢を率し、石見国へ発向す。

石見国内32か所の城が落ち、三隅城のみとなるが[3]

越後守師泰石見国より引つ返す事、付美作国の事6

観応の擾乱の余波で高師泰は呼び戻され、[4]

翌正平6年高一族は足利直義派に討ち取られた。

その他・逸話[編集]

兼連が終始南朝方だった契機の一つに、奈良の真言宗般若寺本性明覚が石見地方に来て教化した事があげられ その明覚について仏門に入り、信性という法号をえている。

正平10年、京都洛中の戦いに倒れた兼連は「自分の墓は東(都みやこ)に向けてくれ」と遺言したので、墓所の五輪塔は「東向の墓」とも呼ばれている。[5]

地方史学者藤岡大拙の著書『山陰の武将』では、兼連に関する書物という項目で以下の出典が挙げられている。

㈠三隅一族勤皇事蹟(原稿本)野津左馬之助編 大正11年(1922年)(島根県立図書館蔵)

🉂石見三隅史蹟 木村晩翠著 大正15年刊 (1926年)

🉁島根県史第六篇 野津左馬之助著 昭和2年刊 (1927年)

㈣南朝忠臣三隅兼連 木村晩翠編 昭和7年刊 (1932年)

㈤三隅兼連公 木村晩翠著 雑誌「大島根評論」225号所収

㈥三隅町誌 昭和46年刊 (1971年)

だが記述はほとんど同じで種本は『三隅一族勤皇事蹟』であり、大半は三隅の郷土史家木村晩翠の執筆で兼連を世に出した功績は大きいが その著述に利用した資料や文献は明記されていないが、出典不明な部分を削り取ると三隅兼連の人物像は全くといってよいほど書けなくなってしまうとのことである。[6]

画像集[編集]

出典[編集]

  1. ^ 五輪塔説明版
  2. ^ 三隅神社抄
  3. ^ 太平記P331~338
  4. ^ 太平記P401
  5. ^ 五輪塔説明板
  6. ^ 山陰の武将P77~78

参考文献[編集]

  • 伝三隅兼連の五輪塔説明板
  • 三隅神社抄
  • 兵藤裕己 校注『太平記』(四)岩波文庫2015年10月16日
  • 藤岡大拙・藤澤秀晴『山陰の武将』山陰中央新報社昭和49年(1974年)4月30日平成8年(1996年)10月15日復刻初版

関連項目[編集]

こちらでは兼連が南朝についた理由の一つとして、元に備えた築城費用などで疲弊し幕府や益田氏本家への反発があったとの説あり。